第4章「王妃の前で」
リュウセイ様と魂が共鳴したあの日以来、僕の訓練は飛躍的に進歩した。
もう、感情を恐れることはなかった。怒りも、悲しみも、そして、リュウセイ様を想う、この温かい喜びも。その全てが、僕の詠唱魔法の、かけがえのない源泉となることを、僕は、魂で理解していた。
僕の紡ぐ言葉は、日に日に、その力を増していった。部屋の片隅に置かれた枯れた花を、詠唱だけで、再び咲かせることさえできるようになった。色褪せた花びらが、僕の言葉に応えるように、鮮やかな紅色を取り戻していく。その瞬間を、リュウセイ様は、3メートル離れた場所から、黙って見つめていた。
「……美しいな」
彼が、ぽつりと呟いた言葉。それが、花を指しているのか、僕の魔法を指しているのか、それとも――。
僕は、顔が熱くなるのを感じた。
リュウセイ様は、そんな僕の成長を、何も言わず、ただ、静かに、そして、どこか誇らしげに見守ってくれていた。
訓練は、もはや苦痛ではなかった。彼の声に導かれ、魔力を共鳴させる時間は、僕にとって、この世で最も幸福な時間になっていた。
触れられない、3メートルの距離は変わらない。だが、僕たちの魂は、もはや、どんな恋人たちよりも、深く、固く、結びついていると、確信できた。
このまま、儀式の日まで、穏やかに時が過ぎていく。
そう、信じていた。
だが、僕たちの絆を試すかのように、宮廷の闇が、静かに動き始めていた。
宮廷内で、不穏な噂が流れ始めたのは、儀式まで一ヶ月を切った頃だった。
「大結界修復の儀を、あの『呪われた魔導師』に任せるなど、正気の沙汰ではない」
「二年前、自らの師を殺した男だぞ」
「竜騎士団長は、何を考えているのだ……」
保守派の貴族たちが、公然と、僕の責任者就任に、異を唱え始めたのだ。
僕は、王宮の廊下を歩く度に、貴族たちの冷たい視線を感じた。彼らは、僕の姿を見ると、露骨に顔をしかめ、あるいは、侮蔑の眼差しを向けた。
「あれが、例の……」
「師殺しの魔導師だそうだ」
「竜騎士団長も、なぜあのような者を……」
囁き声が、僕の背中に突き刺さる。
だが、僕は、もう逃げなかった。リュウセイ様が、僕を信じてくれている。それだけで、僕は、前を向いて歩くことができた。
その噂の裏に、カイトの暗躍があることを、僕はまだ知らなかった。
彼は、僕の過去の失敗を、魔導院の書庫から詳細に調べ上げ、その情報を、巧みに貴族たちへとリークしていた。儀式の日付、失敗の状況、師の死因、そして、儀式の後、僕が心を閉ざして生きてきた二年間の記録。全てが、貴族たちの手に渡っていた。
彼の動機は、複雑だった。リュウセイ様への、燃えるような嫉妬。そして、「ユキを、再び危険な儀式から守らなければならない」という、歪んだ、独善的な愛情。
カイトは、学生時代、僕が感情を抑えることに苦しんでいた時、唯一、僕の話を聞いてくれた友人だった。彼は、僕の痛みを理解してくれていたはずだった。
だが、今、彼は、僕を救うために、僕を、社会的に抹殺しようとしていた。
それが、彼なりの、愛の形だった。
そんな宮廷の不穏な空気を感じ取りながらも、僕は、自分のやるべきことに集中しようとしていた。
ある夜、僕は、リュウセイ様に内緒で、一人、訓練室を抜け出した。
向かったのは、王都の北端に位置する、大結界の綻びが最も大きいとされる場所。
「自分が、何とかしなければ」
その、焦りに似た使命感。そして、心の奥底には、「リュウセイ様に、もっと認められたい」という、自分でもまだ、はっきりと自覚していない、淡い想いがあった。
彼に、もっと頼られたい。
彼に、もっと必要とされたい。
そして、彼の隣に、対等な存在として、立ちたい。
そんな、青い願望が、僕を、危険な夜の街へと駆り立てていた。
夜の闇に紛れ、僕は、結界の綻びがあるという、古い礼拝堂の跡地へとたどり着いた。
かつては、建国の英雄を祀る神聖な場所だったという。だが、今は、誰も近づかない、廃墟と化していた。
