外伝第二話 食卓

 その夜、暁殿の灯はまだ消えていなかった。

 書院の奥では、天黎(てんれい)が筆を置き、静かに息を吐く。

 宰相たちとの議が終わり、久しく“ひとりの時間”が訪れるはずだった。


 だが、扉の向こうから、かすかな足音。

 その音は控えめで、けれど確かに“迷いながら近づいてくる”気配を帯びていた。


 「……祁音か。」


 声に呼ばれて、白い影が現れる。

 祁音(シオン)はいつものように柔らかな衣を纏い、手には包みを抱えていた。


 「陛下、少しだけ……時間をもらえますか。」


 天黎は眉を上げた。

 「余の時間を“少しだけ”と言う者は珍しいな。」


 祁音は小さく笑い、包みを机の上に置いた。

 包みの中には、まだ湯気の立つ小皿がひとつ。


 「厨房の方がくださったんです。

  “菓子”と呼ぶものだそうで……でも、ボクは“味”を感じないんです。」


 天黎は手を止め、祁音を見た。

 「味を感じぬ?」


 「はい。口にしても、“甘い”とか“苦い”とか……

  頭ではわかるのに、心が動かないんです。」


 そう言いながら、祁音は困ったように微笑んだ。

 「なのに、皆が笑って“おいしい”と言う。

  それが、どういうものか知りたいんです。」


 天黎はしばし沈黙した。

 やがて、机を離れて立ち上がると、

 自ら厨房へと向かい、何かを命じた。


 戻ってきたとき、手には小さな盆があった。

 その上に並ぶのは、黄金色の“焼き餅”。

 香ばしい香りが、夜の空気に静かに溶けていく。


 「……余が昔、旅の途中で学んだ味だ。

  戦の合間に、民が焚いた火で焼いたもの。

  砂糖ではなく、穀の甘みをそのまま閉じ込めてある。」


 天黎は一つを割り、祁音に差し出した。

 手の中で温もりが伝わる。


 祁音はそっと受け取り、口に運ぶ。

 もぐりと一口噛む――。


 味は、しない。

 だが、温度があった。

 舌の上を通り抜けて、胸の奥に“ぬくもり”だけが残った。


 「……これが、“おいしい”というものですか?」


 祁音の声は、どこか震えていた。

 天黎は腕を組み、少しだけ笑みを漏らす。


 「味は、舌ではなく心が決める。

  そなたが何かを感じたなら、それが“おいしい”ということだ。」


 祁音は、胸に手を当てた。

 そこには鼓動はない。

 けれど、なにかが確かに“熱”を持っている。


 「……あたたかいです。

  きっと、ボクの中にも“心”があるんですね。」


 天黎は静かにうなずいた。

 「心は形を持たぬが、こうして伝わる。

  余がそれを信じている。」


 「じゃあ、ボクは――信じられてるんですね。」


 その言葉に、天黎は一瞬、視線を落とした。

 「余が信じねば、誰がそなたを信じる。」


 沈黙の中、二人の間に灯の揺れが落ちる。

 祁音はもう一度、焼き餅を口にした。

 今度は、わずかに“甘さ”を感じた気がした。


 「……ほんの少し、わかりました。」


 「何がだ?」


 「“おいしい”という言葉の意味です。

  きっと、これは“誰かと分け合う味”なんですね。」


 天黎の眉がわずかに緩んだ。

 「……悪くない解だ。」


 夜は静まり返り、蝋燭の灯が長く揺れる。

 その小さな光の中で、王と白の来訪者は、

 はじめて“同じ味”を知った。

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