第三章 10

年が明けて、凜は南先輩の携わるプロジェクトのサポートをするために業務に従事した。

 先輩は二年目だが、顧客とのやり取りの誠実さを認められ抜擢された。

 毎日毎日、プロジェクトのチームと電話で話したり、部署に行き来したり、メールでやり取りしたりした。そのなかには無論先輩も含まれていて、凜は張り切ったものである。

 先輩、いい顔してるな。やっぱり大学の時とは違って、働いてるって感じ。それになんだか、前よりも満たされた、充実してるって顔してる。なんかいいことあったのかな。

 今回先輩のチームが関わっているのは、ある陸上大会で使う公式タオルのデザインだ。 美術チームという、小さい課の専門スタッフに描いてもらった絵を先方にプレゼンして、採用してもらおうというのである。

 営業の手腕が問われるのはもちろんのことだが、美術チームの腕の見せ所である。

 美術チームは連日連夜のように徹夜をしてデザイン画を起こし、何百枚という絵を描いてくれた。それを重役や営業が公平に審査して選ぶというのだが、そこで問題が起こった。

 投票による採決の結果、二枚のデザイン画が同票になってしまい、どちらか選べなくなってしまったというのである。

 それで、今度は営業事務課の人員にお鉢が回ってきた。

「君たちにも、投票してほしい。陸上大会には若い女性も来る。我々のようなおじさんではない、同世代の女性の目線が必要なんだ」

 重役たちはそう言って、彼女たちに投票を促した。

 凜は二枚の彩色されたデザイン画が貼り出された会議室へ入ると、じっとそれを観察した。

 一枚は、青地に太陽をあしらったモチーフのものだ。星が周囲に輝いて、小さく月のようなものも見える。天体図のつもりなのだろうか。

 もう一枚は、オレンジ地の上に大きな樹が一本立っていて、そこから果実が実り、動物や鳥が集まっているというものである。

 どちらもデザインとしてはいいと思ったが、陸上大会のテーマってなんだっけ、と凜は考えた。確か、『希望』だ。

 ならば、実りの元に命が集まっているものの方がいいのではないかと思い、オレンジの方に票を入れた。

 結果は、凜が投票したものが一票差で採用された。

「営業事務のみなさん、ありがとう。今日はもう定時だから、帰っていいですよ」

 ほっと息をついて、帰宅する。

 コンペ、うまくいくといいなあ。せっかく先輩と仕事するんだから、やっぱり勝ちたいよ。

 来週の火曜日はデザイン画を先方に持っていく、大切な日である。先輩もその場に同席すると聞いた。上手くいきますように、凜は祈った。

 火曜日、美術チームの部屋にデザイン画を取りに行った営業の四人が、血相を変えて営業事務課にやってきた。

「大変だ。デザイン画がない」

「保管しておいた場所からなくなってる」

「君たち何人かで来て、一緒に探してくれ」

 凜は立ち上がって美術チームの部屋に走った。この部屋は、そう広いものではない。どこかにあるはずだ、どこかに。

「営業のみなさんは、先に行かれてください」

「しかしデザイン画がないと」

「私たちが探して、後から必ず追いつきます」

 凜は南先輩の目をまっすぐに見つめて、言った。

「先方との約束の時間があるんでしょう。行ってください」

 その強い光を見て、南先輩は行きましょう、と他の三人に言った。

「彼女の言う通りです。時間がない」

 営業の四人が行ってしまうと、美術チームと手分けして部屋中を探した。

 デザイン画は、円筒型のプラスチックのケースに入れて部屋の隅の保管場所に置いてあったという。

「先方とのアポイントは、一時間後です」

「移動に四十分かかるとして、十五分しかありません」

 とりあえず、すべての円筒型のケースから中身を取り出してみた。だが、該当するものはなかった。

「ということは、ここにはないんだわ」

「部屋の外には、持ち出していないはずですよ」

「引き出しとか、書類のなかとか、探そう」

 しかし、大判のデザイン画がそんな場所にあろうはずもない。

「ないなあ。ないない」

 机の下、ロッカーのなか、戸棚、果てはカーペットを剥がしてまで探したが、目指すものは見つからない。

「あーんもうどうしよう」