空気そのものが、淀んでいる。空間が、不安定に、歪んでいるのが、僕の「共感覚」に、不快なノイズとなって伝わってきた。色も、音も、温度も、全てが狂っている。
綻びは、僕が想像していたよりも、遥かに深刻だった。
礼拝堂の中央、かつて祭壇があったであろう場所に、空間に、直径1メートルほどの、黒い亀裂が、まるで口を開けるように、不気味に脈動している。
その亀裂から、異世界の瘴気が、じわじわと、漏れ出していた。それは、生命を拒絶する、冷たく、腐敗した臭いを放っていた。
僕は、意を決して、その亀裂に手をかざし、自らの魔力で、綻びの状態を、内側から探ろうとした。
魔力を流し込む。亀裂が、僕の魔力に反応し、さらに大きく脈動する。
その時だった。
黒い亀裂の中から、一体の、影のような魔物が、音もなく、飛び出してきた。
それは、漆黒の体毛を持つ、巨大な狼の姿をしていた。その両目だけが、憎悪を示す、赤い光をたたえている。その口からは、腐肉の臭いが漂っていた。
「……っ!」
僕は、咄嗟に、防御障壁を展開した。光の壁が、僕と魔物の間に現れる。
だが、魔物の鋭い爪が、障壁を、ガラスのように、いとも簡単に引き裂いた。
爪が、僕の左腕を、深く、切り裂く。
「ぐ……ぁっ!」
激痛が走り、僕は、地面に倒れ込んだ。傷口から、魔物の瘴気が、黒い霧となって、僕の身体を蝕んでいく。
まずい。このままでは、喰われる。
僕は、最後の力を振り絞り、詠唱魔法を使おうとした。言葉を紡ごうとする。だが、痛みと恐怖が、僕の思考を、混乱させる。
そして、痛みと恐怖が、僕の感情を、再び、暴走させようとしていた。魔力が、体内で、荒れ狂い始める。
二年前の、あの悪夢が、蘇る。
『やめろ……! また、僕は……!』
魔物が、今度こそ僕の喉笛を食いちぎろうと、その巨大な口を開く。
その、絶望の瞬間だった。
夜空を切り裂き、巨大な、氷の咆哮が、轟いた。
見上げると、月を背に、巨大な氷竜セラフィムが、その美しい翼を広げていた。月光を受けて、その鱗が、ダイヤモンドのように輝いている。
そして、その背には、漆黒の鎧を纏った、リュウセイ様の姿が。
セラフィムが、口から、絶対零度の吹雪を吐き出す。影の魔物は、悲鳴を上げる間もなく、一瞬で凍りつき、そして、粉々に砕け散った。
セラフィムは、僕の目の前に、静かに舞い降りた。その巨体が、大地に降り立つ衝撃で、礼拝堂の瓦礫が、さらに崩れ落ちる。
リュウセイ様が、その背から、飛び降りてくる。
彼の顔は、僕が今まで見たこともないほど、怒りと、そして、恐怖に、歪んでいた。
「氷竜帝」の仮面は、完全に剥がれ落ちていた。
「なぜ、一人で、こんな場所に……!」
その声は、激情に、震えていた。
僕は、初めて見る、彼の剥き出しの感情に、言葉を失った。
「お前が、もし、死んだら、俺は――」
彼は、そこで、はっとしたように、言葉を飲み込んだ。そして、僕の腕の傷に気づくと、その顔から、さらに血の気が引いていくのが分かった。
「傷が……瘴気に侵されている……!」
彼は、僕の元へ駆け寄り、その手を、伸ばした。
僕に触れようとする、その手。
だが、その手は、またしても、僕に触れる寸前で、固く、握りしめられた。
「……っ!」
彼は、悔しそうに、歯を食いしばった。触れたい。だが、触れられない。その葛藤が、彼の顔に、痛々しいほど浮かんでいた。
「くそっ……!」
リュウセイ様が、自分自身に対する怒りを、吐き出すように叫んだ。
そして、自らが纏っていた、竜騎士団長のマントを、荒々しく引き剥がすと、それを、僕の身体に、投げつけた。
「それで、傷を押さえろ。すぐに、魔導医を呼ぶ」
僕は、彼のマントに、包まれた。まだ、彼の体温と、そして、冬の森のような、静かで、冷たい香りが、残っている。
その温かさと香りに、なぜか、涙が、こぼれそうになった。
これが、彼の温もり。
触れることはできないけれど、確かに、ここにある、彼の温もり。
