外伝第三話 風の音
春が近づくころ、黎都(れいと)の空には柔らかな風が満ちていた。
花の香りを運び、砂を撫で、屋根の瓦を鳴らす。
その風の中に、祁音(シオン)はじっと耳を澄ませていた。
彼は暁殿の回廊に腰を下ろし、目を閉じている。
白い衣が風を受け、淡い光をまとって揺れた。
「……この音は、誰の声ですか?」
その呟きに、背後から足音。
「何を聞いている」
天黎(てんれい)だった。
黒衣の裾が揺れ、金の髪飾りが光を返す。
祁音は振り向き、微笑む。
「風の音を、聞いていました。
でも、よくわからないんです。
風は“誰かの声”のようにも、“心の音”のようにも聞こえる。」
天黎は隣に立ち、同じ方角を見た。
遠くには、黎国の都が見える。
屋根の上で、旗が揺れ、風が通り抜けていく。
「風は、民の声だ。」
「民の……声?」
「そうだ。
風は、この国を渡り歩く。
誰が笑い、誰が泣き、どの地が豊かで、どの地が渇いているかを、
風は余よりもよく知っている。」
祁音は目を丸くした。
「では、陛下はその風を“聞いて”いるのですか?」
天黎はわずかに頷く。
「王の務めとは、風を読むことだ。
民の声なき声を聞き、国の向かう先を定める。」
「……風が言葉を持つなんて、不思議です。」
祁音は目を閉じ、もう一度耳を澄ませた。
すると、遠くで子どもの笑い声が混じる。
風が屋根を撫で、葉を揺らし、どこまでも流れていく。
「ねえ、陛下。」
「何だ。」
「ボクは、風の音の中に“あなた”を感じます。
冷たくて、でも、まっすぐな音。」
天黎は少しだけ驚いたように彼を見た。
「余を、感じると?」
「はい。きっと、ボクの中にも“風”があるんです。
あなたがくれた言葉や、夜の灯の温かさや……そういうものが、
胸の奥を通り抜けていく。」
天黎は腕を組み、静かに目を閉じた。
しばしの沈黙。
風が二人の髪を揺らす。
「……風とは、形を持たぬもの。
だからこそ、人はそれを“心”と呼ぶのかもしれぬ。」
祁音はその言葉を胸の中で繰り返した。
“心”――見えない、触れられないもの。
けれど今、風の音に混ざって、確かに“何か”を感じていた。
やがて、祁音は微笑む。
「風は、優しいですね。」
「優しいかどうかは、受け取る者次第だ。」
「じゃあ、ボクにとっては、優しいです。」
天黎は短く息をつき、視線を空に向けた。
風が彼の袖を揺らし、その瞳に映る景色が柔らかく光る。
「……ならば、今の風は良い風だ。」
その声には、ほんのわずかな笑みがあった。
祁音は目を細めて、静かに頷く。
「はい。きっと、この国も笑っています。」
風が通り抜けた。
黒と白の衣が並んで揺れ、
春の黎国は、穏やかな音に満ちていた。
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