第5章「魂の言葉と嫉妬の獣」

査問会を乗り越え、僕の立場は王宮内で確固たるものとなった。

もはや、僕を「呪われた魔導師」と蔑む者はいない。誰もが、僕を「竜騎士団長が選んだ、王国の希望」として、敬意と期待の眼差しを向けるようになった。

廊下を歩けば、すれ違う宮廷魔導師たちが、深々と頭を下げる。貴族たちも、僕に会釈をするようになった。

その変化は、僕にとって、まだ信じられないほどだった。

訓練は、最終段階に入っていた。儀式まで、あと二週間。

僕の詠唱魔法は、感情を取り戻したことで、かつての自分とは比較にならないほどの力を得ていた。リュウセイ様の指導のもと、僕は、大結界を構成する古代の複雑な術式を、一つ、また一つと、解き明かしていく。

訓練室に並べられた魔法陣の記録。それらは、建国の英雄が二百年前に残した、詠唱魔法の最高峰だった。

僕は、それらの術式を、自分の魔力で再現することに成功していた。

儀式の成功は、もはや目前にあるかのように思えた。


だが、リュウセイ様は、まだ満足していなかった。

「……まだ、足りない」

ある日の訓練の終わり、彼は静かにそう告げた。

「お前の魔法は、確かに力を取り戻した。だが、それはまだ、お前の魂の全てではない」

彼の氷の瞳が、僕の心の、さらに奥深くを見透かそうとしてくる。

「お前は、まだ何かを隠している」

「隠している……?」

僕は、首を傾げた。自分では、もう全てを出し切っているつもりだった。

「魂の最も深い場所に、お前自身さえも気づいていない、本当の言葉があるはずだ」

リュウセイ様は、僕の瞳を見つめた。

「それを見つけ出さない限り、儀式は完全には成功しない」

「建国の英雄の詠唱は、『愛と希望』の言葉で紡がれている。お前の詠唱も、その真髄に触れなければ、結界と共鳴することはできない」

彼の言葉に、僕は、自分の胸に手を当てた。

まだ、見つけていない、本当の言葉。

それは、何だろう。


その夜、僕は、リュウセイ様に呼び出された。

場所は、僕が暮らす西の塔の、さらに上。普段は誰も立ち入ることのない、最上階の展望台だった。

螺旋階段を登り、重い扉を押し開けると、そこには、夜空が広がっていた。

円形のその場所には屋根がなく、満月が、まるで巨大な銀の皿のように、夜空に浮かんでいた。吹き抜ける夜風が、心地よい。

リュウセイ様は、僕から3メートル離れた、手すりのそばに立っていた。その漆黒の鎧が、月光を浴びて、青白く輝いている。

彼は、僕の足音に気づいても、振り向かなかった。ただ、夜空を見上げたまま、立っている。

「……来たか」

彼の声が、静かに響いた。

僕は、彼の対面に立った。3メートルの距離を保ったまま。

「今夜、俺は、お前に全ての真実を話す」

彼の、静かな声が、夜の静寂に響いた。

僕は、息をのんだ。彼が、僕の言葉を「ずっと前から知っている」と言った、あの夜の謎。その答えが、今、明かされるのだ。


「二年前、俺は戦場で絶望していた」

彼の声が、夜風に乗って、僕の耳に届く。

「副官レオンに裏切られ、多くの部下を失った。俺は、もはや生きる意味を、見失っていた」

僕は、黙って、彼の言葉に耳を傾けた。

「毎晩、悪夢を見た。部下たちの叫び声。血の海。そして、俺を憎悪の目で見つめる、レオンの顔」

リュウセイ様の声が、僅かに震えた。

「戦場で勝利しても、何の意味もなかった。守るべき者たちを、守れなかった」

「触れることもできず、誰にも心を開けず、ただ孤独に戦い続ける。……それが、俺の人生だった」

彼は、拳を握りしめた。

「ある夜、俺は、自分の剣を手に取った。このまま、全てを終わらせようと」

僕の胸が、ぎゅっと締め付けられた。

「だが、その時、偶然、一つの詠唱詩を手にした」

彼は、ようやく、僕の方へと向き直った。

「それは、学生の習作として魔導院に保管されていた、匿名の詩だった。だが、その言葉は、俺の魂を、根底から揺さぶった」

僕の心臓が、大きく跳ねた。まさか。

リュウセイ様は、僕の方へと向き直ると、その詩を、ゆっくりと、諳んじ始めた。


「凍える夜に、ただ一人

光を失くした魂よ

