【断章】
サーダカウマリ
「ねえウートー、降りて来て」
「
甲高い声を弾ませて、女童たちがはしゃいでいる。一人はガジュマルの木の根元で、垂れ下がったひげ根を揺らして見せながら、もう一人は、どこから登ったのやら、幹の高いところに寝そべるようにしがみつきながら。樹に登っている方は、けたけた笑って「めーぐー、怖がりね」と真下で眉を下げる友人を揶揄った。
「
声をかけられたウトは、細い梢の隙間から下界を覗く。左目がただれて潰れた青年が、呆れ顔でこちらを見ていた。
「
いそいそと幹を伝って地上に戻ったウトは友人と手を繋ぐと、片目の青年、兄の忠良を見上げた。
「もう拝み終わってから
ウトが九つであるのに対して、忠良は二十四と年が離れすぎている。おまけに父が碌でなしであるため、ウトにとっては兄が父代わりのようなものであった。
「めーぐー、またねー」
集落の狭い辻で友人に手を振っていると、
「早く行ちゅんど。おとうが帰る前に離れに戻らんと」
「たーだーは?」
「俺は母屋さ。離れはウトとサトばあン家ど」
「
「縁組して、俺は
ウトにはまだ理解できないようで、彼女は「ふうん」と口を尖らせ、繋いだ兄の腕をぶんぶん振り回した。
「あが、大人しくしれ」
「しなあい」
宥められたウトが知らん顔でそっぽを向くのと同時に、少し遠くの方に嫌な気配と臭いを感じた。
「忠良
途端、呂律の回らない声が辻の方から届く。ウトはびくりと肩を竦ませた。振り返ると、石垣の向こうに父の頭がふらふらと揺れながら家の表門に近づいていた。
「ウト、さっさ離れに戻れ」
忠良は、少し乱暴にウトの手を振り払って肩を押した。
「たーだーは?」
「
凄まれて、ウトは庭へと回った。いつもは蝶や鳥を探して庭木の間を覗き込むところ、今日は一目散に祖母と暮らす離れへと入った。
「サトばあ、サトばあ」
畳間で祭事のための白装束をたたむ祖母、サトの傍に、ウトは滑るように座り込んだ。するとサトはおかしそうに笑って困り顔のウトを撫でた。
「あい、ウトおかえり。
ウトは頭に置かれたサトの温かな手をそっと下ろして、両手で握りしめた。骨張った左手の甲、中指と薬指の
「おとう帰ってきたさ」
ウトが告げた瞬間、母屋の方からどちらのものとも分からない男の怒声が聞こえた。
「
サトはそう言うが、忠良はきっと父を殴り返したりはしないだろうと、ウトはなんとなく確信していた。兄のあの潰れた目だって、彼自身は鍋の油が跳ねたんだと言い張るが、ウトが三つの頃に、酔って暴れた父が投げつけた炭で怪我を負ったことを、ウトは覚えている。
「ねえ、サトばあはユタだば」
傍に畳まれた白装束を見つめながら、ウトはサトの膝に頭を乗せた。するとサトは、その額を撫でながら「
「耳元で、
「だれば、たーだーとおとうに仲直りしれって、サトばあが言ったら叶う?」
神の声が聞こえるのなら、きっと神もサトの声が聞こえる。そう思っての無邪気な質問だろう。サトは答えあぐねて口をつぐんだが、やがて静かに言った。
「ウト、ユタは
「
「みんな、
「やしが、神様に選ばれたさ」
がしゃあんと、遠くで何かが壊れる音がした。細い女の悲鳴は、忠良の実母か、それとも大叔母のカメのものだろう。ウトはそれをさして気にすることはなく、仰向けになってサトを見上げた。サトの額から、白い絹のような髪が数本はらりと落ちて、掃き出し窓から差し込む青空と陽光に透けている。
「少し違うさ。ユタはどうにもならん呪いやさ。
「……怖い」
ウトにはまだ、サトの話す意味は十分に理解できていない様子だが、それでも祖母の真剣な眼差しに少しだけ目を潤ませて、線香の香りの移った腹に顔を埋めた。
「ふふ、
サトは小さな頭を突っついて顔を上げさせると、柔らかく微笑した。そして開いたままの襖から隣の部屋を見遣る。ウトがつられて視線を追った先には、神鏡と香炉を中心に、榊や塩を左右対象に奉った祭壇があった。サトが毎日のように手入れしている、サトの神を祀る祭壇だ。
「ばあばね、御神と持ちつ持たれつやっさ。
そう言うと、サトは膝の上で寝そべる孫の背をさすって起き上がらせた。
「
サトに手を引かれて離れを出たウトは、母屋がしんと静かであることに気づく。父と兄のけんかは収まったのだろうが、どんよりとした静けさがむしろ不気味で、母屋の方は見ないようにした。
