第6章「赦しと最後の訓練」
愛の告白から数日。
僕とリュウセイ様は、互いの魂が、もう二度と離れないことを、確信していた。
触れられない距離は、もはや、僕たちの絆を阻むものではない。むしろ、その距離が、僕たちの魂の繋がりを、より深く、より純粋なものへと昇華させていた。
訓練は、以前にも増して、密度を増していた。だが、それは苦しみではなかった。
リュウセイ様の声に導かれ、魔力を共鳴させる。その度に、僕たちの魂は、さらに深く結びついていく。
3メートルの距離。だが、その距離を超えて、僕たちの魂は、常に触れ合っていた。
儀式まで、あと一週間。
僕の詠唱魔法は、リュウセイ様への愛と、王国を守りたいという強い意志によって、かつてないほどの力を得ていた。
訓練室で紡ぐ詠唱は、もはや単なる魔法ではない。それは、僕の魂そのものが形になったものだった。
僕の魂の奥底に眠っていた「本当の言葉」が、今、目覚めようとしている。
それが何なのか、僕にはまだわからない。だが、確かに、その言葉は、僕の中で、静かに、脈打ち始めていた。
その早朝。
王宮の中庭で、出発の準備を整えたカイトが、最後に僕たちの元を訪れた。
彼の背中には、旅装を纏った小さな荷物が一つ。
東の国の魔導院分校で教鞭を取ることが決まったのだという。
「リュウセイ殿、ユキ」
カイトは、僕たちの前で、深く頭を下げた。
その顔には、もう、嫉妬の色はなかった。ただ、清々しいほどの、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「儀式の成功を、心から祈っています」
「カイト……」
僕は、驚いて、彼の名前を呼んだ。
数日前、彼は、僕に触れようとして、リュウセイ様の激しい嫉妬を招いた。あれから、彼とは会っていなかった。
だが、今、彼の顔には、あの時の苦悩の影は、もう見えなかった。
カイトは、僕の瞳をまっすぐに見つめ返すと、かつての屈託のない、あの笑顔を見せた。
「俺は、お前の幸せを願っている」
彼の声は、穏やかだった。
「それが、友人として、お前にできる、最後のことだ」
リュウセイ様は、静かに、頷いた。
「お前も、新しい場所で、幸せを掴め」
カイトは、リュウセイ様に向かって、手を差し出した。
握手の仕草。
だが、リュウセイ様は、その手袋に覆われた手を、わずかに、引いた。
触れられない。
カイトは、一瞬、寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに理解したように、その手を、ゆっくりと引いた。
そして、代わりに、自分の胸に、そっと手を当てた。
「お二人に、祝福を」
彼の声は、心からのものだった。
そして、彼は、遠く、東の空を見つめた。
朝日が、地平線から、昇り始めている。
「そして、いつの日か――」
その声には、微かな、しかし、確かな希望が宿っていた。
「俺も、誰かを、本当に愛せる日が来ることを、願っています」
「あなたを、心から必要としてくれる人に、出会えることを」
僕の瞳から、涙が、溢れた。
「カイト……ありがとう」
僕は、震える声で、そう言った。
「あなたは、きっと、素敵な人に出会えます」
「あなたを、心から愛してくれる人に」
「あなたの全てを、受け入れてくれる人に」
カイトは、最後に、僕に向かって、最高の笑顔を見せた。
それは、学生時代、僕が初めて彼に出会った時の、あの明るい笑顔だった。
「ありがとう、ユキ」
「お前と友人でいられて、俺は、幸せだった」
「いつか、また会おう」
彼は、一度も振り返ることなく、王宮の門へと、歩き去っていった。
その背中は、寂しげだったが、同時に、何か重い荷を下ろしたかのように、どこか、軽やかに見えた。
朝日が、彼の背中を、優しく照らしている。
僕たちは、その背中が、完全に視界から消えるまで、ただ、黙って、見送っていた。
「……いい友人を持ったな」
リュウセイ様が、静かに、囁いた。
「はい」
僕は、頷いた。
「彼は、苦しんでいました」
「でも、今は、自由になれた」
「彼にも、幸せが訪れますように」
リュウセイ様は、僕の手袋をはめた手を、そっと取った。
布越しの温もり。
「お前は、優しいな」
「……そんなことは」
「いや、優しい」
彼の声が、温かかった。
「だから、俺は、お前を愛している」
僕の頬が、朝日の下で、赤く染まった。
その日の午後、リュウセイ様は、僕を伴い、王宮の地下深くにある牢獄へと向かった。
そこには、二年前にリュウセイ様を裏切り、多くの部下を死に至らしめた、元副官のレオンが、囚われている。
石の階段を、どこまでも、降りていく。
空気が、冷たく、湿っている。
松明の炎が、壁に、揺らめく影を落としている。
牢の前で、リュウセイ様は、深く、息を吸い込んだ。
その表情は、いつになく、険しい。
「ユキ。お前に、見せたいものがある」