忘れるな、君の中にも

温もりの火種は残っている」

その声が、僕の魂を、直接震わせる。

「その火を恐れるな

燃やすことを恐れるな

灰になることを恐れるな

なぜなら、灰の中から

新しい命は芽吹くから」

ああ。それは、僕が書いた詩だ。

師を失う少し前、誰にも理解されない孤独の中で、自分自身を励ますためだけに綴った、祈りの言葉。

「誰かがきっと、その手を取る

だから、まだ諦めるな」

最後の句が紡がれた瞬間、僕の瞳から、涙が、とめどなく溢れ出した。


「この言葉が、俺を生かしたんだ」

リュウセイ様の声が、熱を帯びて、震えていた。

「俺は、その夜、剣を置いた。そして、この詩を書いた者を探すことを、生きる理由にした」

彼は、一歩、僕に近づいた。

「俺は、この詩を書いた者を探し始めた。二年間、王国中の魔導師の魔力波長を、一人残らず調べた」

「狂気じみていた。部下たちも、心配していた。だが、俺には、それしかできなかった」

「だが、俺にはわかっていた。この言葉を紡げる者こそ、俺の魂の半身だと」

彼は、その深い青色の瞳で、僕を、まっすぐに見つめた。

「そして、お前を見つけた」

「あの式典の日、何百人もの魔導師の中にいた、お前の魂だけが、あの詠唱詩と、同じ波長を放っていた」

リュウセイ様の瞳が、僕を捉えて離さない。

「その瞬間、俺の全身に電流が走った。『この人だ』と。『この人こそ、俺が探していた、魂の半身だ』と」

「俺は、確信したんだ」


リュウセイ様が、僕に向かって、一歩、近づいた。

距離が、2メートルに縮まる。

「俺は二年間、お前の、まだ見ぬお前の、魂の言葉に、恋い焦がれていた」

彼の声が、熱を帯びる。

「お前の書いた言葉を、毎晩、読み返した」

「お前がどんな顔をしているのか、想像した」

「お前がどんな声で詠唱するのか、夢に見た」

彼は、さらに、一歩、踏み出した。

距離、1メートル。

「抱きしめたい。口づけたい。お前の全てを、この手で確かめたい」

彼の声が、熱に、うわずる。

「お前の肌に触れたい。お前の温もりを感じたい」

「お前の髪に顔を埋めたい。お前の匂いを知りたい」

「だが、できない」

さらに、一歩。

距離、50センチ。

もう、手を伸ばせば、届いてしまう距離。

「だから、言葉で、伝えさせてくれ」

そして、最後の一歩。

距離、30センチ。

僕たちの間に、もはや、何の障害もない。ただ、触れることのできない、絶対的な呪いだけが、横たわっている。

「愛している」


その声は、囁きだった。

だが、どんな雷鳴よりも、僕の魂を、激しく揺さぶった。

「お前の詠唱を、まだ聞かぬうちから、ずっと」

「お前の顔を、まだ見ぬうちから、ずっと」

「俺は、お前を、愛していた」

リュウセイ様の瞳が、月光を受けて、濡れて光っている。

「お前の魂が、俺を生かしている」

「お前なしでは、俺は、もう、生きられない」

涙で、彼の姿が、滲んで見えない。

「……私も……」

声が、震えて、言葉にならない。

「私も、です……」

僕は、涙を拭おうともせず、彼を見つめた。

「あなたの声が、あなたの瞳が、あなたの、その魂の全てが……私を、生かしています」

「私も、あなたなしでは、生きられません」

僕たちは、わずか30センチの距離で、ただ、見つめ合った。

月明かりだけが、僕たちを照らしている。


「……触れたい」

リュウセイ様の声が、切なく、夜空に響いた。

「だが、触れれば、お前を殺してしまう」

「……これが、俺の呪いだ」

僕は、無意識に、自分の手を、彼の方へと伸ばしていた。

リュウセイ様もまた、まるで、磁石に引かれるように、その手を、僕へと伸ばす。

手袋に覆われた、二人の指先。

それが、触れ合う、寸前。

5センチの距離で、ぴたり、と止まった。

その、わずか5センチが、この世で最も遠い距離に感じられた。

僕たちの指先が、互いを求めて、微かに震えている。

「……いつか」

僕は、囁いた。

「いつか、あなたに、触れられる日が、来ますか?」

リュウセイ様は、苦しげに、しかし、どこまでも優しく、微笑んだ。

「わからない」

