第三章 12

霧亥は仕事終わりに毎日やって来て、なにくれとなく凜の世話を焼いた。

「来たぞ。開けろ」

 そして凜が玄関の扉を開けるまでそこに居座り、彼女が嫌々扉を開けると強引になかに入って台所に立ち、勝手にそこを使って買ってきた食材を切り出し、凜に夕食を無理矢理にでも食べさせるのだ。

「できたぞ。食え」

「……たべたくない」

「食いたくなくても、食え」

 正面で見張るようにじっと見つめているので、食べないという選択肢はない。それで、凜は仕方なしに箸を取る。もそもそ、もそもそ。ひと口ふた口食べて、箸を置く。

「よし、食ったな。風呂入ってこい。俺は片づけとく」

 問答無用で霧亥が立ち上がるので、睨んでも効き目がない。凜は逃げ場がなくなって、着替えとタオルを持って風呂場へ行く。そしてごく短い時間で入浴をすませると、すぐに上がってくる。

 髪は濡れたまま、肌は手入れせず、着替えたのみである。

「上がったか」

 片づけを終えてリビングで待っていた霧亥は、化粧水と美容液を凜の肌に塗ってやる。

 それからタオルで濡れた髪を乾かし、ドライヤーを当てて乾燥させた。

「明日の朝迎えに来るからな。起きろよ」

 彼はその言葉通りに翌日の朝やってきて、寝ている凛を叩き起こした。

「いつまでも寝てんじゃねえ。起きろや」

 そして凜に顔を洗わせ、着替えをさせ、

「味噌汁作ったから、これだけでも飲め」

 と朝食を食べさせると、共に電車に乗り、大帝興業の玄関口まで共にやってくると、

「じゃあな、また夜行くからな。ちゃんと昼飯、食えよ」

 と行ってしまうのだ。

 それが毎日続いた。

 そうするうちに、段々と悲しい気持ちが消えていき、南先輩の姿を見ても吐き気を催すことはなくなっていった。仕事のミスも、あることはあったが減った。

 そして、夏になった。

「顔色がよくなってきたな。食欲も戻ったな」

 霧亥がほっとしたように言う。

 この半年間、彼は見上げるほどの心がけで凜の世話をそれはそれはまめまめしく焼いた。 誰もそれを評価しなかった。誰もそれを知らなかった。ただ一人、凛を除いては。

 確かに、凜の食欲は戻った。食べるようにはなった。体重も、以前のものと同じになったようである。

 だが、目に光がない。

 ぼーっとして、抜け殻のようなのである。

 まだ立ち直ってねえのか。そりゃそうだよな。ふられた相手の顔毎日見てんだもんな。

 霧亥が苦々しい思いでいると、凜はうつむいて言った。

「私、やっぱり会社辞めようと思う」

「なん、なんだと」

 彼があまりのことに言葉を失っていると、凜はぽつりぽつりと続けた。

「先輩見てると、つらい。吐くことはなくなったけど、ああ先輩は幸せなんだなって見せつけられて、すごくしんどいの。それに比べて私はこのひとにふられてこんなにも不幸なんだって思うと、なんだかみじめで」

「でもお前、あんなに頑張って大帝受けたじゃねえか。せっかく採用されて、仕事も楽しくて毎日張り切ってたのに」

「先輩がいたからよ。みんな先輩のためだった。馬鹿よね。それだけのために働くとこ決めるなんて。先輩との関係がだめになったら、みんなおじゃんになるのに。霧亥の言った通りだった」

「……」

「これ以上、あそこにいることはできない。先輩だって、ふった女が側をうろついてたら迷惑よ。私なんていなくなった方がいいのよ」

「馬鹿言ってんじゃねえ」

 霧亥が大声を出したので、凜はびくりとなった。彼がこんな厳しい声を出すのは、これまでで初めてだった。

「てめえ、いつまでも甘いこと言ってんじゃねえぞ。お前は大人の、成人した社会人だ。

 失恋したくらいで会社を変わるだなんて舐めたこと言ってんじゃねえ。責任ある、社会的倫理のある大人の女なら、ふられてもなんでも堂々としてろ。それがいい女ってもんだ。

 南先輩がなんだ。たかが男一人にふられたくらいで、いつまでも世界の終わりみたいな面してんじゃねえ。前を向け前を」

「霧亥……」

 それから彼は、少し声を落としてこう言った。

「俺の側にいればいいだろ、ずっと」

「……やだよ。もう一人になりたい」

「させねえ。なにするかわかったもんじゃねえし」

 それで凜は大層驚いて、霧亥を見上げた。

「なんでそんなこと言うの。なに言ってるの」

「いい加減気づけよ」

 彼は舌打ちした。

「お前、鈍いんだよ」

「え? え?」

「俺は、買い物が嫌いだ。あれこれ店を回って見るのも、とっかえひっかえ悩んで見て回るのも、好きじゃねえ。ぱっと行ってさっと買って、飯食ってお茶して帰る。それが俺のやり方だ」

「え、でも」

「俺がお前の買い物に付き合ったのは、お前といられるからだ。お前の喜ぶ顔が、見られるからだ」

「――」

「今まで付き合った女だって、好きだったわけじゃない。そいつらと一緒にいてもお前のことを考えてた。別の女と付き合えば、お前のことを忘れられるかもしれないと思った」

「……いつから?」

「なにが」

「いつから、私のこと」

「一年の、川に行った時。お前みんなが遊んでるのに、一人で働いてただろ。俺それ見て、いい子だなって思った。自分だけ損な役回りを引き受けてにこにこ笑って、いい子なんだなって。それでお前の側にいるようになった」

「あれから、ずっと?」

「ああ」

「私が、先輩のこと好きになっても?」

「そうだ」

 凜の目から、涙がぽろぽろとこぼれ出た。

「お前が先輩を好きになる前からずっと、お前が好きだった」

 初めて知った事実に、凜は涙が止まらない。知らないうちに、自分はたくさん霧亥を傷つけていたということを知って、凜はそのことに傷ついている。

 ずっと一緒にいてくれた霧亥、どんなことがあっても側に付き添ってくれた霧亥、時に苦言を呈し、時に助言をし、共に笑い、怒り、遊び、学んだ彼は、自分をこんなにも愛してきてくれたのだと思うと、想いがあふれ出た。

「ごめんね。そんなことも知らないで浮かれて舞い上がって、ずっと苦しい思いさせて、ごめんね」

「泣くなよ」

 霧亥はため息混じりで困ったように言った。

「お前が泣くの見るの、俺、嫌なんだ」

 しかし、凜の涙はもう止まらない。次から次へと、目から涙があふれていく。

「後悔させねえから、俺を好きになれ」

 霧亥は恐がるかのように、それでもそっと凛を抱き寄せた。彼の腕のなかに入ってしまうと、凜の涙はもう止まらなくなって、彼女はひとしきり泣いていた。

 霧亥はそれに、辛抱強く付き合ってくれた。

 ようやく凜が泣き止むと、彼は言った。

「気がすんだか」

「……うん」

「もういいか」

「うん」

 凜がうなづくと、霧亥は置いていた鞄を取りに行った。その後ろ姿を、凜はぼーっと見つめていた。

 好きに、なれるといいな。

 なれる気が、する。

 だって相手は、霧亥だもん。

「行こう」

 霧亥が手を差し伸べてきた。凜はその手を取って、恥ずかしそうに手を繋いだ。

「足元気をつけろよ」

「うん」

 雲が晴れて、日が差してきた。

「暑いね」

「まだ蝉は鳴いてないな」

 夏はもう、すぐそこである。


                          了

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