9話 まだ痛いけど/小鈴蘭丸

 菖蒲ちゃんの家のスタジオは、なんと地下にあるんです!

 高級住宅街の中、丘の上にある一際大きな一軒家が菖蒲ちゃんの実家です。


 しかし一度玄関を通るとあちこちに段ボールやら衣服やらが散乱しています。これは二階と三階が全部衣裳部屋やら倉庫になっていて、そこに入りきらないモノが溢れているからですね。

 ちなみに一階は主に書斎やジム、撮影スペースが並び、地下にダンスルームとレコーディングブースがあるという作りです。生活感は一切ありません。


 というのも、ここは菖蒲ちゃんの実家ではありますが、今住んでいるのは菖蒲ちゃんだけなんです。菖蒲ちゃんの両親はずっと昔に離婚してしまっているみたいですからね。

 そして菖蒲ちゃんも一月の半分くらいはうちで寝泊まりしていますし、この家は完全に仕事場として使っているというわけです。


 そんな菖蒲ちゃんの家に着くなり、置いていたレッスン着に着替えます。地下まで階段で降り、壁一面が鏡張りのダンスルームに三人で入る。


「すっご……何この家。マジのレッスンスタジオなんだけど……」


 流石の珠薊さんも借りてきた猫みたいになっています。落ち着かないのかそわそわしっぱなしです。ちなみに珠薊さんだけは制服のままです。


「ていうか、そもそもなんで私まで連れて来られたの? これからレッスンなんでしょ? 邪魔じゃない?」


 しかし、それでもつんと気丈に言ってのけるところにプライドを感じます。珠薊さんは結構負けず嫌いな性格みたいですからねっ。


「なんでって、そんなの瑠璃もユニットの一員なんだから、ここにいて当然でしょう? 何を言っているの?」

「そうですよ珠薊さん! あ、ちなみにトイレは一階の廊下の突き当りですので! 冷蔵庫はリビングにありますけど、自分のに名前書いてないと菖蒲ちゃんが食べちゃいますので気を付けてくださいっ!」

「あ、ああ、わかっ……って、ないから! そのもう私がアイドルになるの了承して、一緒にユニット組んで、ある程度やってる体で話すのやめて! 二対一でそれされると頭がおかしくなりそうになる!」

「ちっ、もう少しだったのに」

「あと一押し、頑張りましょう!」

「なんなのあんたら……」


 ため息を吐いて、珠薊さんはダンスルームの隅のベンチに座ります。なんだかんだとすぐに帰らないところを見るに、やっぱり少しはアイドルに興味が出始めているということでしょう!


「それじゃあ蘭丸、まずはストレッチからね。私は機材の準備してくるから」

「はーい!」


 切り替えた菖蒲ちゃんが一階へと戻っていきます。映像記録をするためのカメラとか三脚とか、データを使うためのノートパソコンを取りに行っているんです。

 難しいことはよくわかりませんが、菖蒲ちゃんはそういう機械を使ってわたしや菖蒲ちゃん自身のレッスンを毎日管理していますから。


 そうして菖蒲ちゃんに教えられたストレッチを一つ一つ、ゆっくり十秒数えながら体をほぐしていきます。

 背中や太腿、ふくらはぎの大きな筋肉だけじゃなく、足首や膝、腰、肩といった間接もぐるぐる回したりしながら、これから運動するぞって体に言い聞かせます。


「ふぅん、ちゃんとしてるんだ」


 そんなわたしのストレッチを見ていた珠薊さんが呟きました。


「はい! わたし身体動かすのは得意じゃないので、ストレッチとか、筋トレとか、そういう自分にでもできるところからしっかりやっていきたいんです」

「そっか……いいじゃん」


 険がとれて柔らかくなった目つきが印象的です。カラーコンタクトを入れているらしい金色の瞳は、わたしを見ているというよりもわたしを通して遠い彼方の何かを見つめているみたい。


 言葉にはしがたいですが、そこには様々な温度の感情があるように思います。親しみと恐怖、憧憬と悔恨、希望と絶望。眩しそうでいて、暗く影がかかったような表情。


 相反する様々なものがせめぎ合い、引っ張り合い、それらを上からまとめて包帯でぐるぐる巻きにして見えなくしているというのが珠薊さんなのだと、最近ようやく気が付いてきました。


「珠薊さんは、どうしてアイドルが嫌いなんですか?」


 尋ねると、彼女は殻に閉じこもるようにすっと一度目を閉じて、それからいつもの刺々しい目つきに戻りました。


 しかしその目つきを向けているのは、珠薊さん自身のようにも感じます。彼女は自嘲気味に口を開きました。


「別に、大層な理由があるわけじゃないよ。くだらない理由だから」

「くだらなくても知りたいです」


 ストレッチをしながら真っすぐ聞くと、「相変わらずしつこいな」と苦笑して珠薊さんは教えてくれました。


「私ね、小さい頃から去年の中三まで、ずっとフィギュアスケートしてたの。小学生くらいまでは全国でも優勝したりしてたんだけど、中学に上がってからは成長期がきて、身体もこんなに大きくなって、感覚が狂っちゃってさ。そのせいで転けて怪我して、不調になって、怪我してって繰り返してたら、両膝がぼろぼろになって、滑れなくなったんだ」