 時間がない。

 凜は頭を抱えて、天井を見上げた。

 その拍子に、戸棚の上に引っかかった円筒状のものが見えた。

「あれ? あれじゃない?」

 凜は椅子を引っ張り出して、背伸びして戸棚の上に手を伸ばした。

「あーっあった。ありました」

「なんでこんなところに」

「多分、投票で決まって嬉しくて、誰かがわーって飛び上がって、その拍子に……」

「それはいいから、とにかく届けないと時間が」

「私、行ってきます」

 凜はケースを持って、オフィスの自分の机に寄って財布を握りしめ会社を飛び出した。

 電車では間に合わない。タクシーだ。

 凜はタクシーを拾って住所を告げると、時計を見た。約束の時間まで、あと二十分。

 間に合え。

 急いでくださいと言ったのが功を奏したのか、十五分の距離を十分で着いた。

 先方本社のビルに走って入ると、入り口で用件を告げて急いでそこへ向かった。

 営業の四人は、いらいらとしながら今か今かとデザイン画を待っていた。あと十分。

「もう間に合わない。あちらに言って……」

 と、一人が言ったところで、アシスタントの女性がこちらへどうぞ、とやってきた。

 万事休すだ。

 南がため息をついた時、廊下のむこうから叫び声がした。

「先輩」

 聞き慣れた声。

「待ってください。ありました。デザイン画、ありました」

 凛は息を切らせてケースを差し出すと、

「行ってきてください」

「福原さん。ありがとう」

「頑張って」

 うん、とうなづいて、南先輩は部屋のなかに入っていった。

 凜は乱れた髪を直しながら、汗にまみれた顔を手で拭き拭き、ビルを後にした。

 美術、事務の後方チームと営業課の一糸乱れぬチームワークとチーム全体の熱意が、よほど効いたのだろう。

 デザイン画は無事採用され、陸上大会の公式タオルで使用されることになった。

 この大口案件の勝利に重役たちも大喜びで、営業課には金一封が出されたという。その金で、美術チームと営業事務と営業でお祝いに飲みに行くことになった。

「今回の勝利は、チームみんなで勝ち得たものであります。大いに飲んでください」

 課長がそう言って音頭を取った。

 凜は南先輩のいるテーブルまで行って、ビールを注ぎに行った。

「先輩、おつかれさまでした。やりましたね」

「ありがとう福原さん。後から聞いたんだけど、デザイン画を見つけたの、福原さんなんだって」

「え、まあ、それは偶然というかなんというか」

「時間ぎりぎりで先方のビルまであれを届けてくれたのも福原さんだったし、本当に福原さんには足を向けて寝られないよ」

「いや、そんなあ」

「ほんと、福原さんには学生時代からお世話になりっぱなし」

「え……?」

「俺にとっては、福原さんは大切なひとだからね」

 なにそれ。それって、それって、もしかして。

「先輩」

 凛、チャンスよ。

「もしよかったら、今度一緒にごはん、行きませんか」

「え、いいよ。ぜひ」

 おい南、と同僚が声をかけてきて、それで二人の会話は中断された。凜は自分の席に戻って、霧亥にメッセージした。

 聞いて聞いて。先輩に大切なひとって言われちゃった。ごはん行く約束したの。告白、できるかなー

 それを見て、霧亥はスマホを投げ出した。俺の失恋も間近だな、そう思っていた。いや、もうしてるか。

 週明け、凜は南先輩と食事の日にちを決めると、その日に向けて肌の手入れをし始めた。

 毎日入浴時に泥パックをして、風呂上がりに入念に化粧水と美容液を顔と首に叩き込むと、さらに仕上げにもう一度美容液パックというのをした。

 髪も毎日欠かさずに洗髪した後よく乾かし、ヘアミルクとオイルをなじませて入眠した。

 服選びは難問だった。

 新しいものに頼るのはやめようと思った。自分を活かせる、いいものにしよう。

 そう思って、シルク地のスカートにカシミアのセーターを合わせた。色も、顔色が映えるように明るいものにした。

 化粧は、張り切ると濃くなる傾向があると聞く。それはだめだ。金曜日の夕方になると、女子トイレの洗面所に行ってアイシャドウをうすくはいて、アイラインを引いて、定時寸前に口紅だけ塗り直した。準備万端だ。

