02「ダーリン、お前の対価が愛だとして、お前の値段が愛だとする。愛というXになにを代入すれば満足か? 」前

◇ [newpage]


 ———BID_R!D_;)ビッド・リッド・ウィンク

 それはオルドポルターに息衝く犯罪組織のひとつ。債権回収からマネーロンダリングに裏カジノまで。数年前は一事務所にたむろチンケな闇金系組織でしかなかった彼らは、ラケルの転落と反比例するように調子を上げていた。

 なぜか? 答えは明白。ラケルの父親の資産を根こそぎ差押えてから、奴らの景気は落ちることを知らない。


 ギルデッド・フレームの三面鏡にはイヴニングドレスに身を包んだ女が写っていた。旧パレス劇場を押収したヴィクトリア朝様式の建物は、今では古典主義を勘違いした闇金融組織のエンターテインメントへと転用された。そこは一角パウダールームでさえ、漏れなく成金的な装飾へ塗り替えられている。

 女は唇へ一等深いガーネットを引いた。彼女はラケル・ディアクイーンだった。ホルターネック、マーメイドラインの黒いワンピースドレスを装えば上流階級のオークション会場の客と見紛う。それもそのはず、彼女は十八までDEAR<3地区育ちの生粋の令嬢だったのだから。


 ———ラケルはバッドベストの口車に乗せられてやった。彼女が今降り立つのは生まれ故郷のDEAR<3。そして、BID_R!D_;)のDEAR<3展開拠点となるだろう、オークション会場の旧パレス劇場。今夜、ここで非合法オークションが開かれる。LALAbye NO.09でバッドベストと飲み交わした晩から独自に情報収集を重ね、辿り着いた確かな事実だ。ラケルの到達を祝うかのように、会場には上流階級の装いをした紳士淑女が続々と姿を現してはホールへ消えていく。入場客が入るたび、開閉扉の隙間から音楽と談笑の声が漏れていた。

 ホールへの入場には招待状の開示が必要だというのが、ラケルの集めた事前情報である。そしてラケルのハンドバッグには、当然ながら招かれし客としての証の用意がない。では、どうするか?


 ラケルは紅の唇を吊り上げ、ロングチェーンのピアスを整えて髪糸を耳裏へ流した。ミラーには黒の令嬢が映っている。鏡像の彼女は表情を二転三転とする。強気の相好、不安げな相好、見惚れたような相好。最後に彼女の輪郭に残ったのは、楚々とした無垢の乙女のおもざしだった。


 彼女はパウダールームから足を踏み出す。

 

 目前を通行する年代の近い歳上の男に近寄る。男は2人組だった。

「私のパパをご存知ありません? ここで待っていてってお願いしたはずなんです。……いやだ。パパったらまた私を放って先に行っちゃったの? 」


 育ちのいい令嬢のハプニングに、手を貸さないでいられる紳士は少ない。彼らは顔を見合わせてジャケットからラケルに招待状を出して見せた。そこには「BID_R!D_;)」の刻印があった。

「ご心配なく、お嬢さん。俺たちがあなたのお父君のもとまで連れて行って差し上げますから。」

「ありがとう、ご親切な方。よろしければホールまで私を連れてくださる? パパを探し出すのには慣れていますから、ホールまで行けばきっとすぐに見つかります。」


 ラケル、もとい父親とはぐれたと名乗る女は若い紳士に腕を絡めてドアマンの目を掻い潜った。ホールにはオークション前の猶予を楽しむ紳士淑女がまばらに滞在する。開演には、まだ一刻ほど早い。ラケルは紳士に絡めた腕を解いて微笑んだ。そのまなざしにナイトクラブの警戒心や澱みは排除されている。ただ、可憐で無害な女の無防備な感謝を告げていた。女が振る手は蝶のはためきに似ている。


「ご親切な方、あなた方に幸運がありますように。」


 ラケル・ディアクイーンは、かくして無事BID_R!D_;)へ乗り込む。この会場には二匹の迷い猫が紛れ込んでいる。ラケルと、もう一匹が。

 BID_R!D_;)はまだ、それを知らない。

 

 ◇

 

 侵入者は糸口を探っていた。全体を漆黒とクローム装飾の銀とで統一された室内は、無機質かつ洗練された空間を演出する。円蓋の天井からは華麗なサンバーストのシャンデリアが吊り下げられ客人を歓待している。なるほど、闇組織が裏にあるとはいえ確かにDEAR <3の住人の趣向を捉えている。


 ウェイターがさり気なく差し出したグラスを傾け、ラケルは小さく耳打ちした。シャンパンの爽やかな薫りが膨らむ。

「休憩室は? 」

「あちらです、お嬢様。」

「そう。」

 グラスは急角度で傾けられる。底の一滴も滑り落ちたグラスを、ウェイターへと突き返してラケルは微笑んだ。

「いやだ、飲み過ぎた。エスコートしていただける? 」

 彼女のヒールは休む間を知らない。ホール上を滑るようにして案内を受けると、ベルベットの幕帳に区切られた個室の続く空間が広がった。隔てられた区画には横になれる座椅子とテーブルが置かれる。令嬢は真鍮に縁取られた座椅子へ深く凭れ、疎ましげに爪先を示す。ここでは白檀の芳香が焚き染められて、人の不埒な欲気を誘う。

