第三章 9



 卒業より前に、凜は新しく住む場所を探し始めた。

「俺も一緒に行く」

 霧亥はそう言って聞かなかった。

 実際、彼はいい相談相手だった。初めて一人暮らしをする凜は、ものを知らなさ過ぎた。

 無条件に一階の部屋を選ぼうとし、安いからと駅から歩いて二十分以上の部屋を見に行こうとし、治安の悪い、昼間から酔っぱらいがふらふらと歩く界隈を選んで、霧亥を呆れさせた。

「てめえ、女の一人暮らしが一階なんて住むんじゃねえ。犯されてえか。女は黙って、二階以上に住めや。それが安心安全ってもんだ」

「お前、疲れて帰ってきてやっと駅着いて、そこからちんたら二十分もかけて歩いてくのか。正真正銘の馬鹿か。やめとけ」

「おめえ、会社帰りに酔ったおっさんに抱き着かれたりおかしな男にストーカーされたりしたら取り返しつかねえぞ。もっかい言うけどな、おめえは女の一人暮らし。もっと安全なとこに住めやボケが」

 凜の選んだ物件は軒並み却下され、側で不動産屋の営業がにこにこと笑うなか、霧亥はああでもないこうでもないとあれこれ注文をつけまくった。

「お前、給料聞いてきただろ。手取りいくらだ」

「に、二十一万」

「じゃあ、三分の一で七万。共益費込みで七万までの部屋」

 凜はリストから必死になって部屋を探した。

 そしてめぼしい物件を予約すると、早速霧亥と一緒に見に行った。

 最初は、七階建ての五階の部屋だった。十二畳あり、南向きで、一面が窓で、駅から歩いて十五分の距離である。これで七万三千円だ。

「うん、まあまあ広くて、いい感じ。それに、南向きだとあったかいし」

 ちらりと霧亥を見ると、あまりいい顔をしていない。

「……だめ?」

「遠すぎる。駅からの道が人通りがなさ過ぎて女の一人歩きには危険だ。それに、南向きでこんなに窓が大きかったら、夏地獄みたいに暑いぞ。冷房代、馬鹿みたいにかかるぞ」

「あー、そっかあ。冷房代かあ」

「もっと見てみよう」

 次の部屋は、三階の部屋だった。廊下に洗濯機を置くようになっていて、駅からは歩いて五分、人通りはあるし、側にコンビニもあるし、治安もいい。

「そんなに狭くないし、いいとこだよ。ここ、よくない?」

「だめ。外に洗濯機なんか置いておいたら、下着盗まれるぞ」

「えっ下着」

「パンツ盗まれて女の一人暮らしだなんてわかった日にゃ、ストーカーまっしぐらだ。どうだ、それでもここがいいか」

 凜はぶんぶんと首を激しく振った。

 次の部屋は、五階の部屋だった。十畳と広くて、日当たりもそこそこよくて、人通りのある場所にあり、駅からも近い。これで、六万二千円だ。

「わあ、私、ここ好き。霧亥は?」

「お前、米袋抱えて五階まで階段上る気か」

「あ……」

「やめとけ」

 あれもだめ、これもだめ、凜はほとほと疲れて、ぐったりとなった。

「霧亥ーもういい加減に決めないと、私住むとこなくなっちゃうよ」

「落ち着け。住む部屋はある。運命の部屋は、必ずある」

 不動産屋が、ファイルをめくる手を止めて言った。

「あ、これなんかどうですか。昨日入った物件なんですが」

 見取り図を見せてもらって、なかなかよさそうなのですぐに見に行った。

 そこは三階建ての二階の部屋、八畳のリビング兼寝室と六畳の台所、風呂トイレ別、駅から五分、駅前にスーパーがあって途中にコンビニがあり、一階部分は内科と薬局になっていた。家賃は、予算ギリギリの六万九千円である。