もう盆も過ぎた時季であるが、まだまだ夏の終わりは遠い。陽炎昇る暑さにこうべを垂れて、孫と祖母は集落の細道をゆっくり進む。どこかの家の庭木に蝉が留まっているのだろう。やけに近い蝉時雨に負けないように、ウトは声を張りながらサトの腕を揺すった。
「ねえ、サトばあ」
「
「ウートーとサトばあで、おかあの家に住みたい」
すると、サトははっと目を見開いて、そしてウトから視線を逸らした。ウトは、言ってはいけないことだったのだと悟ったが、どうしてなのかは分からなかった。
「だめよ。ばあばは神棚ぬお世話も
「ウートーは?」
「ウトは
「だれば、おかあも離れで暮らせばいいやんに」
良い代案だと思った。しかし、サトはこれにも苦い顔をして僅かにした唇を噛んだ。
「だあめ、我慢しれ」
あれもこれも却下されたウトは、祖母から顔を背けて、長くなり始めた自分の影法師に視線を落とした。
「たーだーのおかあは一緒に住んでるのに、
すると、サトが繋いだ手にぎゅっと力を込めて、ウトの心臓が跳ねた。かさかさの掌からサトの傷つきが感じ取れる。申し訳なさに、胸の少し下が押し潰されそうなほど苦しくなった。
「
まだ心臓が暴れていて、「ふうん」と返すことしかできない。サトがすかさず「ごめんねえ、ウトのせい
こういうことは、きっとどうにもならないのだと悟った日である。
***
ウトが十一の時、離れて暮らす母は肺炎をこじらせて死んだ。沖縄といえど流石に風の寒い二月の頃だ。冷たい小雨が天から垂らされた糸のように降り注ぐ中、ウトは葬式に出るために、サトと一緒に母の実家に来ていた。父は来ない。父とウトの母とはとうの昔に顔は合わさなくなっており、母の親族を避けているのだ。年を追うごとに、自分の家のあれこれについて、徐々に輪郭を掴み始めているウトであった。
よく知らない、母方の親族の子らが墓地を駆けて遊んでいる。大人たちは暗い表情をしている者もいれば、墓地の外れで煙草を喫んでいる者もいる。ウトはと言うと、
「サトばあ、おかあは死んでないさ?」
「…………ご先祖様ぬとこ、
サトはそう返したが、ウトは到底信じられない。母が死んだなんて、とても信じ難い。
「だってえ」
「静かにしれ、お願い」
そう言われ、仕方がないので口をつぐみ、ウトはまた母の墓を眺めた。正しくは、墓の上に座っている死装束の母の影を見ていた。母がそこにいるのに、やっぱり死んだなんて認められない。
微笑みながら、墓石の上で無邪気に足をぶらつかせる母と見つめあっていると、サトがウトの顔を自分の腰に強引に押し当てた。それでもちらりと母を盗み見ると、彼女はひょいと墓石から飛び降りて、おいでおいでとウトを手招いた。
祖母の腕から離れ、ウトは母を追って歩く。長髪が華奢な背でしっぽのように揺れるのを眺めているうちに、いつの間にか
「おかあ、どこ行くの」
呼びかけると、母が振り返った。死装束の袂が翻り、ほんの一瞬顔が隠れる。その瞬きのうちに、人影は母ではなくなっていた。彼は満面の笑みで手招きをしている。洞窟の奥を指差して、まるで遊びに誘っているみたいだ。
「————ウト!」
ばしん、と背中を叩かれて、ウトははっと目を覚ました。
「良かった、良かった…………」
祖母の膝でうつ伏せになっていたウトは、起き上がろうとして自分の体がうまく動かないことに気がついた。話そうとしても、喉が乾いてうまく声が出ない。
「水飲め、ゆっくりよ」
こくこくと喉を鳴らして、少しずつコップの水を飲む。落ち着いたところで、体が酷く熱く、それでいて芯が凍えるように寒いことに気がついた。
「
汗だくになったウトの体を、温かく濡れた手拭いで拭きながら、サトはこわばった声で尋ねた。ウトは熱で朦朧とする頭で思い巡らす。確か、母を追ってどこかの洞窟の前に来ていたのだ。
「おかあって思って追いかけたら、違った。白いお髭の、可哀想な服のじいじ」
熱に浮かされたウトは、蓑を纏ったみすぼらしい老人の悪戯っぽい笑顔を思い出して、少し笑った。サトはというと、着替えを済ませたウトを震える手で抱きしめた。
「ウト、それはやーぬ御神さ。人に化けて、あんたに会いに来たばーよ」
サトが鼻を啜る音が、耳元で響いてくすぐったかった。
「
「サトばあ、眠い……」
体が重く関節が痛み、早く横になりたくてそう伝えたが、サトはしばしウトを抱きしめ続けた。
忘れられた島 ニル @HerSun
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