「窮屈なのは嫌い。あなた、靴を脱がせて。」


 ウェイターは僅かな躊躇いを見せる。しかし、跪いた。そこで違和感を覚える。洗練された令嬢のような全体像だが、よく着目してみれば足下を飾っている靴の素材が悪い。此度のイベントに果たして安価なヒールを履いてくる者がいるだろうか?


 ———ご苦労様。あとはここで休んでな。


 ウェイターの頭上から降ったのはそんな言葉だった。真意をうかがうべく上向いた下顎に、黒のご令嬢のおみ足が打撃した。突如として呼吸器を襲った衝撃にウェイターは目を見開いて後ずさる。黒大理石の床に手を付いて逃げ場を求めるが、襲撃犯は許さない。手の甲にヒールを突き立てて踏み締める。一点に圧縮された痛覚に悲鳴が走る。ウェイターは手を押さえて蹲る。すかさず女は背後に回り首を締め上げ、意識を落とした。


 意識を失ったウェイターの蝶ネクタイを引っ張り、ラケルは口端を釣り上げて笑う。彼女は令嬢であることをやめていた。令嬢はこんなにも滑らかにウェイターを絞め落とさない。令嬢は、こんなにも薄寒い微笑みを浮かべない。

「お前が私と近い背丈で助かるよ。それじゃこの給仕服、借りていくから。」

 今ある全てこそが、彼女の本性だった。


 休憩室の一室から姿を現す時、ラケルは父とはぐれた令嬢ではなくウェイターだった。後頭部に纏めた髪は一糸のほつれもなく撫で付けられ、給仕服のベストとスラックスを着用していた。服の所有者であるウェイターは座椅子に縛り付けて昏倒している。目を覚ますのは、少なくともラケルが立ち去った後だろう。ウェイターの縛り付けられた座椅子には、先刻までラケルが着用していたドレスとヒールが放り投げられた。

 ウェイターへと変身したラケルは休憩室を抜けて通路を出る。だがその道は先ほど通った道ではない。関係者以外立ち入り禁止の立て看板の先。シャンデリアの灯らない舞台裏にこそ、ラケルは用がある。


 彼女は確信している。煌びやかで豪奢な劇場。上品かつ優雅な紳士淑女。一寸の隙間ない空間を装っていようと、そこにBID_R!D_;)の糸引きがある限り、必ず後ろ暗い裏がある、と。


 ◇


 ———ラケルの脳をアルコールという悪魔が囃し立てている。それも、Ag:47の男と飲み交わした夜に比べれば勘違いと笑い飛ばせるほど微弱な酔い。

 バッドベストとラケルは利害関係にある。対ダーリンを掲げる市民の信頼ある組織に身を置く男と、なんのしがらみも受けない掃除屋、兼情報屋。互いの不足する情報を補い合うには打ってつけだった。なにより、ふたりは合理主義の友だった。その男をしてラケルを差し向けた現場に、事件がないわけがない。

 犯罪。さらに言えば、ダーリン。

 危険中の危険がこのパレス劇場に秘匿されていると、ラケルは見ている。


 スタッフ専用通路でいくらかスタッフとすれ違う。彼らはみな搬入作業に追われてる。豪奢なパレス劇場の裏側。そこは、剥き出しのコンクリート梁が薄暗い通路を導いていた。微かな足音も遠くどよめいて見果てぬ奥地で音を吸収しているようだった。

 劇場の見取り図は頭に入っている。オークション開幕の時間は近い。劇場ステージ裏には続々とロットが出揃い始める頃だろう。ラケルはここに、その品揃えを確かめに来た。客ではなく、侵入者として。ラケルの手が無機質な両扉へと掛けられる。

 開いた先では大小様々の木箱が整列されていた。木箱にはロット番号と商品名が記されている。もっともラケルの目に付いたのは小箱のひとつに記された走り書き———「Lot 03. Somnaソムナ」。なるほど、薬でもなんでもオークションに掛けられるといったバッドベストは正しかったようだ。木箱の蓋を開ければ銀細工の小箱が納められている。銀箱の中身は快く予想に応えてみせた。粉末状の薬物である。


 ラケルは片眉を釣り上げてみせた。

 三つめのロットでこのレベルの出品である。オークションの最後を飾る目玉ロットを考えると、背中に冷たいものが這い上がるようだ。


 ひとつ飛んで中規模の木箱を開ける。木箱には「Lot 05.CØLLARカラー PROTOCOLプロトコル」と記されていた。ラケルはほくそ笑む。そのいかにもBID_R!D_;)らしい悪趣味とエンターテイメントの融合したネーミングに。銀箱を開いたさきに待っていたのは、装飾的な拘束具だった。ハーネスを原型に両腕の自由を奪うようデザインされた革製のベルト。ご丁寧に足枷、口枷まで部分分けして梱包されている。

