第三章 11

春がやってきた。

 その週末相澤の家を訪ねた南は、買い物袋を下げて彼のアパートのすぐ近くまでやってきていた。

 角を曲がれば相澤の部屋、という時に、道端で二、三人の主婦らしき中年女性たちが話しているのが見えた。どこにでもある風景だと気にせずに通り過ぎようとすると、そのうちの一人が南に気づいて、他の二人に目配せした。

 ぴたり、会話が止まるのがわかって、彼女たちが自分が歩いているのを見守っているのが感じられた。そして、すぐに囁き声が聞こえてきた。

 ほら、あれよ。いやねえ、いやらしい。男同士なんて気色悪い。この前手を繋いでるのを見た人がいるんですって。まあいやだ。

 冷や汗が出た。

 早足で相澤の部屋に行くと、

「やあ、いらっしゃい」

 彼はなにも知らないかのように迎えてくれた。

「どうしたの」

 今あったことを、彼に言うべきか、どうか。彼の近所のことだ。耳に入れるべきだろうか。

「……なんでもない」

 部屋に入って、いつものように時間を過ごす。昼食を作り、一緒に食べる。散歩をする。

 買い物に出かける。

 表に出ると、あの主婦たちはまだ道端にいて、ひそひそとこちらを見てなにかを囁き合っている。昼間からなにを考えているのかしら。出ていってほしいわねえ。なんとかできないかしら。

 あまりの言葉に、南は思わず彼女たちを睨みつけた。すると、主婦たちはそそくさと目をそらし、そこから立ち去ってしまった。

「まあまあ」

 相澤は苦笑いしながら南に言った。

「言わせておけばいいよ」

「知ってたの?」

「まあ、人の口に戸は立てられないから」

 気を遣って言わなかった自分を、南は恥じた。ここに住んでいるのは他でもない、相澤自身だ。彼の耳に、あんなわかりやすい声が入らないはずがない。とっくに知っていたのだ。

「どうするの、あれ」

「そのうち飽きるよ」

 相澤は意に介していない。

「君は初めてかもしれないけど、よくあることだから」

 その言葉で、南はいかに自分が狭い世界のなかでぬくぬくと泳いでいたのかを実感した。

 相澤は年が上な分だけ、色々なものを見て、経験している。嫌なものもたくさん見ている。そのなかには、無論差別も含まれているだろう。

「気にしない気にしない」

 相澤はそう言ったが、事態はそうも言っていられない方向へと動き出していた。

 それは、南が相澤の部屋に泊まった夜のことだった。

 真夜中、突然玄関の扉が何度も乱暴に叩かれ、二人は起こされた。

「なんだ?」

 相澤は起きていって、玄関の扉を開けた。

 しかし、誰もいない。不思議に思って外に出てみたが、影も形も見られなかった。

「なんだった?」

「誰もいなかったよ。いたずらかな」

 変なの、と言い合ってまた眠りにつくと、しばらくしてまた扉が叩かれる。そして起こされて出ていくと、そこには誰もいないのだ。

 それが何度も続いて、その夜は結局満足に眠れなかった。

 実害が特にないから、警察に言うわけにもいかない。

 おかしなことに、それは南が泊まる夜に限って起こるのである。

「誰かの嫌がらせだよ」

 南は怒って、抗議しようと言った。

「でもなあ、誰がやったかわからないからなあ」

「きっとあの時のひとたちの誰かだよ」

「しばらく俺の家で会うのはやめて、君の家に行こう」

 しかし、南の家は二人で過ごすには狭く、居心地もいまいちだ。どうしても相澤の家に行きたくなってしまう。

 泊まらなければ大丈夫だろうと思って行くと、今度はポストに生ごみが入れられているのである。それが続いた。

「ひどいよ。警察に行こう」

「事件じゃないのに、相手にしてくれるかなあ」

「腹が立たないの? こんなことされて」

「あのひとたちは、自分たちと俺たちが違うことが恐いだけだよ。ひとは自分と違うものに恐怖を抱くんだ。だから拒絶して、排除しようとする」

「でもこのままじゃ」

「まあちょっと、俺に考えがあるから」

 そうこうするうちにどんどん時間が経って、やがて六月になった。

 相変わらず嫌がらせは続いて、南は相澤の近所を歩くとひそひそと噂話をされる。

 負けちゃいけない、負けるな、負けるな。

 自分に言い聞かせて、通り過ぎる。

 相澤のアパートに近づくと、彼が少し前を歩いているのが見えた。声をかけようとして、脇から女性が出てきたのに気づいた。

「恭一」

 女性は相澤に近寄ると、親しげに話しかけてその背中に手を置いた。相澤も満更ではないようで、照れたような顔をして頭に手をやっている。

 そして二人は楽しそうに笑い合い、じゃれ合うようにしてアパートまで辿り着くと、茫然と立ち尽くす南の目の前で部屋のなかに入っていった。

 どういうことだ。

 あの女は、誰だ。

 目の前が真っ暗になった。

 どうやって自分の家まで帰ったか、よく覚えていない。

 相澤から連絡があったが、返事をする気にはなれなかった。

 一週間をどうにかやり過ごすと、金曜日がやってきた。とぼとぼと自分の部屋に帰ると、玄関の前に誰かが立っていた。

「……恭一さん」

「お帰り。遅かったね」

「なにしに来たの」

「連絡がないから、心配になって様子を見に来たんだ。なにかあったんじゃないかと思って」

「なにもないよ。ていうか、あなたと話すことはなにもない」

 南は相澤の横を通り過ぎて、玄関の鍵を開けてなかに入った。

「どうしたの。なんか、変だよ」

「あなたの顔なんか見たくない。帰ってくれ」

 相澤は驚いたように目を見開くと、扉に身体を差し入れてなかに入った。

「やっぱりなにかあったね。なにがあったの」

「……」

「夏輝」

 相澤は南の顔を覗き込んだ。彼の顔を見たくなくて、南は目をそらす。

「……女と楽しそうに話して、笑い合って」

「えっ?」

「おまけに部屋にまで入れて」

「ああ、あれ?」

「とぼけないでよ。あなたがそんなひとだとは思わなかった」

「ちょっと待って。なんか誤解してないかな」

「放して。触るな」

「あれは、姉だよ」

「――」

「俺の姉ちゃん。あの日俺のとこに遊びに来たの」

「お姉……さん?」

「そ。俺と君のことも、最近俺たちが受けてる嫌がらせのことも知ってて、ちょうど今住んでる部屋から引っ越すから、あんたたちそこに住みなさいよって鍵持ってきてくれたの」

「――え?」

「ここの更新、もうすぐだろ。それしないで、俺と一緒に暮らさないか」

 なにを言われているのか、よくわからない。

 頭のなかが真っ白になって立ち尽くす南に、相澤は言った。

「姉ちゃん、結婚してその部屋に住んでたんだけど、妊娠して子供が生まれるからもっと大きいとこに移るんだ。家賃は俺と君とで折半すれば今より安い金額で住めるし、夫婦で暮らしてた部屋だから君の部屋もちゃんとあるし壁も分厚いからもう我慢しなくていいよ」

「あ……」

「どうかな」

 まっすぐに見つめられて、胸がいっぱいになった。

 気がついたら、相澤に抱きついていた。

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