彼は、言葉を選びながら、静かに言った。
「それは――俺が、お前から、学んだことだ」
「……私から?」
僕は、首を傾げた。
リュウセイ様は、僕の瞳を見つめた。
「ああ。お前は、俺に、『許すこと』を教えてくれた」
「自分を許すことを、恐れるな、と」
「だから、俺も、誰かを許せるようになった」
重い鉄格子が、軋む音を立てて開かれる。
牢の中には、やつれ果てたレオンが、膝を抱えて座っていた。
彼は、僕たちに気づくと、怯えたように、顔を上げた。
その瞳には、絶望と、そして、死への恐怖が、宿っている。
かつては、リュウセイ様の右腕として活躍した、優秀な騎士だったという。だが、今の彼は、ただの、罪に押しつぶされた、哀れな男だった。
「団長……っ」
レオンの声が、震えていた。
「殺してください……」
「私は、あなたを裏切った」
「多くの仲間を、死なせた」
「生きている資格など、ありません……」
リュウセイ様は、何も言わずに、レオンの前に立った。
そして、彼は、その手袋をはめたまま、レオンの、震える肩に、そっと、手を置いた。
レオンは、驚いたように、顔を上げた。
「お前が裏切ったのは、家族を守るためだった」
リュウセイ様の声が、静かに響く。
レオンは、息をのんだ。
「ご存知……だったのですか」
「ああ。知っていた」
リュウセイ様の瞳が、レオンを見つめる。
「お前の妻と子供が、敵国に囚われていたことを」
「お前が、家族の命と引き換えに、裏切りを強いられたことを」
「だが、俺は、それを見て見ぬふりをした」
レオンの瞳から、涙が溢れた。
「俺は、完璧であろうとした」
リュウセイ様の声が、自己嫌悪に満ちていた。
「竜騎士団長として、部下の弱さを認めることができなかった」
「お前の苦しみを見ようとしなかった」
「……だから、お前は、追い詰められた」
リュウセイ様は、レオンの目を見つめた。
その瞳には、怒りも、憎しみもなかった。
ただ、深い、深い悲しみと、そして、後悔の色が、滲んでいた。
「……すまなかった」
その言葉が、リュウセイ様の唇から、こぼれ落ちた瞬間。
レオンは、声を上げて、泣き崩れた。
それは、二年間、ずっと、心の奥底に押し込めていた、罪の重さと、そして、許されたことへの、安堵の涙だった。
「団長……!」
「すみません……すみません……!」
レオンは、リュウセイ様の手を掴もうとし、だが、触れられないことに気づいて、手を引いた。
「俺は……俺は……!」
「もういい」
リュウセイ様の声が、優しかった。
「お前の家族は、今、王国の保護下にある」
「妻も、子供も、無事だ」
レオンは、驚いて顔を上げた。
「本当、ですか……?」
「ああ。俺が、二年前から、密かに保護していた」
「お前が出所したら、会わせてやる」
レオンは、再び、声を上げて泣いた。
僕は、その光景を見て、リュウセイ様が、「許すこと」を、学んでいることを知った。
そして、僕自身もまた、自分を許すことができるのかもしれない、と。
師を失ったこと。
それは、確かに、僕の未熟さが招いた悲劇だった。
だが、それは、僕の全てではない。
僕は、その失敗から、多くを学んだ。
そして、今、こうして、新しい自分として、生きている。
だから、もう、自分を責めなくてもいい。
牢を出た後、リュウセイ様は、静かに言った。
「お前が教えてくれたんだ、ユキ」
「感情を持つことを恐れるな、と」
「だから、俺も、許すことができた」
僕は、微笑んだ。
「私も、あなたから学びました」
「諦めないことを」
「自分を許すことを」
リュウセイ様は、僕の手袋をはめた手を取った。
布越しの、温もり。
「お前は、俺の全てだ」
僕たちは、手を繋いだまま、地下牢の階段を登った。
やがて、陽の光が見えてくる。
僕たちは、闇から、光の中へと、歩いていく。
その夜、最後の訓練が始まった。
今度の訓練は、リュウセイ様の相棒である、巨大な氷竜セラフィムも加わる。
王宮の訓練場。
月明かりの下、セラフィムが、その巨大な身体で、僕たちを見下ろしている。
その体躯は、小さな城ほどもある。青白い鱗が、月光を受けて、幻想的に輝いている。
だが、その瞳は、冷たい氷の色ではなく、僕たちを優しく見守るような、温かい光を宿していた。
「セラフィム」
リュウセイ様が、竜の名を呼ぶ。
セラフィムは、低く、優しく、鳴いた。
それは、まるで、挨拶のようだった。
セラフィムは、ゆっくりと、その巨大な鼻先を、僕に近づけた。
そして、僕の額に、そっと、触れる。
冷たく、硬く、だが、どこか温かい感触。
リュウセイ様が、決して僕に触れることのできない、その接触。
「セラフィム……」
リュウセイ様の声に、僅かな、嫉妬の色が混じるのを、僕は感じ取った。
僕は、くすりと笑った。
「竜さんは、温かいですね」
「……そうか」
リュウセイ様は、複雑な表情を浮かべた。
