10話 ごめんなさい/珠薊瑠璃
「ただいま」
うちに帰って声を投げると、いつもとは違い、「お帰りなさい」とリビングの方から返事が返って来た。もう二十時近いしみんな帰ってるんだ。
リビングに入ると、台所で洗いものをしていたお母さんがにこやかに振り返ってくる。
「ごはん、温めようか?」
「大丈夫、自分でやるから。ありがと」
テーブルの上にラップをかけておかれていたシチューを電子レンジに入れ、タイマーを押す。他にも炊飯器からお茶碗にご飯をよそったり、箸とスプーンを用意したり、てきぱきとこなす。ちょっとでも手間取るとお母さんが手伝おうとするの。
私が怪我ばっかりしてた中学の時の習慣が抜けてないんだ。気を抜くと小さい頃以上に世話を焼かれそうになる。
「今日は、学校の友達とお買い物に行ってたんだっけ? 楽しかった?」
「友達じゃなくてただのクラスメイトだよ。文化祭の出し物で使う材料探しだし、遊んでたわけじゃない」
「あら、そうなの。そうなんだ……」
冷蔵庫に入れておいたピッチャーからグラスにお茶を注いでいると、なんだか含みがある様子でお母さんが思案顔をしたことに気が付く。どういうことだろう。
「そんなに意外?」
尋ねると、お母さんは確認するように聞いてきた。
「今日一緒だったのって、純ちゃんじゃないのよね?」
「そりゃ、あいつ高校違うし」
「そうだよね」
一体何が言いたいんだろう。訝しんでいると、リビングのソファでスマホを弄っていた中一の弟がむすっとしながらこっちを見てきた。
「もしかして姉ちゃん、彼氏できた?」
「はぁ? 何言ってんの?」
「だって最近、なんか楽しそうじゃん。帰り遅いし」
つんつんとした声色で、不機嫌なのを隠そうともしていない。この頃そっけなかったのはそういう勘違いをしていたからか。
「だから、文化祭実行委員の仕事だって言ってるでしょ」
「それほんとなの? 姉ちゃんヤンキーになってからもそういうのしてなかったじゃん」
どうやら弟は私をとことん疑っているらしい。シスコンなのは可愛いけど、弟は弟でお母さんとは別ベクトルで過保護なんだよね。
弟なのに、私の帰りが遅いと迎えに来ようとしたりするし。今日だってラインが来ていた。もちろん断ったけど。
「だから、それも言ったでしょ。隣の席の奴に嵌められたの」
「それ虐められてるってこと? どこのどいつ?」
「だぁから、そういうんでもないって。そいつ、まあなんというか……私と仲良くなりたいみたいで。だから同じ実行委員になる為に嵌めてきたの。で、それに気付かなかった私の落ち度もあるし、まあそいつもそんなに悪い奴じゃないから、真面目に仕事してるわけ」
「ふうん……そいつが彼氏?」
「違うから。そもそも女子だし。四六時中付き纏ってきて……まあ、飽きない奴だよ」
小鈴蘭丸のことを思いながら口にする。
結局あの後、まるで気を見計らったみたいに機材を抱えた深淵菖蒲が入って来て、入れ替わりに私は帰って来たからレッスンの見学はしていない。引き止められるかとも思ったけどすんなり帰してくれたし。
だから正直、あのスタジオとやらに何をしに行ったのかはわからない。行って、帰って来ただけ。
ただ、無駄だったとは思わないけど。
シチューのチンが終わるのを待つ間、リビングの椅子に座ったまま膝に視線を落とす。
まだ小鈴蘭丸のぬくもりが残っているみたいだ。まさかあいつに昔の話をするとは思わなかったけど、その結果泣かれるとも思ってなかった。
そして、あの時膝に触れたあいつの指先と、膝に落ちてきたあいつの涙が、あんなに熱いとは思わなかった。
ああやってあいつに膝に触れられてから、不思議と脚が軽いんだ。これまで痛みはなくとも、軋むような違和感が拭えなかった膝が嘘みたいに滑らかでさ。
鬱屈としたなんとも言えない重圧というか、気怠さが身体からなくなったみたいだった。
