第3話 奪われし光
炎と瘴気が村を飲み込み、空は真っ黒な煙に覆われていた。
轟音とともに、災魔将の巨大な腕が振り下ろされる。
熊を象った鎧を纏う守護者が、それを両手剣で受け止めた。
火花が散り、衝撃波が村全体を震わせる。
崩れた屋根が炎の舌を長く伸ばし、土壁が砕け、焼けた木の匂いが肺を刺した。
「ぬぅぅぅぅぅっ!!」
守護者の膝が地に沈む。
それでも両腕は折れない。
わずかでも力を緩めれば押し潰される――その極限の縁で、彼は一歩、前へ踏み込んだ。
「少年! 今だ、逃げろ! お前まで巻き込むわけにはいかん!」
背中越しの怒声は、炎を割るように鋭かった。
「で、でも……母さんとアリアが……!」
「探すなら生き延びてからだ! 走れッ!!」
抗えぬ迫力に背を押され、アシェルは歯を食いしばって駆け出す。
熱い。視界は煙に曇り、息を吸うたび喉が焼ける。
足裏で木片が砕け、ぬめった感触に転びそうになる。――血だ。誰かの。
「アリア! 母さん! どこだ!」
声が掠れ、胸が軋む。
その時、瓦礫の隙間から、か細い声が漏れた。
「……お兄ちゃん……」
「アリアッ!」
煤にまみれた栗色の髪。
小さな妹が手を伸ばし、その背に母が庇うように立ちはだかっていた。
息は荒いが、目は強い。
「二人とも……無事だったのか!」
胸の奥で何かが弾ける。
間に合った――そう言いかけた、その瞬間。
炎の帷から黒い影が跳ねた。
四足の災魔。
骨の節々が外れたような不気味な可動。
耳まで裂けた口から、長い舌が湿った音を立てて垂れる。
「……イノチ……クウダケ……チガウ……」
喉の奥で泡立つ声。
それは人の言葉の形をしていた。
「っ!! 危ないッ!」
アシェルは駆けた。遠い。
足が絡む。腕を伸ばす。
「アシェル! 逃げて! ――生きてぇぇぇ!」
母の叫びは、炎に千切れながら届いた。
次の瞬間、災魔の顎が母の肩から腰までを噛み裂いた。
骨が割れる音と、血の熱が空気を変える。
「……イラナイ……」
災魔は血を吐きながら、低く呟いた。
もう一体がアリアを咥え上げる。
妹は振り返り、泣き顔のまま――兄を見た。
「お兄……」
噛み砕く音。赤い雨。
小さな影が崩れ落ち、石畳に散った。
――音が、消えた。
「アリアアアアアアアアアアア!! 母さん!!」
喉が裂ける。目が焼ける。
自分の中で、何かが折れる音がした。
災魔は咀嚼の合間に、ゆっくりと顔を上げた。
赤く濁った片目が、まっすぐにアシェルを見つめる。
「……タベタノハ……カラダ……」
「……ホントウノ……エモノハ……オマエノ……ココロ……」
「……オマエ……ノコス……クヤシメ……ウマクナル……」
裂けた口の奥で、赤い舌が踊る。
それは言葉であり、呪いだった。
災魔は満足げに低く鳴き、炎の帷の向こうへ消えた。
――なぜだ。なぜ自分を殺さない。
なぜ、生かす。
足が震え、世界が遠のく。
耳鳴り。心臓の音だけが強すぎる。
轟音。
守護者が災魔将の一撃に弾き飛ばされ、土を抉りながらアシェルの前に叩きつけられた。
地面が裂け、炎がたじろぐ。
「……ぐっ……まだ……終わらせはせん……!」
熊の影を背負った鎧が、血に濡れながら立ち上がる。
肩口は裂け、黒鉄に赤が滲む。
それでも――その背は折れない。
「……まだこんなところにいたのか。――早く逃げろ」
掠れた声が、確かに言った。
「逃げろって……母さんが……アリアが……俺の目の前で……死んだんだぞ!
俺だけ生き残って――何が、どうしろって――!」
守護者はよろめきながら近づき、アシェルの襟首を掴んだ。
平手が頬を打つ。乾いた音が炎の間を抜けた。
「しっかりしろ!」
鎧越しの手の重みが、現実を叩き込む。
「お前まで死ぬ気か! 命を繋ぐことを諦めたら、そこで本当に終わりだ!
死んだ者の分まで――生き延びろ!」
呼吸のたびに血が泡立つ。
それでも言葉を投げ続ける。
その瞳は、怒りでも悲しみでもない。
ただ“誰かを生かそう”とする光だった。
地が震えた。
災魔将が咆哮し、再び突進してくる。
守護者はアシェルを突き放し、自らの胸へ手を当てた。
鎧の紋章が赤く脈動する。
「……もう、迷っている時間はない」
低い呟きが、炎に沈んだ空気を変える。
「鎧よ……我が魂をすべて喰らえ」
瞬間、鎧全体がうねる光を放ち、衝撃波が炎の舌を吹き散らした。
背後に熊の幻影が立ち上がり、天地に響く咆哮が闇を震わせる。
「お前らの命も、この村の光も――絶対に渡さんッ!!」
命を燃やす音が聞こえた気がした。
守護者は地を砕きながら踏み込み、災魔将の懐へ突っ込む。
爪が振り下ろされる。
剣が逆巻く風圧を裂いて突き上がる。
「うおおおおおおおおッ!!」
爪が腹を貫き、剣が胸を穿つ。
血と瘴気が爆ぜ、夜が赤黒く閃いた。
互いの喉から叫びが漏れる。
それでも彼は退かない。
一歩、さらに一歩。
魂が燃える音が、鼓動と重なった。
災魔将の背が仰け反る。
胸の奥で赤黒い光が脈打ち、輪郭が崩れ始める。
「ガアアアアアアアアアアッ!!」
断末魔が空を裂き、巨体は崩れ、黒い霧となって散った。
地面に残ったのは、赤黒く脈動する霊鋼の塊。
勝敗は決した。
だが、代償はあまりに大きい。
腹に爪を受けたまま、守護者は剣を杖にして立っていた。
肩で荒く息をしながら、ゆっくりと顔を上げる。
炎の向こうで、アシェルの姿を見つける。
「……生きろ……少年……」
それだけを告げ、剣を手から離した。
鎧の光がふっと弱まり、巨体は膝を折る。
音もなく、土に沈むように倒れ込んだ。
炎の影が揺れ、夜風が血の匂いを運んでいく。
「守護者ああああああああああッ!!」
アシェルの絶叫が、燃え崩れる村に響いた。
膝をつき、両手で地を掴む。
爪に土が入り、血がにじむ。
それでも立とうとする足が、震えて言うことを聞かない。
耳の奥で、あの声がまだ笑っている。
――タベタノハ カラダ。ホントウノ エモノハ オマエノ ココロ。
――オマエ ノコス クヤシメ。ウマクナル。
闇が、胸の中に根を下ろす音がした。
それでも――さっきの掌の重みは消えない。
頬に残る熱とともに、「生きろ」という言葉が、彼を縛り付けていた。
炎の音が遠ざかり、夜が静かに沈む。
その胸の奥で、初めて“怒り”が形を持った。
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