 まるで他人事のようにさらさらと言ってのけます。でも、その気持ちはなんとなくわかりました。

 人間、辛すぎる過去からは目を背けて、自分とは切り離してしまうものですから。


 わたしも、両親が殺されてからは、ずっとそうです。


「怪我をして辞めちゃったんですね」

「うん。そしてまあ、昔からドルオタの友達が居たんだけどさ。そうやってフィギュアを辞めた日に、励ますつもりでアイドルのMVを送ってくれて。でもそのアイドル達の、力強くて、楽しそうで、全力を尽くしたステージと……何よりも、そんなアイドルを見て幸せそうなファンを見て、全然違う畑だけど、自分と重ねちゃったんだ」


 ベンチの上で足を組み、膝を撫でる手つきは、まるで死人の頬でも撫でているみたいでした。

 平坦で、冷たくて、硬い声音で珠薊さんは続けます。


「私にも、ああして応援してくれる人達が居た。家族もそうだし、コーチも友達も、他にも沢山。でも、私はせっかくみんなが掛けてくれたその期待に応えられなかった。あんなアイドル達みたいに踊れず、壊れた。今のあんたみたいに自分にできる限りのことはしたけど、それでも私の身体は夢の重みに耐えられなかった。もともと、私に誰かの期待を背負う資格なんてなかったんだ」


 そうして珠薊さんは深いため息を吐きました。彼女の癖であるため息ですが、まるで内臓の全てを圧し潰して吐き捨てるような、生命そのものが零れ落ちていくため息です。


 霧散する熱の気配。空っぽな空洞を吹き抜けてきた、温い風。


「だから、私がアイドルを嫌いなのはただの逆恨み。アイドルだけじゃないよ。ダンスとかバレエをしてる人も嫌い。踊って人の期待に応えてしまえる人がみんな嫌い。見ていると、心臓が握り潰されたみたいに痛くなる。私がどう足掻いても出来なかったことを、あんなに華々しく、眩くやってみせる全ての存在が嫌い」


 昏い傷みを湛えた瞳は、凍てついた湖面のように寒々しく、閉ざされていました。


「見ていると、また……自分の中の大事なナニカが、壊れてしまいそうな気持ちになる」


 言い切ると、珠薊さんはまた自嘲気味に笑ってわたしを見ました。

 そんな彼女の姿があまりにも痛々しく、儚げで、わたしは……。


「ね、言ったでしょ。くだらない理由だよ。所詮私なんて、きらきらしている人に嫉妬してるだけのしょうもない奴で……って、ちょっと」


 わたしを見た珠薊さんは、ぎょっとして驚いた後、呆れたみたいに頬を掻きました。


「……なんであんたが泣いてんの」

「え?」


 指摘されて頬に触れると、初めて濡れていることに気が付きます。自覚するともう止まりませんでした。

 身体の底から込み上がって来た大きな感情の奔流がわたしの情緒を揺さぶり、激しく珠薊さんに共鳴していたんです。


 人生で直面する、運命という大きな、本当に大きな得体のしれないうねり。その巨大な力を前に脆く崩れ去り、打ち壊され、ばらばらに引き裂かれた時の無力感。

 そういったものは、きっと誰しも経験があるんだと思います。


 自分がどれだけ望んで、どれだけ力を尽くしたとしても、こんなちっぽけな一人の人間を嘲笑うように全てを破壊してしまう力の大きさと、怖さ。


 蘇る。

 わたしの十歳の誕生日。

 お父さんとお母さんが、十歳だからって、県外の大きな遊園地に連れて行ってくれて。

 その帰りの電車で、刃物を持った男が急に暴れ始めて、わたしはうごけなくて。

 二人は、そんなわたしをかばって。


 ちのうみのなか、どれだけにぎりしめても、だきしめても、つめたくなっていって。


「わたしも……わたしも、わかります。わたしも、小さい頃、わたしを護る為に、お父さんとお母さんが死んじゃって。わたし、なにもできなくて。どうしようも、ないことって……たくさん、ありますよね。急に、なんで……なんで、わたしなんだって」


 わたしが馬鹿なせいでうまく言葉にできません。感情があっちこっちに荒れ狂って考えが纏まらない。

 珠薊さんの過去の絶望という奈落の穴に、心や血といった私というものを構成する海が引き摺り込まれて、大きな一つの渦潮になったみたい。

 全部がぐるぐる、混ぜ合わされる。


 ストレッチも二の次に、引き寄せられるようにして珠薊さんに近寄り、その白くて細い綺麗な膝へと指先で触れました。


「もう、痛くないですか?」

「……うん、痛くないよ」


 そう答えてくれた声音が、やっぱり優しい。わたしが珠薊さんの膝に触れるのと同じ様に、きらきらなネイルに彩られた彼女の指先が、そっとわたしの手の甲に触れる。


「あんたは、痛くない?」

「わたしは……まだ、時々痛いです。色々、昔のこと、思い出す時があって」


 傷を舐め合う獣のように、交互に言葉を重ねていく。互いの傷口を塞ぎ合うように。


「でも菖蒲ちゃんが居てくれるから、痛くても、大丈夫なんです」


 わたしが両親を亡くしてから、菖蒲ちゃんはよくうちに来てくれるようになりました。東京でアイドルをしている時も暇があれば帰って来てくれたり、電話をしてくれて、ずっと支えてくれたんです。


 そうしてベンチに座る珠薊さんの膝に触れたまま、彼女を見上げます。


「だから今度は、わたしが菖蒲ちゃんを支える番なんです」


 すると珠薊さんは、わたしを見つめる為に俯いたまま、目尻だけを緩めました。


「そっか、やっぱり強いね、あんた。見かけによらず」


 そういった彼女の声は微かに震えていて、今にも泣き出しそうだと感じました。

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