「わあ、ここならいい。広いし、駅からも近いよ。ここ。ここがいい」

 霧亥は? と凜は彼を見た。霧亥はベランダからの眺めを見て、外の景色を確認していたようだが、

「……よし。ここならいいだろう」

 と言った。凜の顔が、ぱっと輝いた。

「ほんと?」

「合格」

「やったー」

 凜は飛び上がった。仕事が決まって、家が決まって、後は引っ越すだけだ。

 春には、新生活が待っている。

 凜は当初の希望通り、営業事務に配属となった。

 やった。営業のひとと話せる。南先輩と近い。

 初日の挨拶で、営業部に顔を出した。

「あれ、福原さん?」

「あ、南先輩」

「ここに就職したの」

「はい、運よく決まって。ラッキーでした」

 などと言ったが、その実決まったのは正に大帝だけであった。他に受けたのは、たったの四社。それも軒並み不採用。

 あれだけやる気がなければ、それも納得がいくというものだ。

「営業事務に配属なの。じゃあ、これからも顔を合わせる機会があるね。よろしくね」

 最初は、わからないことだらけだった。

 見積書、請求書、契約書、提案資料、社内会議用資料など、営業活動に必要な様々な資料の作成に始まり、来客対応やアポイント調整もしなくてはならない。時に、営業担当に代わって顧客と直接連絡を取ることもあった。凜は新人なので、そこまでやらされることはなかったが、おいおいやれるようになってね、と言われた。

