03「ダーリン、お前のせいで何人の女が泣き濡れたか! 地獄で作法を請うがいい、その手が罪以外を知るまで何度でも! 」後
◇
チーン。
複合ビルの屋上庭園にエレベーターのベルが鳴る。平日の昼下がりという時刻を鑑みれば、本来ここは人々の憩いの場であるはずだった。しかし、その営みは屋上庭園入り口前に建てられた立ち入り禁止の立て札によって阻まれた。
メシャクの革靴が人工庭園の歩道を進む。足音が一陣の風に巻き上げられる。緑と花壇だけが揺れさんざめいていた。メシャクはガンケースをベンチに置いて開錠する。そこに眠るのは、組み立て一式のスナイパーライフルである。着実な手付きと速度で組み立てられたそれを脇に抱え、双眼鏡で下界を遠望する。
戦線は膠着状態にあった。
逃亡中のダーリンはどうやら用心深い。それが綿密な計算か、苦痛の疲労によるものか、単なる臆病心かは定まらない。しかし、目撃者の証言を組み合わせるに用心深さという線は恐らく可能性が低い。
恐らく、ダーリンは復活直後の個体だろう。規則で雁字搦めの都市ILY4EVEで、異能を暴走させるほど迂闊なダーリンが長期滞在していたとは考え難い。
逃亡中のダーリンは異能の暴走前から不審な挙動だったと言う。ダーリンはタイミングも場所も知らされず突如として地上へ甦る。地獄からの復活直後、自身でも状況を把握できずに混乱するケースは少なくない。
メシャクの双眼鏡は地上を隈なく覗く。地上にはとあるオフィスビルを囲んで配置したAg:47戦闘員三名が位置についた。彼らはメシャクの麾下で情報を連携し、ダーリンの潜伏推測区域を半径5mにまで絞り込むことに成功していた。連携を取りながら戦線を押し上げる。彼らは皆、次に取るべき行動に備えて息を整えた。
メシャクはスナイパーライフルを二脚の上に組み立てて全身を地へ伏せった。最も安定した射撃姿勢、伏射。静止物と一体化するかのように全身が密着する。照準、姿勢、視界。万事に問題なしと、メシャクは頷いた。この姿勢は、石砂の匂いがやけに近い。砂嵐とともにインカムが共有された。
「射撃準備。α、対象をA地点へ誘導しろ。」
電子機器越しに緊張が伝わる。呼吸を惜しむほどの静寂が、一帯を支配していた。風が梢を通り抜けたその時、αと呼ばれた職員はダーリンへ威嚇射撃を発射する。拳銃。シンプルかつ幅の広い武器は、発砲音でダーリンを刺激する。
「こちらβ。対象、A地点へ到着。奇襲を実行します。」
βと呼ばれた組織内ダーリンは異能による身体強化を得る。ダーリンの戦闘能力を加味し、一撃で昏倒させる。それがβの狙いだった。轟音とともに振りかぶられた拳がダーリンの咄嗟の防御ごと身体を吹き飛ばす。
木に叩きつけられたダーリンは肉体的損傷を負っている。骨と臓器に影響があるはずだ。もはやダーリンは立つこともできまい。βが昏倒するダーリンへ近付く。すると、βは異変を察する。———ない。流れる血が、変色した皮膚が、折れ曲がった関節が。あらゆる損傷の痕跡が、消えている。
その時だった。立ち尽くしていたβの身体がなにかの衝撃波を受けたように吹き飛ばされる。βの肉体は建物の壁に強打された。
「………蘇生系の異能と、攻撃系の異能? 」
スコープで現場を監視していたメシャクは溢した。ダーリンに与えられる異能は一つ。作用が枝分けしようと、たった一つの異能に還元されるはずだ。ダーリンの異能の正体はまだ見えない。
「α。βを援護してやれ。」
「了解。」
αは潜んでいた物陰からダーリンを射撃する。当たらない。しかし、ダーリンの気を逸らすことに成功した。もはやダーリンは逃げないだろう。その異能を現したのだ。ここから始まるのは、ダーリンの意識を奪うまで続けられる戦闘である。
ダーリンは立ち上がって呟く。その声は、指揮官に伝わることなくその場へ響いた。
「やり直そう。死ねば終わりの人生だ。一度の失態が命取りになるこの街で、俺は死んだ。死んで、甦った、これがたった一つのラストチャンスだった。」
……やり直そう、オルドポルター。俺の人生はもっと、マシな幸福があったはずだったんだ。
執念じみた声を拾うことが出来たのは現場にいた隊員、αとβだけである。ダーリンはみな一度は地獄へ堕ちた悪人だ。しかし、どうして地獄に堕ちたのか、なぜ悪人へと身を堕としたのかは———悪人それぞれ、事情があると言うものだろう?