「羨ましいな、セラフィムは」
「俺も、いつか、お前に触れたい」
その言葉の、切なさに、僕の胸が、痛んだ。
「いつか、必ず」
僕は、彼の瞳を見つめた。
「その日が来ることを、信じています」
訓練は、僕とリュウセイ様、そしてセラフィムの、三者の魔力を完全に共鳴させるものだった。
僕の詠唱。
リュウセイ様の竜の力。
セラフィムの、古代の、根源的な魔力。
三つの魔力が、互いを求め、絡み合い、そして、一つになっていく。
僕は、訓練場の中央に立ち、目を閉じた。
深く、息を吸う。
そして、詠唱を始める。
「凍える夜は、もう終わる」
僕の声が、訓練場に響く。
「光を取り戻した魂たちよ」
リュウセイ様の魔力が、僕の詠唱に応えるように、流れ込んでくる。
「その火を燃やし続けろ」
セラフィムの魔力もまた、僕の魂に触れる。
「永遠に、愛を燃やし続けろ」
三つの魔力が、僕の中で、一つになっていく。
赤と青と白。
炎と氷と光。
それらが、溶け合い、混ざり合い、新しい色を生み出す。
僕の詠唱が、さらに力を増していく。
「あなたと共に」
「どこまでも」
その言葉と共に、僕の足元から、巨大な魔法陣が広がっていく。
それは、訓練場全体を覆い、そして、空へと伸びていく。
三つの魔力が、完全に一つになった、その瞬間。
空に、巨大な光の柱が、立ち上った。
それは、夜空を切り裂き、星々を貫き、どこまでも、高く、高く、伸びていく。
王宮中の人々が、その光に気づき、空を見上げる。
「あれは……」
「大結界修復の予行演習か……」
「なんという、魔力……」
「……できた」
僕は、信じられない表情で、自分の手を見つめた。
全身から、まだ、魔力の余韻が、溢れている。
「これなら、儀式は、成功する」
リュウセイ様も、静かに、頷いた。
「ああ。お前は、もう、準備ができている」
セラフィムが、嬉しそうに、鳴いた。
僕たちは、触れられない距離で、ただ、見つめ合った。
「明日、儀式を行う」
リュウセイ様が、宣言した。
「お前の魂と、俺の魂を、完全に、一つにする」
僕は、深く、頷いた。
「はい」
その言葉の重みを、僕たちは、二人とも、完全に理解していた。
儀式は、単なる魔法ではない。
それは、僕たちの魂の、完全な結合。
精神的な、そして、魂の、最も深い部分での、結びつき。
その夜。
僕は、自室の寝台で、眠れずにいた。
明日、自分は――。
リュウセイ様と、魂で一つになる。
彼の感情の全てが、僕に流れ込む。
そして、僕の感情の全ても、彼に流れ込む。
それは、どんな抱擁よりも、どんなキスよりも、遥かに深い、結びつき。
僕は、期待と、不安で、胸が高鳴るのを感じた。
窓の外から、リュウセイ様の声が、聞こえる。
「眠れないのか?」
僕は、驚いて、窓に駆け寄った。
窓を開けると、リュウセイ様が、窓の外の庭に、静かに立っている。
月明かりが、彼を照らしている。
「リュウセイ様……」
「……はい。眠れません」
「俺もだ」
僕たちは、窓を挟んで、会話を始めた。
「怖いですか?」
僕が問うと、リュウセイ様は、正直に、答えた。
「ああ」
彼の声が、夜の静寂に響く。
「儀式で、お前の魂に俺の魂が流れ込む」
「もし、俺の感情が強すぎて、お前を傷つけたら――」
「俺の孤独が、お前を押しつぶしたら――」
「俺の渇望が、お前を飲み込んだら――」
彼の声が、震えていた。
「大丈夫です」
僕は、微笑んだ。
「あなたの魂は、私を傷つけません」
「なぜ、わかる?」
「だって――」
僕は、窓ガラスに、そっと、手を当てた。
リュウセイ様もまた、窓の反対側に、その手袋に覆われた手を、重ねる。
ガラス越しの、接触。
「あなたの魂は、もう、私の中に、あるから」
「私は、あなたの全てを、受け入れられます」
「孤独も、渇望も、痛みも、全て」
リュウセイ様は、その言葉に、ゆっくりと、目を閉じた。
「……お前は、本当に――」
彼は、言葉を探すように、深く、息を吸い込んだ。
「俺の、全てだ」
「お前がいなければ、俺は、もう、生きられない」
僕たちは、窓を挟んで、夜明けまで、語り合った。
過去のこと。
未来のこと。
そして、明日のこと。
月が、僕たちを、優しく照らしている。
「明日、俺たちは――」
リュウセイ様が、囁いた。
「完全に、一つになる」
僕の頬が、月光の下で、赤く染まるのを感じた。
「はい……」
「私も、あなたと、一つになりたい」
「あなたの全てを、知りたい」
「あなたの全てを、受け入れたい」
その言葉の、官能性に、僕たちの心臓が、激しく、打った。
明日、僕たちの魂は、完全に一つになる。
それは、どんな恋人たちも経験したことのない、究極の結びつき。
僕たちは、それを、恐れながらも、同時に、心から望んでいた。
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