02「ダーリン、お前の対価が愛だとして、お前の値段が愛だとする。愛というXになにを代入すれば満足か? 」後


 そこからラケルは転がるようにエレベーターへ乗り込んだ。ラケルと警備員を隔てるガラス窓の向こう側で、警備員がインカムに「報告」を吹き込む図が、最後に見た地下の光景だった。荷物庫の階へ到着したラケルを待ち構えるは、報告を受けた警備員らだ。警報を受けて集まって来たのだろう。


「助けて! 地下でまだ侵入者が暴れてる! 」

 ラケルは一か八かで被害者の口振を真似た。

「そうか。ところでウェイター姿の不審人物がエレベーターに搭乗してくると報告を受けたが、心当たりはないか? 」

 一切通用しなかった。ラケル、もとい侵入者の情報は正しく共有され始めているようだった。

 

「さすがにキビしいか。」


 ラケルは身を屈めて警備員の股下を潜って転がる。人間の壁をくぐり抜けて、通路を駆けた。裏通路と非常階段を活用し警備員を撒く。ラケルは潜入にあたって、劇場の見取り図を頭に叩き込んでいる。錆びれたドアを静かに開けると、そこは無人のオペレーター室が広がっている。舞台上手に設置されたオペレーター室からはステージが展望出来る。幕はまだ開かない。しかし、客は徐々に集まり始めていた。


 ラケルの指先は展望のガラス窓手前に並ぶ操作卓の上を走る。

「さて、照明はこの辺り? ———違っても私には関係ないんだけど。」


 揶揄うような軽薄さで、指の踊りはいくつか適当なスイッチバーを下ろす。すると座席側の照明が暗転する。少しばかり予想とは違ったが、これはこれで。ラケルはガラス窓越しに暗闇の客席を見遣ると、成果に納得し頷いた。


 ラケルは逃亡路をバックヤードから観客席へと切り替えた。近場のスタッフ用通路から観客席へ降りて暗闇に紛れる。会場はどよめきが広がっていた。そのまま駆け足でシアター前のホールへ移る。誰の目にも留まらぬまま、微かな足音と息が闇を通り抜けていった。ホールはすでに閑散としていた。豪奢な家具とインテリアだけが眩しいほどに煌々と佇んでいる。手を庇にして光を遮った。暗転の後の照明の、なんと目に痛いこと! ラケルの駆け足は素早く休憩室へと到達した。服を拝借したウェイターを縛っている幕帳を開いて、ドレスとヒールを取り戻す。

 ウェイターはすでに意識を取り戻し、どうにか拘束を抜けようともがく最中であった。ラケルはウェイターの頭を蹴り上げふたたび昏倒させる。

 

「女の着替えを覗くつもり? この給仕服なら返してやるから、大人しく寝てな。」


 休憩室からふたたび姿を現す時、ラケルは令嬢の装いへと変身していた。最初に休憩室を訪れた時と違う点を挙げるとすれば、綺麗に撫で付けられた髪型と、逃亡者の油断ないまなざしか。ベルベットの幕帳の内側では、相変わらず半裸のウェイターが縛り付けられた。彼のもとに給仕服が放られているが、縛られた彼にその衣服を纏う術がどこにあろうか?



 ラケルの逃亡劇はバックヤードだけで終わらない。

 先ほどエレベーターでラケルを阻んだ警備員のひとりが休憩室前を徘徊している。警戒体制を敷かれた今スタッフ用通路は使えない。観客席で身を潜めるにも警備員を突破する必要がある。ラケルは思考する。この場でラケルのメリットに傾く要素があるとすれば、一般客も通る区画であるということ。


 計算と賭け。小さく頷いてラケルは警備員の前に一歩を踏み出した。警備員はすぐにラケルを見抜いて捕えようとする。ラケルはそれを躱して、ホールへ続く道を駆けた。事情を知らない警備員やウェイターが一見瞠目のために静止する。そして、後ろから警備員が追っているのを見てようやく事態を把握した。「あいつを捕まえろ! あの女が侵入者だ! 」と、警備員は触れ回って追い掛けるのだ。


「あはは! こんな広い場所で追いかけっこができるなんて、普通にオークションに参加するよりも贅沢だったかもね。」


 ラケルは何人もの追手を引き連れてホールへ再登場する。サンバーストのシャンデリアの直下にはひとり、男性客が佇んでいた。シャンパンゴールドのタキシードを品よく着こなした、柔和と上品を無理なく織りなす佇まいの紳士である。いかにも争いごとや手荒ごとに疎そうな客。それは、ラケルがこの逃走劇を突破するために必要なパーツだ。ラケルは彼を視界に入れるや、胸もとへと縋りついた。それはもう、弱々しく、困憊したように縋り頼った。


