第三章 8

南がアパートを借りるようになって、最初は相澤も彼を訪ねていた。

「ふうん、なかなか住み心地がよさそうだね」

「そう? ゆっくりしてって」

 しかし、なぜだか南の方が相澤の部屋に行く回数が多くなってしまう。

 それは、単に居心地のよさのせいなのか。彼の懐の深さのせいなのか。

 金曜日の会社帰り、南が相澤を訪ね、夜遅くまでいて、帰っていく。そしてまた翌日訪ねてくるということが増えてきていた。

 ある日、相澤にあらかじめメッセージしておいて行っていいか尋ねておいて、いいよという返事があったので訪ねてみると、彼はまだ帰っていなかった。それで玄関前で待っていると、しばらくして相澤はやってきて、

「ああ、ごめんごめん。待たせちゃったね。今開けるよ」

 と言って鍵を開けてくれた。その日はそれで何事もなく過ぎたが、翌週、彼は、

「これあげるよ」

 と言って南になにかを手渡した。

 掌に手渡された小さなものを、南は見てみた。

 それは、合鍵だった。

「これで、寒い思いしながら待たなくていいでしょ。ご近所の目もあるし」

「でも、いいの?」

「恋人なんだから、当たり前だよ」

 恋人。

 その甘い響きに、南の胸が高鳴った。

「これからは好きに出入りしていいよ」

 相澤はなんでもないように言った。

「俺が鍵失くした時にも頼れるしね」

 彼はそう言うと、いたずらっぽく笑った。現に相澤は、よくものを失くしたり忘れたりした。

 唯一南が不満があるとしたら、彼に抱かれる時に声が漏らせないということだろうか。

 声が出そうになると、相澤はそっと南の口に指を入れてくる。そして、自分の指を彼に噛ませて我慢させるのだ。

 南は噛んではいけない、彼に痛い思いをさせてはいけないと思いはしつつも、声が漏れてはならないという思いから指を嚙んでしまう。身体の上で相澤が動くたび、噛む力は強くなっていく。

 ごめんなさい、噛んでごめんなさいと思いながらも、噛むことをやめられない。そうして二人で達するのだ。

「指、痛いでしょ」

 終わると、南は相澤に言う。

「ごめんね」

「こんなのなんでもないよ。こっちこそ、壁が薄くてごめんな」

「それはいいんだけど……相澤さんの指が赤くなるのが申し訳なくて」

「背中の爪痕と一緒だよ」

 相澤は言った。

「男の勲章ってやつ。大したことないの」

 それよりさあ、彼は頭に手をやりながら、恥ずかしそうに言った。

「付き合ってるんだから、もう相澤さんはやめて、名前で呼んでくんないかなあ」

 南は一瞬なにを言われたのかわからなくて、それから、

「わかったよ。恭一さん」

 と笑って言った。

 どこかで鳥が鳴いている。秋の空が、高い。

「今日もいい天気だな」

 相澤が窓の外を見て、ぽつりと言った。

「買い物のついでに、散歩でもしようか」

「いいね。夕飯なににしようか」

「栗の季節だから、炊きこみごはんとか」

「じゃあ俺豚汁作るよ」

「今日は豪勢だなあ」

 そう言い合いながら服を着て、表に出た。

 空が青い。風が涼しくて、気持ちよかった。

 並んで歩く時、相澤は手を繋ぐ。そうした時、彼は人目を憚らない。

「だめだよ」

「なんで」

「だって、恭一さんのご近所でしょう」

「そうだけど、そんなの関係ないよ。なにも悪いことしてないもん」

 ほら、と彼は手を繋いでくる。それで、南は指を絡める。手の温度だけが、温かくなる。

 あちらから男女のカップルがやってきて、すれ違った。南は思わず顔を伏せた。どうしよう。変だと思われたかな。なにか、言われたかな。

 しかし、カップルは自分たちの会話に夢中で二人には気がつかず、そのまますれ違って歩いて行ってしまった。南はそっとそれを見送って、ほっと息をついた。

「みんな結構見てないもんさ」

 相澤が前を見たままそう言ったので、南ははっとした。

「まあ、見てるひとは見てるけどね」

「……恭一さんは、恋人が前にもいたの」

「二十代の頃に一度ね。すぐに別れちゃったけど」

「それは、なんで」

「相手が浮気しちゃって、それで」

「……」

 同性が相手の場合、恋人というものは男女の時のようにそううまく見つかるものではない。好みや相性が一致しなかったり、単に性格が合わないということもある。それを、ただでさえ少ない男性のなかから選び出さなくてはならないのだ。

 貞操観念が緩いというのも、よくある話である。なにしろ、相手はマイノリティーなのだ。寝ることができる時に寝ておかなくては、という思いが、彼らをそう駆り立てるのかもしれない。

 自分はそんなことはないから、と相澤に言っておきたかった。だが言葉にするとなんとなく安っぽくなりそうで、南は言いかけた言葉を飲み込んだ。

 底のない相澤の懐の深さ、そこに言いようのない彼の悲しみを見たような気がした。

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