これまでずっと独りで抱えてきた痛みの記憶を、きっと、あいつが共感してくれたからだ。
もちろん、小鈴蘭丸の過去に何があったかはわからない。でも両親が亡くなっているだなんて、何か重大なことがあったんだろうなとは思う。
きっとあいつ自身は普通の人間であっても、普通じゃないことがあったんだ。
そして普通なくせして、それでも前を向き、努力しているあいつのことを、純粋に凄いと思った。
傷付いて、諦めて、自分の死体を見つめるようにして停滞している私とは大違いだ。
「そいつ、ちんちくりんでひょろひょろでぽんこつなのに、アイドル目指しててさ。一所懸命、自分にできることをやってて。覚悟ばっかり、こっちがびびっちゃうくらい一丁前で。おまけに……多分、きっと凄い良い奴なんだ。なのにストーカーみたいに付き纏ってきて、何やってんのって感じでさ」
話していると、お風呂から出て来たらしいお父さんが髪を拭きながらリビングに入って来た。
そうして、私を見てにかっとお調子者らしく明るく笑う。
「おお、お帰り瑠璃。なんだぁ〝そんなにこにこして〟。今日、良いことでもあったのか? 俺にも聞かせてくれ」
「は? ……え?」
指摘されて、咄嗟に自分の頬を抑える。すると緩んだ口元が指先に触れて、かぁっと顔が熱くなる。
……にこにこしてた? え? いつから? 待って、なんで?
驚いているうちに、チンっと電子レンジがお仕事完了しましたと訴える。でも反応できない。
するといつの間にか洗い物を終えていたお母さんが、ここぞとばかりに電子レンジを開き、ラップを取って、シチューを私の前に置いてくれる。
そして、本当に心から嬉しそうに笑った。
「高校に入って、良い友達ができたみたいね。よかったわ」
その慈しむような表情に、唇を尖らせてしまう。
「だ、だからそんなじゃないって。ただのクラスメイトで、隣の席なだけだから」
「へえ、それで話すようになったのね。なんていう子なの? 今度純ちゃんみたいに連れて来る? あ、それならお菓子買っとかないと、」
「ああもう! うるさいから! そういうんじゃないって言ってるでしょ! ほら、私食べたらすぐお風呂入るから、それまでにお母さんもお風呂済ませて!」
「ふふふ、はーい」
上機嫌そうにリビングを出て行くお母さんを見るに、多分帰ってきた時から私はどこか浮かれていたんだ。だから友達がどうとか、楽しかったかとか聞いてきたんだろう。
「なんだ、瑠璃に新しい友達ができたのか? イメチェンして瑠璃も更に可愛くなったし、ようやく世界が瑠璃の新しい可愛さに気付き始めたんだな」
「えぇ、そう? 姉ちゃん前のが絶対可愛かったよ。髪染めてるの似合わない」
「お、大也は清楚っぽいのがタイプか。母さんが今そうだからなぁ。でもああ見えて母さんだって高校の時はイケイケで、それこそ今の瑠璃みたいにつんつんしてて、話しかけるのに苦労したんだよなぁ」
「お父さんも大也もきもいから。親の惚気とか一番だるいし、大也は私に彼氏がどうこう言ってくる前に、彼女の一人や二人作りなよ。顔は良いんだし、スマホゲームばっかしてないでさ」
「き、きもい……か、そ、そうか、お父さん、気を付けるな……ごめんな……」
「しょうがないじゃん、姉ちゃんくらい可愛い女子なんて画面の中くらいにしかいないんだし」
落ち込むお父さんと、あっけらかんとしたままスマホゲームを続ける弟の大也を交互に見る。
本当、みんな私のことが大好きなんだから。
そうして胸の浅い所まで温かい感情が浮いてきて、同時に、その温もりがちくりとした痛みを記憶の彼方から引っ張り上げる。
そんな愛しい家族の期待に……私は、応えられなかったんだ。
するとまた、膝に軋むような違和感が過った。
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