「呪いを解く方法は、誰も知らない」

「だが――」

彼の瞳が、僕だけを見つめている。

「お前となら、その日を、永遠にだって、待てる」

僕たちは、触れられない指先を、互いに向けたまま、その場で、動けなかった。

月が、僕たちの上を、ゆっくりと移動していく。

これ以上ないほど、官能的で、そして、切ない時間が、月明かりの下で、静かに、流れていった。


翌朝、僕が訓練室へ向かう途中、人気のない中庭で、カイトに呼び止められた。

「ユキ」

彼の表情は、どこか、思い詰めたようだった。

朝の光の中で見る彼の顔は、ひどく疲れているように見えた。目の下に隈ができている。

「……カイト」

「お前は本当に、あの氷竜帝を、愛しているのか?」

その、あまりに直接的な問いに、僕は、一瞬、言葉に詰まった。

だが、もう、自分の心に、嘘はつけなかった。

昨夜、満月の下で、僕たちは愛を告白し合った。

もう、隠す必要はない。

僕は、彼の緑色の瞳をまっすぐに見つめ返し、はっきりと、頷いた。

「……はい。愛しています」

初めて、自分の口で、その感情を、認めた。


その瞬間、カイトの顔から、すっと、血の気が引いていくのが分かった。

彼の胸の中で、何かが、音を立てて崩れ落ちるのを、僕の「共感覚」は、感じ取っていた。

黒い絶望の色。冷たい諦めの温度。

「……そうか」

彼は、力なく、そう呟いた。

そして、まるで、何かを確かめるかのように、僕の肩に、そっと、手を置いた。

友人としての、何気ない、別れの接触。

彼の手の温もりが、僕の肩に伝わる。

その、瞬間だった。


「――その手に、触れるな」

嵐のような、凄まじい魔力と共に、リュウセイ様が、僕たちの間に、割って入った。

彼の身体から、青い魔力が、嵐となって吹き荒れる。

中庭の木々が、その魔力の余波で、激しく揺れた。

彼は、無言で、カイトの手首を掴もうとし――いや、その寸前で、動きを止めた。

触れれば、カイトの魂を、焼いてしまう。

「ユキに、触れるな」

リュウセイ様の声は、氷のように冷たく、そして、溶岩のように、熱かった。

彼の顔から、あの冷静沈着な「氷竜帝」の仮面は、完全に剥がれ落ちていた。

そこにいたのは、ただ、嫉妬という名の炎に、身を焼かれる、一人の男だった。

「お前に、彼に触れる権利はない」

その声には、理性のかけらもなかった。

ただ、純粋な、原始的な、独占欲だけがあった。

カイトは、思わず、一歩後ずさった。

彼は、初めて見る、リュウセイ様の剥き出しの感情に、呆然としていた。

そして、彼は、全てを、理解した。

この男は、本気だ。

本気で、ユキを、愛している。

命を賭けてでも、守ろうとしている。


カイトは、ゆっくりと、僕の肩から、手を引いた。

「……すまなかった」

彼は、リュウセイ様に向かって、静かに言った。

「俺は、ただ、ユキを、守りたかっただけだ」

「悪意はなかった。ただ――」

彼の声が、震えた。

「ただ、俺も、ユキを――」

その言葉を、彼は最後まで言わなかった。

その言葉に、リュウセイ様の瞳から、殺気にも似た光が、わずかに和らいだ。

「……お前の気持ちは、わかる」

リュウセイ様の声が、僅かに、落ち着きを取り戻した。

「だが、もう、ユキは一人ではない」

カイトは、リュウセイ様の瞳を、まっすぐに見つめ返した。

その瞳には、もう、嫉妬の色はなかった。

ただ、深い諦めと、そして、友人への最後の願いがあった。

「……彼を、頼む」

それは、完全な降伏であり、そして、友人としての、最後の願いだった。

リュウセイ様は、静かに、頷いた。

「約束する」


カイトは、最後に、僕に向き直った。

その顔には、もう、嫉妬の色はなかった。

ただ、深い、深い寂しさが、浮かんでいた。

「……幸せになれ、ユキ」

彼の声が、優しかった。

「お前は、ずっと、俺の、大切な友人だ」

僕の瞳から、涙が、溢れた。

「カイト……」

僕は、彼の名を呼んだ。

「ありがとう」

「あなたも、きっと、素敵な人に出会えます」

「あなたを、本当に愛してくれる人に」

カイトは、微かに微笑んだ。