「……すみません」
「謝るな」
リュウセイ様は、僕に背を向けた。その広い背中が、かすかに、震えているように見えた。
「……お前が、無事でいてくれないと、俺は――」
その先の言葉は、夜の風に、かき消された。
だが、僕には、わかった。
彼は、僕を、必要としてくれている。
僕がいなくなったら、彼は、また、あの孤独に戻ってしまう。
その事実が、僕の胸を、熱くした。
翌日、僕の単独行動は、宮廷内で、大きな問題となっていた。
「竜騎士団長の制止を振り切り、勝手に結界の綻びに近づいた」
「その結果、魔物の侵入を許し、危険な状況を招いた」
「やはり、あの魔導師に、儀式を任せるべきではない」
保守派貴族たちの声は、日増しに大きくなっていった。
そして、それを口実に、保守派貴族たちは、僕を糾弾するための、公式な査問会を開くことを、国王陛下に認めさせた。
王宮の大広間。
中央に立たされた僕を、幾重にも取り囲むように、貴族たちが、冷たい視線を向けていた。彼らの視線は、まるで、罪人を見るかのようだった。
上座には、国王陛下の名代として、王妃エリザベート様が、憂いを帯びた表情で座っている。
若く、美しい王妃様は、かつて、感情的な魔法で失敗した過去を持つと、噂されていた。だが、その真偽は、誰も知らない。
リュウセイ様も、その隣に、同席していた。だが、彼は、何も言わない。
ただ、その深い青色の瞳で、3メートル離れた場所から、僕を、まっすぐに、見つめているだけだった。
その沈黙が、僕には、どんな言葉よりも雄弁に、彼の信頼を語っているように感じられた。
貴族たちの列の後ろに、カイトの姿も見えた。彼の表情は、後悔と、そして、どうすることもできない無力感に、歪んでいた。
彼は、僕と目が合うと、すぐに視線を逸らした。
桐谷公爵と名乗る、保守派の筆頭が、立ち上がった。白髪の、威厳のある老人だった。
「ユキ殿。単刀直入に伺う」
公爵の声は、冷たく、鋭かった。
「二年前、貴殿はその未熟な魔法で、師である高名な魔導師を、死に至らしめた。そして、昨夜は、竜騎士団長の制止を振り切り、単独で危険な行動に及び、魔物の侵入を許した」
公爵は、僕を見下ろすように見つめた。
「……そのような、自らの感情さえも制御できぬ男に、なぜ、王国の未来を託せるとお思いか!」
貴族たちから、同調する声が上がる。
「そうだ、そうだ!」
「呪われた魔導師め!」
「我々の命を、そんな男に預けられるか!」
悪意の言葉が、槍となって、僕に突き刺さる。
僕は、震えていた。
まただ。
また、僕は、拒絶される。
また、僕の存在が、誰かを、不幸にする。
逃げたい。
この場から、消えてしまいたい。
そう思った、その時だった。
僕は、リュウセイ様の、視線を感じた。
彼は、何も言わない。ただ、見つめているだけ。
だが、その瞳が、僕に、強く、語りかけていた。
(お前なら、できる)
(お前の言葉を、俺は、信じている)
(だから、逃げるな)
その、沈黙の信頼が、僕の心に、最後の勇気を、灯してくれた。
僕は、深く息を吸った。そして、震える声で、語り始めた。
「……私は、二年前、師を失いました」
広間に、僕の声が響く。
「それは、私の、未熟さが招いた、悲劇です。その罪を、私は、一生、背負って生きていきます」
貴族たちが、僕の言葉を聞いている。その表情は、冷たいままだった。
「ですが、私は、その失敗から、多くを、学びました」
僕は、顔を上げた。そして、僕を糾弾する貴族たちを、一人ひとり、見つめ返した。
「魔法は、力ではありません。……心です」
僕の声に、少しずつ、力が宿っていく。
「師は、私に、感情を抑えろと教えました。『魔法は理性で扱うものだ』と。ですが、それは、間違っていました」
ざわめきが起こる。
「感情こそが、詠唱魔法の、本当の源泉なのです」
僕は、自分の胸に手を当てた。