 先輩とは、会社の玄関で六時過ぎに待ち合わせだ。

「福原さん、お待たせ」

 六時十分に、南先輩は出てきた。

「待った?」

「さっき来たとこです」

「じゃ行こう」

 きゃーっ二人で歩いてる。しゃべってるー

 天にも昇る気持ちとは正にこのことで、凜は背中に羽根でも映えた気分で歩いた。

 先輩は、しゃれたフランス料理の店を予約しておいてくれた。わ、おしゃれなお店。高そう。

 食事の時間は、楽しく過ぎていった。学生時代の話やサークルの話題、友人たちのことや就職活動、大帝興業という会社の裏話まで、話題は尽きなかった。

「ちょっと酔ったね。少し歩こうか」

 まだ帰りたくないってこと? これは、チャンス。

 川沿いの公園を、二人は歩いた。冬の夜のことだから、寒くて人通りはない。

「酔いも覚めるね」

「そうですね」

 店のなかではあんなに饒舌だったというのに、なぜか先輩は物静かになっていて、それが凛をいっそう緊張させた。なんでだろう、なんでなにも言わないの? なにか言って、なにか。

「先輩」

 ええい、言っちゃえ。

 前を行っていた南先輩が立ち止まって、こちらを振り向いた。

「前、先輩が私のこと大切なひとだって言ってくれたじゃないですか」

「うん」

 それは本当だ。あの夜、自分を大切にしないと相手も自分を大切にしてくれないと言った凜の言葉を聞かなければ、自分はまだ肉欲に溺れ、自分を利用する相手に骨までむしゃぶりつくされていただろう。よって、相澤にも、出会えなかったはずだ。

「私にとっても、先輩は大切なひとです」

「――え?」

「一年の時から、先輩のことが好きでした」

「――」

「ずっとずっと、好きでした。先輩のこと、ずっと見てました」

「福原さん……」

「この会社に入ったのも、先輩と一緒にいられると思ったからです。先輩と……」

「待って、福原さん」

 凜に最後まで言わせずに、南は遮った。

「待って」

 突然のその言葉に、凜は理解が追いつかない。どうして? 絶対オーケーだと思ったのに。

「福原さんの気持ちは嬉しいんだけど、俺、今付き合ってるひとがいるんだ」

「――」

 奈落の底に突き落とされたような気持ちになった。

 真っ青になった凜の顔色に気づかずに、彼は続けた。

「そのひとといると、すごく安心するんだ。自分が自分でいられるっていうか。ほっとするっていうか。ずっと一緒にいたいと思えるんだ」

 う……そ

「誤解させちゃって、ごめん。気持ちは嬉しいよ」

 本当に申し訳なさそうに言う先輩を見て、

「いえ、いいです」

 と、蚊の鳴くような声で返すのが精一杯だった。

 その後は、なにをどう言ったか、どこをどう行ったかも覚えていない。

 気がついたら自宅のベッドで泣いていた。声を殺して泣き続けた。

 携帯にメッセージがあったが、見もせずに泣いていた。

 電話が鳴り続けていたが、すべて無視していた。風呂に入って、ぼーっとしながらまた泣いた。あ、ここで剃刀で手首とか切ったら死ねるかな、などと考えたりもした。

 風呂から上がると、また涙が込み上げてくる。今度は声を上げて、わんわん泣いた。

 玄関の呼び鈴が何度も鳴って、扉が乱暴に叩かれた。

「おい凛。いるんだろ。出てこいよ」

 霧亥だった。

「電話にもメッセージにも返事ねえから来たぞ。昨日先輩と飯行ったんだろ。なんか言われたのか。なんかあったのか」

 どんどんどんどん、と扉がまた乱暴に叩かれる。

「開けろ」

 扉が何度も叩かれる。

「てめえ、開けろってば開けろ」

 ドアノブががちゃがちゃいう音が聞こえた。凜は玄関まで出ていって、扉越しに言った。

「帰って」

「やっと出てきたな。なんだ、なに言われた」

「なんにも言われてない」

「わかりやすい嘘つくんじゃねえ。なにを言われたかっつってんだ」

「なんにも言われてないったら。帰ってよ」

「おめえがなに言われたかわかるまで帰らねえ」

「……」

「言え」

「……付き合ってるひとがいるって」

「なんだとう?」

「好きだって言ったら、今付き合ってるひとがいるから、ごめんって」

「――」

「わかったでしょ。ふられたの。だから、ほっといて。もう帰って」

「り……」

 凜は構わず、寝室に戻った。そしてベッドのなかに入って、また泣いた。

「くそっ」

 霧亥は凜の気配が消えたのに気づいて、扉を蹴った。これは当分、手がつけられない。

 霧亥がいなくなったのを確認すると、凜は台所に立った。

 どんなに不幸で泣いていても、悲しいかな腹は減る。冷蔵庫のなかのものを適当に米と煮て、塩を入れて、それを食べて、また泣いた。

 どんなに泣いても、涙は枯れることはなかった。そうして週末を過ごした。

 月曜になって鏡を見ると、顔はひどいことになっていた。泣き続けたせいで目は赤く腫れ上がり、真っ赤に充血している。肌は荒れて、化粧などしたら益々荒れが目立ってしまいそうだ。

