第3話 獣を欺く戦略

 朝靄が、森の奥を淡く包んでいた。


 光の粒が霧の中に漂い、葉に付いた露がゆっくりと滴る。

 その静かな世界の中で、俺は“音”の網を広げていた。


 枝が軋む音。

 獣が地面を踏む振動。

 遠くの川が流れる低い響き。


 森のあらゆる音が、俺の意識の中で立体的に浮かび上がっていく。

 昨日、進化のような感覚を得てから、

 俺の“聴覚”は格段に鋭くなっていた。


「……すごいな。森全体が地図みたいに見える」


『見える、っていうか“聞こえる”でしょ?』


 レナの声が、すぐ近くから響く。

 彼女は腰に短剣を差し、肩に小さな地図帳をかけて歩いていた。

 地面に落ちた獣の足跡を確かめながら、慎重に前へ進む。


『セイル、ここに獣の足跡がある。大きい、たぶんウルク狼』


「ウルク狼……昨日のオーガよりも厄介だな」


『うん。群れで動くし、声で合図しあうの』


「声、か」


 俺は興味を覚えた。

 つまり――声を操る者にとって、格好の研究対象というわけだ。


「レナ、少し距離を取ってくれ。観察してみたい」


『観察って……危ないよ?』


「大丈夫だ。俺の“声”は届く。危なくなったらすぐ知らせる」


 レナは渋々うなずき、木の陰に隠れた。


 俺は森の音に意識を集中させる。

 風の流れに混じって、低い唸り声がいくつも重なる。

 ウルク狼たちだ。

 彼らは獲物を囲い込み、鳴き声で連携を取っている。


 右の個体が「グルゥ」と唸る。

 それに呼応して、左の個体が低く「ガウッ」と返す。


 ――なるほど、声のパターンで位置を知らせているのか。


「なら、試してみようか」


 俺は息を吸い込む……いや、正確には“世界の空気”を感じ取って、

 ウルク狼の声を完全に模倣して放った。


「グルゥ……ガウッ!」


 空気が震える。

 近くの狼たちが、はっと動きを止めた。

 その反応に、思わず笑みがこぼれる。


『セイル、今の……! 本物みたいだった!』


「どうやら、俺の“声”は模倣にも適してるらしい」


 狼たちは混乱し、互いに警戒を始めた。

 鳴き声が次第に乱れ、隊列が崩れていく。


「よし、もう一押しだ」


 今度は少し離れた場所から、別の声を放つ。

 方角をずらし、同じタイミングで反対方向にも“囁き”を響かせた。


「ガウッ! グルッ!」


 錯覚が生まれる。

 群れの中で仲間の声があちこちから聞こえ、位置の把握ができなくなる。

 ウルク狼たちは互いを敵と誤認し、牙を剥いた。


『すごい……ほんとに混乱してる!』


「声の連携を壊せば、群れはただの獣になる」


 レナが小さく息を呑む。

 木陰からその光景を見ている彼女の瞳は、驚きと興奮に揺れていた。


 その時、ひときわ大きな唸り声が響いた。

 群れの奥から現れた一体――“群れ長”だ。


 他の狼より一回り大きく、毛並みも黒く艶めいている。

 黄金の眼が森を貫くように光った。


「……やばいな。リーダー格だ」


『どうするの?』


「少し、実験してみよう」


 俺は群れ長の声を分析し、その声質を真似て響かせた。


「グルゥ――退け」


 短く、鋭く。

 命令の意志を込めた音。


 その瞬間、周囲の狼たちが一斉に動きを止めた。

 体を低くし、尻尾を下げる。

 完全に“上位命令”として受け取ったようだった。


『……効いた。』


「声の模倣だけじゃない。命令の“構造”があるんだ。

 たぶん、音に意志を乗せる波が存在してる」


 レナはぽかんと口を開けた。


『そんなの、魔術師でも難しいよ?』


「まぁ、俺は魔術師じゃないからな。代わりに、声が俺の“魔力”なんだろう」


 群れ長が一歩前に出た。

 その眼光が鋭く、空気が震える。

 模倣は効いたが、完全に支配できてはいない。


「……レナ、距離を取れ」


『うん!』


 レナが素早く木々の影に隠れた瞬間、

 群れ長が一気に駆け出した。


 ――速い。


 黒い閃光のように、地面を蹴って迫る。

 俺は瞬時に複数の声を放ち、反対方向に幻影の音を散らす。


「こっちだ!」

「違う、後ろだ!」


 群れ長が動きを乱す。

 森の中に響く声が、まるで複数の存在が取り囲むように錯覚させる。


 そして――

 レナが木の上から飛び出した。


『セイル! 今だ!』


 彼女が持つ短剣が、陽光を受けて閃いた。

 群れ長の肩をかすめる一閃。

 深くは入らないが、その瞬間に俺は声を重ねる。


「退けぇッ!」


 轟音のような“声”が森を揺らした。

 群れ長がたたらを踏み、仲間たちが一斉に怯えて後退する。

 群れはそのまま霧の奥へと逃げ去った。


 残されたのは、静寂。

 そして、レナの荒い息だけだった。


『……勝った、の?』


「勝ったな。声だけで」


 風が吹き抜け、草の匂いが漂う。

 レナは膝をつき、安堵の笑みを浮かべた。


『あなた、本当にすごいよ。魔法みたい』


「いや、これは戦略だ。

 “見えない力”を利用するだけで、戦いの形は変えられる」


 その時だった。

 俺の中に、またあの感覚が走った。


 空気が震え、意識の中心に光が灯る。

 熱と冷気が交じり合い、何かが形を取ろうとしている。


『セイル、どうしたの!?』


「……まただ。何かが起きてる」


 光が広がり、俺の“声”が空気の中で形を持ちはじめた。

 淡い蒼の粒子が集まり、人の輪郭のような影を作る。


 レナが目を見張る。


『それ……あなたの、姿……?』


「いや、違う。これは“幻”だ。けど――動かせる」


 俺は意識を集中させる。

 声の波が粒子を揺らし、幻の腕がゆっくりと持ち上がった。

 まるで音の波が形を取ったように。


 ――初進化。幻声体。


 その言葉が、頭の中に響いた。


 俺は、自分の存在がもう“声だけ”ではないことを感じた。

 風の中に揺れる、確かな影。

 それは世界に刻まれた、俺という“意志”の形だった。


『セイル……綺麗……』


「そうか?」


『うん。なんか、光が生きてるみたい』


 レナの言葉に、少しだけ照れくさくなる。

 けれど、彼女の目に映る自分の“形”を見て、心の奥が温かくなった。


 ――この世界に、確かに“いる”と感じたのは、これが初めてだった。


「レナ」


『なに?』


「この森を守るために、俺たちはもう一歩踏み出せる。

 声と姿を合わせれば、次は“誰かに見える存在”になれる」


 レナは微笑み、力強くうなずいた。


『じゃあ、次はこの森を“私たちの居場所”にしよう。

 誰にも奪われないように。』


「ああ、約束だ」


 風が吹き、幻の光が揺れる。

 森がゆっくりと、俺たちの気配を受け入れるようにざわめいた。


 そして、俺の中で確信が芽生える。


 この進化は、始まりに過ぎない。

 声が形を持ち、次は――世界そのものを動かす。


 俺たちの戦いは、まだ“序章”にも届いていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る