 そこには二つ折の上質紙が展示品のキャプションのように添えられた。


「麗しき地獄の囚人、ダーリン! 彼はあなたを愛するためだけに地獄の責苦を逃げ出した。あなたを愛し、あなたに献じ、あなたに捧げるためだけに。さあハニー、その膝を貸しておやりなさい。その腕、その胸が、彼の痛苦を取り除く天使の施しになる瞬間に、ロマンス・ストーリーは煉獄の炎から不死鳥のように芽吹くのだ。」


 ———ダーリン・ランデヴー!

 これは、あなたとダーリンだけの世界に唯一にして随一の物語。


「……さすがは市民の金と欲に漬け込んで成り上がった闇組織。悪趣味で悪辣、その上、どこまでいっても消費的かつ商業的だ。」


 ———まさか、ダーリンとのロマンスをロットにするなんて!


 BID_R!D_;)主催オークション。その真意に、一匹の泥棒猫は辿り着いていた。


 そうであれば、このオークションの本体であるロットナンバー最後列、「ダーリン」がどこかに秘蔵されているはずである。ラケルは周囲を見渡し、さらに奥へと侵入する筋道を探す。荷物庫を出るとエレベーターに面した。搬入用エレベーターへ乗り込み地下へと降りる。地下は湿気と言いようのない淀みに囚われている。鉄と埃の匂いが、この場が劇場の裏に包まれた暗部であると示していた。エレベーターを降りると警備員らが一角を見張っている。制服を纏った警備員はラケルを見て訝しむ。一介のウェイターが、なぜここに?


「おい。ここは一般スタッフの立ち入り禁止区域———」

「“商品”の検品をして来いとさ。安心しな、私はBID_R!D_;)直属の者だ。お前がなにを監視しているのかも知っている、このオークションの意味もね。」


 ハッタリを言うのは今日で何度目になるだろうか?

 ラケルは淡々と言葉を連ねて歩みを止めない。その姿を見て、警備員の男たちは及び腰だった。この女は味方なのか、侵入者なのか、警備員は判別がつかない。なにも知らない侵入者であれば、彼女の台詞には説明がつかない。男たちは「あ、ああ……。」と引き下がる。


 ラケルは厳重な格子に塞がれた小窓を覗く。見えない。格子の隙間から人差し指ほどのサイズのライトを翳す。……ぼんやりとした人影が椅子に拘束されているのが浮かび上がった。それは、まるで死体かのように静かだったが、僅かに身じろいだ。


「なるほど。報告には充分だ。」


「———ようやく俺の“飼い主”がお出迎えか?」


 その時、暗闇が声を発した。闇そのものが声を得たように地を這うように低く、無感動な音調だった。ラケルは声を潜めて答える。


「残念。私はお前の飼い主でも、お前のハニーでもない。探し物をしていたら囚われのダーリンがいるらしいってことに気付いてね。そしたらお前がここに居たってワケ。」

「ちょっと、アンタ。“ソイツ”と会話するのは……。」


 止めに入ろうとする警備員にラケルは「黙って」と釘を刺す。ラケルはさらに声を潜めた。

「お前、あと半刻もしないうちにオークションへ掛けられるよ。」

「…………。」

 椅子に拘束された人影は答えなかった。

「まあ、お前の人生だし。好きにしたらいい。金持ちの愛人になって飼い殺される余生も悪くないんじゃない? 私は地獄に堕ちてもごめんだけど。」


 人影からは、なんの音も生まれない。感情があるのかどうかさえも怪しい。ラケルは言いたいことは言ったとばかりに踵を返そうとした。


「なにか勘違いしているらしいが、俺は“ダーリン”そっちじゃあない。———お前、さてはBID_R!D_;)の連中じゃねえな? 」


 ———警戒レベル5。侵入者が忍び込んだ可能性がある。各員、不審人物は見かけ次第報告を———。


 男の答えが帰った直後、間髪入れず館内の警戒アナウンスが全裏方スタッフの鼓膜を叩くことになる。侵入者、不審人物。口うるさいアナウンスがそんなことを口走ったから、ああいわんこっちゃない! 警備員の視線は、問うまでもなくすべてラケルの方に釘付けられていた。

 

「……………あは。」


 どうやら運が尽きたらしい。それも、ドミノ式に、一斉のタイミングで。囚われの男はダーリンではない言う。そして、BID_R!D_;)が侵入者に気付き始めた。

 ラケルは笑った。猫のアイラインが愉快げに細められる。今しがた館内アナウンスにより決定した。潜入、調査。そして彼女の最後のミッションとは、逃亡だ。


 

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