「……そうだといいな」

彼は、背を向けた。

「いつか、また会おう」

彼は、一度も振り返ることなく、王宮の回廊の向こうへと、歩き去っていった。

その背中は、寂しげだったが、同時に、何かから解放されたかのように、どこか、軽やかに見えた。


カイトが去った後、リュウセイ様は、僕の手を、乱暴に、しかし、触れないように、引いた。

そして、人気のない、回廊の奥へと、僕を連れて行く。

僕は、彼に引かれるまま、歩いた。

彼の背中が、怒りで震えているのが、わかった。

誰もいない回廊。

ドン、という音と共に、僕の背中が、冷たい壁にぶつかった。

リュウセイ様が、僕を、壁に追い詰めていた。

距離、30センチ。

彼の両手が、僕の顔の横の壁につき、逃げ場を、完全に塞いでいる。

いわゆる、「壁ドン」。

だが、彼の身体は、僕には、決して、触れない。


「……お前は、俺のものだ」

彼の声が、怒りと、渇望に、震えていた。

「他の誰にも、触れさせない」

「たとえ、この俺が、お前に、触れられなくても」

彼の、氷の瞳が、まるで、獲物を貪るかのように、僕を、見つめている。

その瞳には、理性ではなく、本能が宿っていた。

「わかっているのか? 俺が、どれだけ、お前を――」

そこで、彼は、はっと我に返ったように、言葉を切り、壁を、ドン、と強く殴った。

壁に亀裂が入る。

「……すまない。今のは、忘れてくれ」

彼は、自分の感情に、怯えているようだった。


だが、僕は、静かに、首を横に振った。

「忘れません」

僕は、勇気を振り絞って、彼の、激情に揺れる瞳を、見つめ返した。

「私は、あなたの、所有物ではありません」

その言葉に、リュウセイ様の表情が、わずかに、曇る。

「ですが――」

僕は、続けた。

「私自身の、意志で、あなたを、選びます」

「私は、あなたのものに、なりたい」

リュウセイ様の瞳が、驚きに、見開かれた。

「……本当に、いいのか?」

彼の声が、かすれていた。

「俺は、お前に、触れることすらできない」

「抱きしめることも、口づけることも、できないんだぞ」

「お前の肌に触れることも、お前の温もりを感じることも、一生、できないかもしれない」

彼の声が、自己嫌悪に満ちていた。


僕は、微笑んだ。

二年ぶりに、心の底から、何の翳りもなく、笑った。

「触れられなくても、構いません」

「あなたの声が、あなたの瞳が、あなたの魂が、いつも、私に、触れてくれています」

「あなたの魔力が、私を包んでくれます」

「あなたの言葉が、私を温めてくれます」

「それだけで、私は、十分です」

僕の言葉に、リュウセイ様は、まるで、崩れ落ちるかのように、その額を、僕のすぐ隣の壁に、強く、押し当てた。

「……お前は、俺を、殺す気か」

その声は、苦悶と、そして、歓喜が、ないまぜになっていた。

「こんなにも、愛しているのに、触れられない」

「こんなにも、欲しているのに、抱けない」

「……これほどの、拷問は、ない」

僕たちは、わずか30センチの距離で、壁に、額を押し当てていた。

決して、触れ合うことのない距離。

だが、それは、どんな抱擁よりも、どんなキスよりも、遥かに、親密な瞬間だった。

互いの、荒い息遣いが、重なり合う。


「……儀式が終わったら――」

リュウセイ様が、囁いた。

「もし、万が一、俺のこの呪いが、解けたら」

彼の声が、希望と、絶望の間で揺れている。

「……その時は、もう、決して、お前を離さない」

「抱きしめる。口づける。お前の全てを、確かめる」

僕の頬が、熱くなるのを感じた。

「……はい」

僕も、囁き返した。

「私も、あなたを、離しません」

「あなたに、触れます。あなたを、感じます」

「あなたの、全てを、知りたいです」

僕たちは、壁を挟んで、永遠を、誓った。

その誓いが、叶うのか、叶わないのか、僕たちには、わからなかった。

だが、それでも、僕たちは、信じることを選んだ。

いつか、触れ合える日が来ることを。

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