「助けて、パパ! あの方たちは私を拐おうとなさっているんです。こんな怖い思いは初めて。お願い、私を助けて……。」


 その言い回しは楚々とした令嬢、父親とはぐれた令嬢という演技の地続きからくる、ほんの設定に過ぎなかった。咄嗟に出る言葉が「助けて、パパ」という身近な庇護者へのSOS。その方が哀れみが増すだろうという計算であり、ラケルは続けて「ごめんなさい。パパと間違えてしまって」と口を挟む用意はできていた。


 

 しかし、そのほんの小さな出まかせが、出会いの符号を合致させるピースになってしまった。


 だって、その「パパ」という言葉を受けて、男は微笑んだのだから。その言葉があればどんな要望も引き受けるとばかりに。まるで、その要望は彼女が願う前から叶えられると知っていたとばかりに。

 男の唇が開かれた。開いてはならない門が開くように。シャンデリアの下に、ひとりの地獄が立っている。


「もちろんだとも、わが娘。私の家族ファミリー。このお父さまがお前の恐ろしいものをすべて取り払ってあげよう。」


 男は樽香が染みて滴るようにラケルを目視して微笑んだ。手套に覆われた手指がラケルの肩を優しく抱き寄せた。優美で気遣わしげなその所作が、膚への触れ合いが、いやにラケルの寒気を誘う。


「その小夜啼鳥の声で教えておくれ、わが娘。お前を苛むのはどこの不躾者か。私が罰するべきは、いったい誰か? 」


 ラケルは背筋に冷たいものを覚えていた。

 シャンパンゴールドのタキシード。重たげなまなぶちの奥に灯る幽かな気配。どこか古風を思わす品良いまなじりと、ベースの羊毛色に毛先からフォーンが染みてグラデーションを描いた優雅な巻き髪。見てくればかりはDEAR<3におあつらえ向きの姿をしている。

 しかし、この男はいささか、危険グレーかもしれない。


 ラケルは警戒を滲ませながら追手を指で示す。

 彼がどんな存在であろうと、彼を使って追手を追い払わねばラケルに退路はない。令嬢の演技は続行される。紳士に肩を抱き寄せられながら、ラケルは追手に指を差して言った。

 

「あの方たちです。あの方たちは私を侵入者だって仰るの。どうかあの方たちの誤解を解いて! 願い、『パパ』!」


 ホール中央ではふたりの男女が身を寄せ合った。彼らを目的地点として警備員は駆け寄ろうとする。大理石の床に抑制の効いた紳士淑女の足音以外が鳴り響くのを、パレス劇場は静かに見守っていた。


「Sir! その泥棒猫は侵入者です。悪いことを言おうってんじゃありません。あなたのためにも、その女を早くわれわれに引き渡すのが賢明な判断というモンですよ。」


 警備員はふたりの警戒のまなざしを受けて、男との交渉に取り掛かろうとする。交渉の主品は侵入者の泥棒猫。警備員といっても客のいる手前に騒ぎは立てられない、オークション・ブランドを損なう手荒い捕縛に踏み切りあぐねているのが伺えた。

 


「———止まりなさい。」


 紳士が外敵へ開口する。それは上流階級者の厳粛な響きと強制力が備わる声色だった。まるで、その声を聴いたもの全てから、従う以外の選択を奪うかのような。ラケルは肩をわずかに震わす。紳士はジャケットの金鈕を外してラケルへと羽織らせた。一歩を踏み出し、その男は警備員らと相対する。


「私の家族ファミリーを嘲罵するのは、果たしてどこの家紋の者か? 名乗るために口を開くことを許そう。さあ、お名乗り。」


 ラケルに家族などいない。いや、かつてはいた。しかし、今は父親の背負った負債のために散り散りになっている。負債の事実が詳らかになった時、ラケルは家族を見放した。ラケルをプリンセスのように扱った大好きだったパパに、世界で最も鋭く冷たい視線を向けた。

 警備員らは口々にネームを名乗る。それが自分の意思なのか、紳士による圧力ゆえなのか、この場において徐々に歪み始めている。


「よろしい。では、お前たち。」


 ———彼女のことは


 そんなものは、荒唐無稽な令達だった。記憶することは不可逆である。忘れたふりをすることはできても、忘れよと命じられて実行できる人間はない。脳の構造上、意識という現象上、不可能である。

 不可能であるはずなのだ。


 ダーリンという存在でない限り。

 異能の保有という、地獄の恩恵の授かりでもない限り。



「お前たちは彼女を知らない。彼女を追わない。彼女は侵入者ではない。そう心得なさい。この戒めごとをお前たちの胸に刻んだならば、礼をして立ち去りなさい。」



 きらめかしい照明とクローム装飾の反射光。光ならばこのホールに満ちているはずで、視界を晴らしているはずだった。しかし男の舌が音を成すたびに、意味が命令を織りなすたびに視界が歪んでいく。彩度が奪われ、世界の彩色がウィスタリア・パープルとマリーゴールドの織りなす幾何学に侵食をされる。脳髄が重たくなるような、他世界の宗教に精神の侵食を喰らうような。

 警備員らはただの言葉により、五感を翻弄されていた。


 彼らの出来ることは、焦点の失った眸で敬礼をしてバックヤードへ立ち去ることだった。


 ラケルの脳裏に先ほど見たキャプションの一節が蘇る。


 

“———ダーリン・ランデヴー!