◇[newpage]
事件はいつだって現場で起こっている。現場には一瞬一瞬に緊張が宿った。刹那の先の未来がどちらへ転がるか、その運命を見届けるのは現場の者たち。
———αがダーリンの声音を拾った時、「いけない」と感じた。ダーリン、彼の気配には追われ奇襲を掛けられてなお再起を図る執念がある。Ag:47職員であるαの勘は、ここから全面的な戦闘が始まる予感を持った。捕獲用に待機させていたΩへインカムを繋ぐ。
「Ωを援護に回して。ここで確実に包囲します。」
「許す。Ω。中距離からの撹乱で対象のリズムを崩せ。」
ダーリンは言った。「やり直そう」、と。
逃亡者としてなんとか生き延びているこの状況に対する発破であろうか。
「β。起きろ。負傷の程度と戦闘復帰への所要時間を共有しろ。」
メシャクが後方へ吹き飛ばされたβへ声を掛ける。αはダーリンの挙動に注視しており、βの状況を知る術がない。βは組織内ダーリンである。戦闘特化型のβをしてこの程度で戦闘不能となることはないと、誰もが認識していた。
「……30秒ほどで。」
「長い。お前の異能は身体組織の修復も可能なはずだ。」
何に時間を取っている?
インカムを共有する者ならばメシャクの言葉の裏が乱れもなく伝わった。
「
メシャクは眉頭を微かに歪めた。
「お前は組織の役に立っている。甦ってから犯罪に手を染めたこともない。思考に浸るだけ時間の無駄だ。早急に復帰しろ。」
「了解。可及的速やかに努めます。」
「異能の実態は不明。身体蘇生能力と身体強化の能力を備えるβを前線に。αとΩは支援を。目的は管理外ダーリンの捕縛。」
最悪、始末しても構わん。
メシャクの最後の一声に緊迫が走った。αらの視線の交差点には一体のダーリンが佇んだ。彼の口角には仄暗い笑みが浮かび上がる。自分ただひとりだけがかつての恋人と復縁を信じているかのような、現実を遮蔽する笑み。オルドポルター市民がダーリンの危険性を読み取るには、微笑み一つで事足りる。
「悪いな、兄弟。アンタの気持ちも分かるが……、今世の俺は皮肉なことに正義の犬だ。アンタを見過ごしてはやれない。」
インカムを切ったβが呟いた。βはすでに復帰していた。スーツに着いた砂埃をはたき落としながら捕縛対象へと一歩を歩み進める。βの台詞は戦場に立つ者の耳にのみ届いた。ダーリンは一度は死んだ者である。彼らにとって、二度目の生は確かに希望の韻律を孕んでいた。
アスファルトの道に一陣の風が吹き抜ける。街路樹の梢の音が鳴り止む前に、足音は断たれた。———一瞬にしてゼロ距離を可能にする跳躍によって。
βがダーリンを軽々と飛び越える。跳躍により背後まで飛び上がったβは、逆さまに墜落するさなか、空中からダーリンを蹴り上げた。ダーリンは間一髪で身を屈めて避ける。ダーリンは振り向いてβを視界へ映した。深海のような眸が世界を飲み込む。
「———
βが異変に気付いた時、すでにβは吹き飛ばされていた。防御を貫通して叩き付けられるような衝撃。先ほどの一撃と同等の重量感が襲い来る。重い。しかし、二度目だ。先ほどと同質の攻撃に身体は対処を覚え始める。筋肉組織の修復と並行し着地を取った。
同時に、距離を取って戦況を見ていたαとΩの身に衝撃派が襲い掛かる。ダーリンが二人に対して攻撃態勢を取った場面はなかった。避けようのない攻撃に、二名は短い悲鳴を上げて沈む。
ダーリンは攻撃動作なしで対象に攻撃を加えることが出来る。異能の条件が一つクリアになった。しかし、同時に謎が鮮明になる。
