第2話 森の静寂に名を刻む
夜が、森を覆っていた。
風が木々を撫でるたび、葉の擦れる音が波のように寄せては返す。
昼間の熱気が抜け、ひんやりとした静けさが辺りを満たしていた。
俺――セイルは、その静寂の中で“聴いていた”。
草の揺れ、羽虫の羽音、土の中の小動物の動き。
音だけではない。気配というより、世界の震えが伝わってくる。
レナは小さな焚き火を囲み、膝を抱えて座っていた。
薄茶色の髪を一つに結び、ボロ布のような外套を肩にかけている。
炎が彼女の頬を赤く照らし、儚げな影を生んでいた。
『ねぇ、セイル。』
「なんだ?」
『さっきのオーガ、村に戻って報告した方がいいと思う?』
「やめとけ。おそらく、君の村は“信じない”。」
『……だろうね。』
レナは苦く笑う。
火の粉が舞い、夜空へ消えた。
「それより、あのオーガはまだ近くにいる。完全に去ったわけじゃない」
『どうしてわかるの?』
「気配が濃い。森の呼吸が乱れてる」
俺は風の流れを読みながら答える。
目に見えないけれど、周囲の空気は俺の神経のように敏感に震えている。
どうやら“声の魔”という存在は、聴覚だけでなく、
広範囲の感知能力を持っているらしい。
『ねぇ、セイル。』
「ん?」
『あなた、本当に“人間”だったの?』
少しの間を置いて、俺は答える。
「……ああ。少なくとも、前はな」
『覚えてる? 自分の世界のこと』
「断片的にな。高い建物が並んでて、鉄の馬が走ってた」
『鉄の……馬?』
「まぁ、そんな感じだ。もう随分前のことのように思える」
レナは、目を細めて焚き火を見つめる。
その瞳の奥に、興味と少しの寂しさが浮かんでいた。
『いいな。知らない世界……。私、一度も村の外に出たことないんだ。』
「この森の見張りをしてるのに?」
『うん。ずっとここにいる。みんな森を“呪われた地”って言っててね。
森の外に出ても、誰も戻ってこない。だから、私は見張り名目で“残されてる”だけ』
「……残されてる?」
『使い道がない子は、村の“守りの役”にされるの。
本当は、ただの厄介払いなんだよ』
その言葉に、胸が少し痛んだ。
俺は彼女を励ます資格なんてない。ただの声だ。
けれど、黙っていることもできなかった。
「なら、証明してやろう」
『え?』
「君が“必要な人間”だって。俺が手伝う」
レナは驚いたように顔を上げた。
そして、少し笑う。
『……ありがとう。でも、どうやって?』
「簡単だ。森の全体図を作る」
『森の……地図?』
「そう。俺は広く感知できる。君は動ける。
俺が感知した地形を、君が確かめて描けばいい」
レナは火の明かりの中で目を瞬かせ、
次の瞬間、頬を少し紅潮させて立ち上がった。
『それなら、私にもできる!』
「なら決まりだな。明日から作業を始めよう」
森の夜が静かに深まっていく。
火の明かりが小さくなり、虫の音が一層強く響いた。
――その時だった。
地の底を這うような低い唸りが、遠くから響く。
オーガとは違う。もっと鈍く、重たい音。
「……何か来る」
『どこから?』
「北東。木々の間を抜けて……三つの足音。人間だ」
『人間!? こんな時間に?』
レナが慌てて焚き火を消す。
闇が一気に濃くなり、世界が沈黙に包まれた。
俺は音を追う。
革の靴。鎖帷子の擦れる音。
そして、何より鼻につく――鉄と血の匂い。
「レナ、隠れろ。奴らは村人じゃない」
『どういうこと?』
「盗賊だ。しかも“狩り慣れてる”」
森を狩場とする、傭兵上がりの連中。
その動きは正確で、互いの位置を声に出さずに把握している。
単なる野盗じゃない。
レナは木の根元に身を伏せた。
息を潜めながら、俺の声だけが彼女の耳に届く。
「右手の岩陰、弓持ちがいる。左に剣士二人」
『見えてないのに、どうしてわかるの?』
「音だ。呼吸と重心の傾きでわかる」
盗賊たちの囁きが、かすかに森に混じる。
「……灯りが見えた」「女の声だった」「捕らえて売る」
吐き気がするほど冷たい声。
俺の中で、何かが静かに沸いた。
「レナ、動くな。俺が合図する」
『うん……』
彼女の鼓動が、耳に届くようだった。
俺は思考を研ぎ澄ませ、空気を操るように声を紡ぐ。
「――前方、敵だ」
盗賊の一人が、突然振り向いた。
暗闇の中、誰かの声を聞いたように。
「おい、誰だ!」
だが仲間は答えない。代わりに別方向から、
「敵だ、囲まれたぞ!」という声が響く。
それは――俺の“声”。
盗賊たちの頭上で、まるで別の仲間が叫んでいるように錯覚させた。
混乱が生まれる。弓が外れ、剣士が身構える。
『今!?』
「今だ、南に走れ!」
レナは音もなく飛び出し、草をかき分けて駆け抜けた。
盗賊たちは反対方向を警戒し、完全に逆を向いている。
――成功だ。
森の奥へと逃げるレナの背を、俺は気配で追った。
彼女の息が荒く、何度も枝にぶつかる。
だが、生きている。
『セイル……! すごいよ……!』
「まだ気を抜くな。追ってくるぞ」
案の定、背後から怒号が響いた。
「どこだ!?」「幻術か!?」
声の方向が定まらない。
俺がわざと“複数の声”を響かせて、彼らの聴覚を狂わせているからだ。
やがて、森の流れが静まり、追手の気配が消えた。
レナは膝をつき、荒い息を吐く。
『はぁ……はぁ……助かった……』
「ふぅ……なんとか、な」
風が吹き、木々がざわめく。
森が、また呼吸を取り戻していた。
『ねぇ、セイル。』
「なんだ?」
『あなた、本当に“声だけ”で戦えるんだね』
「戦ってるっていうより、騙してるだけだ」
『でも、それが“戦い”だよ。』
レナは微笑んだ。
その笑みは、焚き火よりも温かく、どこか芯の強さを宿していた。
『私ね、やっと見つけた気がする。――居場所』
「居場所?」
『うん。あなたと話してると、不思議と怖くない。
誰にも必要とされなかったけど……今は、少し違う気がする』
風が二人の間を抜けていく。
言葉を交わすたびに、世界がほんの少しだけ色を持つ気がした。
「じゃあ、約束だな」
『約束?』
「俺はこの森を“地図”に変える。
君は、その地図を“生きる場所”に変える」
『うん、約束する』
彼女の声が柔らかく響く。
その瞬間、俺の中に小さな違和感が生まれた。
熱のようなものが、意識の中心で灯る。
透明な何かが、形を取り始めている。
「……これは?」
『どうしたの?』
「わからん。けど……俺、何か“進化”してる」
意識の中に、新たな感覚が広がる。
空気の揺らぎを、より鮮明に感じ取れる。
今まで点でしか認識できなかった森の景色が、
線として、面として、浮かび上がる。
――“共鳴感知”スキルを獲得。
頭の奥で、そんな声がした気がした。
初めて得た、明確な“進化”。
声だけだった存在が、確かに一歩、世界に触れた瞬間だった。
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