黎国日抄(れいこくにっしょう)―祁音のいた日々―

白(はく)

外伝第一話 花の名

 黎国の王宮には、季節ごとに花が咲く庭があった。

 祁音(シオン)は、よくその場所に立っていた。

 花々は風に揺れ、陽の光を受けてゆらめく。

 けれど彼の瞳には、それらがすべて“色の揺らぎ”としてしか映らなかった。


 「この花の名は?」


 問いかけると、傍らに控えていた女官が答える。

 「黎花(れいか)にございます。黎国の象徴、陛下がお好みの花です。」


 祁音はしばし眺めた。

 「……白いのに、黎(くろ)と呼ぶのですね」


 「はい。夜明け前の光――“白の中に黒を含む”色と申します。」


 祁音は首を傾げた。

 「難しい言葉です。けれど、きれいですね。」


 その声に応えるように、背後から低い声が届いた。

 「その花は、夜明けの象徴だ。」


 天黎(てんれい)が立っていた。

 黒衣の裾が風に揺れ、陽の光に金の刺繍が光る。

 女官が慌てて頭を垂れる中、祁音は嬉しそうに微笑んだ。


 「陛下、花は“象徴”なのですか?」


 「象徴であり、約束だ。

  黎花は夜明けを願う者が育てる。

  闇を恐れぬ心を映す色だ。」


 祁音は花に手を伸ばした。

 指先に触れると、花弁がわずかに光を放つ。

 その光が風に溶け、陽の粒となって舞った。


 「……きれいですね。」


 「そなたの手が、光を生むのか?」


 「ボクには、わかりません。でも――

  この国の花は、あたたかいです。」


 天黎は、微かに息を漏らした。

 その横顔には、ほんの一瞬だけ“笑み”が浮かんだ。

 祁音はその表情を見逃さず、目を細める。


 「陛下、今、笑いましたね?」


 「……余がか?」


 「はい。少しだけ。」


 王は小さく咳払いをし、視線を逸らした。

 「黎花は陽を受けて咲く。……そなたが来てから、庭が明るい。」


 その言葉に、祁音は胸に手を当てた。

 鼓動はない。けれど、あたたかさがそこにあった。


 「じゃあ、ボクも――この花と同じですね。」


 天黎は答えなかった。

 ただ、黎花の一輪を摘み取り、祁音の掌にそっと置いた。


 「……名を覚えておけ。黎花。

  そなたがこの国で初めて触れた“命”だ。」


 祁音はうなずき、花を胸に抱いた。

 その小さな白が、彼の中に初めて芽吹いた“心”だった。

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