 でも、行かなくちゃ。だって、社会人だもん。

 電車に乗っていると、周囲の人間は自分の不幸など知らないかのような平気な顔をして座っている。ああ、それでも地球は回っているんだ。私に起こったことなんて、ほんとにほんとに些細なことなんだ。

 それが悲しくなって、涙がにじんできた。

 なんとか出社するも、仕事では凡ミスを繰り返した。目がちかちかして、立ちくらみがする。ふと顔を上げた拍子に南先輩の姿が見えて、吐き気が込み上げてきた。

 それで手洗いに駆けこんで、盛大に吐いた。

 先輩が心配して、様子を見に来てくれた。

「大丈夫? なんか今日、調子悪いね」

 個室から出てきた凜は言った。

「大丈夫じゃ、ないです。早退します」

 そしてふらつく足を励ましてなんとか歩き出すと、そのままよろよろと会社を出ていった。

 家に帰ると、また吐いた。胃が空っぽなのに吐き気だけは止まらなくて、苦い胃液だけが口から次々に出てきた。

 手洗いでぐったりしたまま、寝てしまったようである。気がつくと、夜だった。

 食欲はないのに、腹は減っている。台所に立って料理しようとしてなにもする気になれず、ベッドに寝転んだ。

 次の日も、凜は起き上がれなかった。会社に電話して、具合が悪いから休むと言った。

 もう涙は出てこなかったが、その代わりに吐き気が止まらず、なにも食べていないのに飲んだ水だけをげえげえ吐いた。

 そういう生活を一週間していたら、霧亥が訪ねてきた。呼び鈴が何度も鳴って、扉が乱暴に叩かれて、自分を呼ぶ声がする。

「おい、開けろ。出てこい」

 無視していたら、どすんという音がして彼が扉を蹴ったのがわかった。

「てめえ、いい加減にしろ。蹴破るぞ」

「帰ってよ。もういいの。どうでもいい。会社なんか行かない。先輩の顔も、見たくない。

 見ると吐いちゃうの」

 言わんこっちゃない。霧亥は扉の向こうでそう呟いた。

「とにかく、ここ開けろよ」

「いや。誰とも会いたくない。だいたい、なんで来たのよ」

「お前、会社の緊急連絡先、俺にしただろ。あんまり会社に来ないからお前の上司が心配して俺に電話してきたんだよ。いいから開けろ」

 どん、どん、どん。

 ああ、しつこい。帰ってほしいのに、帰ってくれない。

「開けたら帰ってくれる?」

「お前に一目会ったら帰るよ」

 凜はそろそろと扉に歩み寄って、そっと鍵を開けた。

 冷たい空気がさあっと入ってきて、いかに自分が閉め切った空間に閉じこもっていたかがわかった。

 開いた扉に寄りかかって、霧亥はほっと息をつきながら言った。

「やっと開けたな」

 そして眉根を寄せた。

 ちょっと見ない間に、痩せたな。

「これでいいでしょ。帰って」

 凜が扉を閉じようとしたので、霧亥は慌てて身体を差し入れてなかに入った。

「お前、これからどうするつもりだ」

「どうもしない。ずっとここにいる」

「なに言ってんだよガキかよ」

「ガキで悪かったわね。どうせ私は子供よ」

 凜は霧亥を振り返って、きっとなって言い返した。その拍子に涙がぽろぽろとこぼれて、止まらなくなった。それにも構わず、彼女は続けた。

「先輩が幸せそうなのは好きなひとがいるからなんだって、付き合ってるひとがいるからあんなに満たされた顔してるんだって気がつかなかった子供よ。大馬鹿者よ。好きなひとのこともよくわからない、恋愛なんて理解してない未熟者よ」

 違う。お前はただ、恋に恋してただけだよ。

 そう言いかけて、その言葉が凛を傷つけるのだと気づいて思いを飲み込む。

「もういいでしょ。帰って。帰ってよ」

 凜は霧亥の身体を玄関の外まで押し返すと、音を立てて鍵をかけた。

 泣くな。

 お前が泣いてるのは、見たくない。

「凛……」

 霧亥は扉の外に立ち尽くした。

 どうすればいいのか、わからなかった。


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