 

 これは、あなたとダーリンだけの世界に唯一にして随一の物語。”

 


 ふたりだけが取り残されたホールにアナウンスが流れ始める。劇場席の音声が漏れているようだった。


 紳士淑女の皆さま! ようこそおいで下さいました。本日は愛すべきダーリン、哀れなるダーリンと彼らに纏わるロットをご用意しております———。


 BID_R!D_;)のオークションが始まった。

 BID_R!D_;)ビッド・リッド・ウィンク。“Buy it. Break it. Forget it. ;)” 入札・制裁・そして、またのご来訪を! 彼らのモットーとは、そんなふざけた三拍子である。


 ◇


 パレス劇場の外へ出ると、日没がDEAR<3の街並みを覆っていた。石畳の街路に鮮やかなマリーゴールド・カラーが差し込む。建物の隙間から差す一条の夕日が花壇の金鳳花にスポットライトを当てている。


「言っておくけど、私はお前の家族でも娘でもないから。あの時は追っ手を撒く必要があったから娘の振りをしていただけ。家族探しなら他を当たってくれる? 」


 ラケルはヒールを石畳に打ち付けながら最寄りの駅へと向かっていた。シャンパンゴールドのタキシードが彼女の肩を覆い隠している。


「お前は僕のかつての家族に似ていたんだ。彼女が僕にふたたび会いに来てくれたのだと思ったけれど。違うのなら違うで構わないよ。家族とは、突然の運命と必然の結び付きで生まれる絆なのだから。」


 男はオペラシューズで石畳の上を踏み鳴らしながら夕空を見上げていた。その姿は先ほどの異質な毒気を抜かれたように、市民的で無害だった。


「間違いない、私以外に適用される絆だ。お前の運命の出会いを願うよ。私に関係のないシアタールームで、どうぞ夢見ててくださいな。」


「夢を見ないことが現実的だなんていうのは、それは人生に対する狭窄だ。僕たちは利口である振りなんてしなくていいんだよ。それに、お前が本当に現実主義の子ならば、あのパレス劇場に忍び込む無鉄砲をどう説明すると? 」


 ドレスコードに身を包んだ男女は、男の異能によって劇場パレスを脱出した。夜会の早い終焉のように、心細やかなエスコートを伴って、黒服の男たちの恭しい礼を受けながら脱出をした。すべては彼の異能が可能にした異常事態だった。


「仕事とプライベート、両方だよ。」


 結局、ラケルはBID_R!D_;)がダーリンを取り扱っているという明確な証拠は掴み損ねた。しかし100%に近い可能性を報告することはできる。ラケルはハンドバッグに視線を遣る。ラケルは、バッグのなかにダーリン拘束具に添付されていたキャプション紙を収奪していた。その情報をバッドベスト、Ag:47の男がいくらの値段を付けるかは未定だ。


「オークションでダーリンを扱っている証拠が仕事。BID_R!D_;)の連中の弱みを握りたかったのがプライベート。」


「それは失敬。お前はどこまでも現実的なレディだったね。」


 無鉄砲の代償として、ラケルはオークションとは関係のないダーリンと遭遇してしまった。ダーリン発見の際、市民には報告の義務が課せられる。しかしそんな都市秩序、ラケルの興味の範疇外である。


「お前のことはチクらないでいてあげる。お前は私の恩人でもある。そもそも、チクったところで私にメリットがないからね。」


 駅を前にして男が立ち止まった。見送りはここで終わるという意味だった。人ならざる彼にも、帰る場所はあるのだろうか。羽織を男のもとへ投げ返せば、夕風が少し膚に冷える。


「もう二度と会わないといいね。お前、名前は? 」


「きっと再び出会うよ。運命の数はそう多くはないのだから。———メフヤエル。メフヤエル・ヘレニアム。お前が父を必要とする時に、きっと現れる者の名前だとも。」


「そう。私はラケル。ラケル・ディアクイーン。」


 ラケルはメフヤエルに背を向けた。駅舎は勤め人が混み合い始める頃合いだ。その人だかりを、一度もぶつかることなくラケルは潜り抜ける。


 ラケル・ディアクイーン。家族愛も、郷愁も、すべて18の頃にこの地区に投げ捨てて飛び立った女の名前だ。

 やがて最期の悲鳴のような夕日も落ち切って、一色の闇夜に染まるだろう。きっと今頃、パレス劇場では最後のロットナンバーがアナウンスされている。


 ダーリンランデヴー。

 その値札にいくらの額が与えられるか?

 それは、会場に残った消費者諸君が決定すればいい。


 ◇

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