「……なあアンタ、抵抗はやめてAg:47に入れ。アンタの異能は有用だ。Ag:47に入れば、俺たちみたいな悪人でもやり直せる。贖罪も、正義も、人としての生き方だって。罪を犯さず生きることが出来る。……それがお前のするべき『やり直し』だよ。」
ダーリンの耳には入らない。———暴走状態。逃走、追跡、異能の発現、戦闘。甦りというイベントの後に立て続けに起こる事件に対しての混乱が爆発したのだろう。荒い呼吸、光の灯らない瞳孔、ダーリンは今、視界に入るものすべて敵として認識している。
異能不明のダーリン。戦況の劣勢。それら情勢を遠方で一望している職員が、まだ一人残されている。メシャクだ。メシャクのスコープはダーリンを捉えている。メシャクはインカムに囁く。
「β、戦況が変わった。ダーリンの捕縛はいい。———殺せ。」
αとΩはいまだ砂埃の中で身を伏せている。戦闘特化型のダーリンでさえ吹き飛ぶ攻撃を受けたのだ。迅速な治療を受けるべき傷を受けたことは想像が出来た。つまり、ダーリンへの死刑宣告を聞き届けたのは、βだけだった。
「えっ………と。早急じゃありません? 俺が説得します。まだ奴には組織に入れる余地がある。市民の殺害履歴もないんでしょう? 」
βは己の狼狽を努めて取り繕う。ここでβが引けば、目前のダーリンは容易く撃ち殺されるのだろう。かえって軽快な風の声音がインカムを通り抜ける。
「説得か。この状況で? 」
メシャクが短く突き付ける現実。駆け付けた戦闘員の半分が正体不明の異能によってやられている。甘いことを言っている場合か、と、暗に責められている。
「奴は『やり直し』と繰り返してる。きっとそれに関係する異能ですよ。異能は規則性が分からなければ脅威だが、解き明かしてしまえば恐れるものじゃない。アンタも知ってるでしょ? 」
「その推測は非常に有用だ。αとΩが倒れる前であれば。———β。お前にダーリンを殺す意志があるか? 」
メシャクは銃弾を抜き取った。鉛玉から銀製の弾頭へ取り替える。マガジンから抜き取った鉛玉を歯に咥え、銀弾を差し込む。装填完了後、ボルトハンドルを前進させ弾丸を内部へと閉じ込める。
「…………ある。もちろんありますよ。害となるダーリンを殺すこと。それが正義の第一条件だ。だが、コイツはまだ……。コイツはまだ、明確な害と決まった訳じゃない。お願いだ。猶予をくれ。コイツと話す時間が欲しい。」
メシャクのスコープはふたたびダーリンに照準を合わせた。視界を遮るもののない最善の立地。角度、風向き、視界。全てはスコープの中で最善に保たれた。
「そうか。許可する。」
Ag:47組織によるダーリン討伐。それは、地獄から特別切符を受け取り甦ったダーリンが二度と地上へ顔を見せることのできなくなる特別な
「……感謝する。アンタに心から感謝する日が来るとは思わなかったよ。出来るだけ早く済ませる———」
インカムから音質の荒い声が流れる。気の抜けた一瞬。それこそが、狙撃における最善の瞬間。最善の瞬間にだけ、狙撃者のトリガーは引かれる。
———発砲音。身を接していた地面が振動する。静まったオフィスビル群に乾いた破裂音がこだました。音を吸収する木々はどこにもない。都市が死を反芻するように、音は反響して、消えていく。
指圧に迷いはない。心の乱れもない。息は整えられたまま、引き金は精確に引かれた。