「私は、二年間、心を殺して生きてきました。それが、正しいことだと、信じていました。感情を持つことは、危険だと。人を傷つけることだと」
「ですが、リュウセイ様が、私に、もう一度、心を取り戻させてくれました」
僕は、リュウセイ様を見た。彼は、僕を、じっと見つめていた。
「感情を持つことの、本当の意味を、教えてくださいました」
「怒ってもいい。悲しんでもいい。恐れてもいい。そして、愛してもいい」
「全ての感情が、魔法の力になるのだと」
僕の声が、広間に響き渡る。
「今度こそ、私は、成功させます」
「この王国を、守ります。ここにいる、全ての人々を、守ります」
「そして――」
僕は、まっすぐに、リュウセイ様を見つめた。
「私を、信じてくれた、あの方を、守ります」
広間が、静寂に包まれた。
貴族たちは、言葉を失っていた。
その沈黙を破ったのは、王妃エリザベート様の、凛とした声だった。
「……ユキ殿」
彼女は、玉座から、ゆっくりと立ち上がった。その動作は、優雅でありながら、どこか決然としていた。
「私もかつて、貴方と、同じ過ちを犯しました」
貴族たちが、ざわめく。
「王妃様……?」
「何を、仰っているのですか……?」
王妃様は、構わず、続けた。
「若い頃、私は、自らの感情的な魔法を制御できず、暴走させ、多くの兵を、傷つけてしまいました」
それは、王家の、最大の秘密だった。
「私は、自分を責めました。魔法を使うことを、恐れました。生きることさえ、恐れました」
王妃様の声が、僅かに震えた。
「ですが、国王陛下は、そんな私を、許し、そして、愛してくださいました」
「……失敗は、終わりではない。始まりなのだと、教えてくださいました」
王妃様は、僕に向かって、優しく、微笑んだ。
「だから、私は、貴方を信じます」
「貴方の言葉に、誠実さを感じます。貴方の瞳に、決意を見ます」
そして、彼女は、高らかに、宣言した。
「ユキ殿による、大結界修復の儀、正式に、許可します!」
査問会は、終わった。
貴族たちは、不満そうな表情を浮かべながらも、王妃様の決定に、従うしかなかった。
僕は、その場に立ち尽くしたまま、まだ、身体の震えが収まらないのに、気づいた。
言えた。
僕は、自分の言葉で、戦えた。
その時、リュウセイ様が、僕の前に立ち、その手袋をはめた手を、そっと、差し出した。
「よく、戦った」
その声は、誇らしげだった。
僕は、おずおずと、自分の手袋をはめた手を、その手に、重ねた。
布越しの、接触。
だが、その、わずかな接触だけで、彼の温もりが、彼の誇りが、彼の愛が、僕の魂に、流れ込んでくるのが分かった。
僕たちの魂が、震えた。
「……ありがとう、ございます」
僕たちは、数秒間だけ、その、もどかしい接触を、許し合った。周囲の視線など、もう気にならなかった。
(もっと、触れたい)
(お前の肌に、直接、触れたい)
(抱きしめたい)
(抱きしめられたい)
僕たちの心が、同じ、一つの渇望を、叫んでいた。
その夜。
カイトは、一人、自室で、膝を抱えていた。
査問会での、ユキの、あの言葉。
『私を信じてくれた、あの方を守ります』
あの時の、ユキの瞳。そこには、僕が、二年間、ずっと、取り戻させることができなかった、強い、強い光が、宿っていた。
ユキは、リュウセイを見つめていた。
僕ではなく、リュウセイを。
僕は、ユキを、守りたかった。
だが、本当に、そうだったのだろうか。
僕は、ただ、リュウセイ様に、ユキを、奪われたくなかっただけなのではないか。
嫉妬と、後悔が、彼の心を、押しつぶそうとしていた。
「俺は……何をしているんだ……」
カイトは、自分の手で、顔を覆った。
彼は、ユキを救おうとして、ユキを追い詰めていた。
それが、愛だと思っていた。
だが、それは、愛ではなかった。
ただの、独占欲だった。
カイトの瞳から、一筋の涙が、流れ落ちた。
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