 商品の受発注データの入力、納期の管理、在庫数の確認や棚卸し、出荷前の納品物のチェックの他、顧客情報の管理や売上データの集計なども行った。

 毎日が、飛ぶように過ぎていく。一日なんてあっという間だった。

 それでも事務なので、定時には帰れる。それだけがありがたかった。くたくたになって帰宅して実感する、

 ああ、駅から近い家でよかった。こんなの、二十分も歩いてたら死んじゃう。

 霧亥の言っていたことは、正解だった。

 月に一度は霧亥と会って、飲みに行く。来週末も、会う予定だ。

「よう、どうだそっちは。先輩と、話せてるか」

「うーん、まあまあ。そっちは? 彼女と、どう」

「彼女は、ふつう」

 霧亥は、京美とのことを多くは語らない。自分の気持ちを偽って付き合っているのだから、言えるはずがない。

「それより聞いてよ。うちの課の先輩、ひどいの。この前ね」

 凜は仕事の愚痴を言い始める。霧亥は肘をついて、それを黙って聞く。解決策も、対応の仕方も、いっさい言わない。

「そうか。それはしんどかったな」

 とか、

「それは、その先輩が悪い」

 とだけ言って、いつも凜の味方をしてくれるのだ。

「私だって、もっと南先輩とフレンドシップ取りたいやい」

「スキンシップな」

「いちゃこらしたいやい」

「肌の触れ合いって、大事だもんな」

 むくれた顔の凛を見てみれば、酒を飲んで上気した白い肌がうっすら染まって、ほのかに桜色である。むくむくと霧亥のなかに劣情が沸き起こる。

 やべ……勃ってきた

「トイレ」

 霧亥はやおら立ち上がると、手洗いに向かって歩き出した。

「えっ?」

「抜いてくる」

「なにが?」

「五分で戻る」

「?」

 しばらくしてさっぱりした顔で戻ってきた霧亥は、椅子に座ると凜に言った。

「お前、お盆帰省すんの」

「そのつもり。霧亥は?」

「しねえよ。実家なんて人が多いだけでうるせえし姉ちゃんはいるし最悪だぜ」

「じゃ、ひさしぶりに遊ぼうよ。どっか行こ」

「買い出しなら、行かねえぞ。少し節約しろよ」

「そんなんじゃなくて、どっか涼しいとこ、日帰りでさ。行こうよ」

「涼しいとこか……川だな」

「昔みたいに川遊びしようよ」

 そう言われて、霧亥もその気になった。

「いいなそれ」

「レンタカー借りて、行こう」

 ということで、凜と霧亥はお盆休みに川に遊びに行くことになった。

 霧亥が車を借りてきて、当日の朝凜の部屋まで迎えに来ると、彼女は二人分の飲み物とおやつを持ってきて準備ばっちりである。

「じゃあしゅっぱーつ」

 凜は霧亥の運転する車に乗るのは初めてだ。

「運転大丈夫?」

「毎日営業で乗ってんだ。これくらいへっちゃらだ」

「でも電車も使うよね」

「電車と車と半々だな」

 そんな話をしながら運転する霧亥におやつを食べさせ、飲み物を渡し、話しながら昼前には川辺に着いた。

「涼しいねー」

「蝉が鳴いてる」

 凜は服の裾をまくって、浅瀬に入ってみた。

「水がつめたい」

 その背中を、霧亥はじっと見ている。そう、俺がお前を好きになったのも、こんな夏の日のことだった。お前は川辺にいて、一人で働いてた。日差しが枝にかかってきらきら光って、それがお前の髪に降り注いで、ぼーっと見惚れてたのを覚えてる。

「入らないの?」

 話しかけられて、霧亥は我に返った。

「気持ちいいよ」

 あの時お前になんか言ってたら、変わってたのかな。俺にも希望は、あったんだろうか。

 そんなことを思う。

「今行く」

 霧亥は裾をまくって、川に入った。

 大きな岩が近くにあったので、二人でそこに座った。日差しは強かったが、空気がひんやりとしていたので気にならなかった。

「んー、なんかもう、帰りたくない」

「ああ、そうだな」

 俺もお前を、帰したくない。このままずっと、一緒にいたい。先輩と同じ屋根の下にいる会社になんて、戻ってほしくない。凛、行くな。行かないでくれ。

「なんかおなかすいちゃったな」

 凜がぽつりと言ったので、思いはそこで中断された。

「色気のねえ女だ」

 霧亥は立ち上がった。

「この先に、確か食事処があったな。そこ行こう」

「さんせーい」

 霧亥にとって、贅沢な時間が流れようとしていた。今日だけ、彼は凛を独り占めできた。 凜は霧亥にだけ微笑み、霧亥にだけ話しかけ、霧亥のことだけを考えて行動した。霧亥もまた、凛のことだけを想ってすべてを優先することができた。

 しかしまた、時は残酷に刻一刻と過ぎていき、気がついたら時刻は夕方になろうとしていた。

 彼が運転する隣で凜はいつの間にか眠ってしまい、霧亥はラジオの音を落とした。日が落ちて凜の家に着いて、声をかけても彼女は目を覚まさない。

「起きろってば」

 すうすうと寝息を立て、凜はまだ眠っている。その寝顔を見て、彼はぼそりと呟いた。

「……襲っちまうぞ」

 そして指でぴん、と凜の額を弾いた。

「いった……」

「起きたか。着いたぞ」

「んー」

「ほら鞄。靴履いて」

「寝ちゃってごめーん……運転ありがとね」

「いいから、ほら。ちゃんと家入れよ」

 霧亥は凜が玄関を開けてなかに入るのを見届けると、車を発進させた。

 そして次の信号待ちで、ハンドルに顔を埋≪うず≫めるようにしてもたれかかった。

 なにやってんだ俺。いつまでこんなことしてんだ。

 想いを伝えるのは、簡単だ。好きだと言ってしまえばそれでいい。

 だが凛は突然の告白に戸惑い、混乱し、そして拒絶するだろう。今の関係は、保てなくなる。

 だったら今のまんまでいいじゃねえか。霧亥はそう思う。あいつは南先輩が好きなんだし。どうせ俺に勝ち目はないんだし。ぬるま湯でもいい。側にいたい。中途半端だと嘲笑われてもいい。後ろ指差されようと構わない。好きな女と共にいられれば、プライドなんてくそくらえだ。

 その気持ちで、霧亥は今の立場に甘んじてしまっている。

 一途さとは、一種の性癖である。

 周りから見たら変わらないような僅かな変化でも自分にはわかる少しの変化や、またはこの子が満たされたらどんな顔で笑うのかな? ということを考えるだけでも楽しい。

 だから他の女とは比較してもつまらないから比較してもいっさいの興味が沸かない。

 大学一年の時から五年目の、片想いであった。

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