「———説得を許可する。地獄の底でな。」
スコープガラスに黒い花が咲いた。滴るような花びらの、滴り落ちていくだけの花だった。一発の銀弾が二人のダーリンを射抜いていた。βの頭蓋と、逃走ダーリンの胸部を。
彼らの死に赤い血は流れない。嘲笑うような鉛色の体液が染みて、やがて肉体は泥となり崩落する。ダーリン、お前の生は幻だった。そう言わんばかりに。
幻の恋人、幻の生。
甦ったことそのものが過ちだったかのように、ダーリンの肉体は生の痕跡を残さぬ泥となる。
爛れ落ちていく腕がなにかを掴もうとして、滴り落ちた。最期には、黒蝋の水溜まりが二つ残されただけだった。ここにあった二つの魂は、もう地上にはない。
◇
メシャク・バッドベストは狙撃手である。
遠距離からの後方支援と現場指揮がもっぱらの役割だ。役割柄戦況の把握に長じ、なにより前衛が倒れても比較的攻撃を受けにくい配置にある彼は、もっぱら始末書を請負うことが多かった。
特に今回は前衛一名負傷・中距離支援一名負傷。加えて、前衛ダーリン一体破棄という結果で報告書に手を付けられる者がメシャクしかいないという物理的な事情がある。対象ダーリン及びβの破棄後、αとΩは病院へと搬送された。無傷でAg:47 ILY4EVE支部へと戻ったメシャクは、本件の報告書に加えてβ破棄における報告書、βの組織脱退手続き等々始末に追われることになる。
死の後始末はいつだって生者の専任だ。
メシャクは万年筆を手に取り、フォーマットが異なる原紙複数をデスクに広げていた。やや煩わしい作業だが、この組織で職員をするにあたり慣れない訳にもいかない作業。彼はとりわけ慣れていた。事件の報告書についても、ダーリン破棄の始末書についても。
彼のペン先は紙面にβの管理番号とコードネームを記す。管理番号は組織に加入したダーリンに付与されるランダムな数字だ。そういえばβの管理番号はこんなものだったかと、感慨が湧く。
「…………。」
感慨が湧く。しかし、それだけだった。
合理性を重んじるILY4EVEで、情による説得やそれによる掃討遅延など、鼻で笑われて仕方のない行為だ。
正義を掲げるこの組織だが、正義感の強い連中はよくくたばる。正義の執行に善良性は重荷となる。βもまた、正義感の強い連中の一人だった。
書類を記し終えたメシャクは書類を担当の部署へと提出しにデスクを立ち上がる。今日は早く寮へ戻ることが出来るだろう。それが、彼が一握の迷いもなく引き金を引いた成果だった。
Ag:47は掲げる。このオルドポルターに甦ったダーリンの数だけ、銀の弾丸が製造されなければならない。全てのダーリンを地獄へ封じ込め、地獄の間欠泉に蓋を閉じること。それがAg:47の役割である。
———地獄の蓋は、まだ閉じられていない。
メシャクは廊下を歩みながら指先で眉頭を揉んだ。進めるべきプロジェクトのことを思い出したのだ。
「……ああ、ディアクイーンの報告を元にB!D_RID_;)の調査にも取り掛からねばならないな。」
ダーリンと関連性濃厚と思われる闇金融系組織、B!D_RID_;)。Ag:47の銃口は、彼らのこめかみにも照準が当てられる。彼らがダーリンと結び付く限り、必ず。銀弾の製造は彼らの侵入が途絶えるまで続く。彼らの心臓の数だけトリガーは引かれる。
ダーリン・ランデブー!
それが
◇
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