第三章 2

春が来て、凜と霧亥は三年生になった。

 今年もまた、新入生が入学してくる。

「あーあー。憂鬱だよ」

「なにがだよ」

「またかわいい子が入ってくるよ。先輩狙いの」

「てめえ、他に考えることはねえのかよ」

「先輩、四年生になるとサークルもあんまり来なくなっちゃうし、つまんないなあ」

 そう、四年生になると就職活動が活発になるため、どうしてもサークルには来にくくなる。南先輩と顔を合わせる機会は減っていくだろう。

「それに先輩、最近なんだか楽しそうなんだよね」

「楽しそう?」

「うん。なんかうきうきしてるっていうか溌溂としてるっていうか、あれ、彼女でもできたんじゃないのかなあ」

「まさか。そんなことあったらすぐに学部中の噂になるぜ。俺らおんなじ学部なんだから、知らないはずないよ」

「でも、あれは絶対女だよ。私たちが知らないのなら、多分大学の外に彼女がいるんだよ」

「でも、いつも告白されて断る時は特定の相手は作らないことにしてるって言ってるんだってよ」

「そうなのかなあ」

 だるそうに窓に寄りかかる凛を見て、霧亥はほっとため息をつく。もし先輩に本当に女ができたというのなら、それはそれでいい。もう、凛が他の男にときめいているのを側で眺めなくてすむ。

 だが、同時にそれは凜が嘆き悲しむのを目の当たりにすることになることでもある。

 実際に失恋したら、凜は大泣きするだろう。

 それを思うと、胸が張り裂けそうになる。凜が泣くのは、なるべくなら見たくない。

 ひまわりには、笑っていてほしい。

 サークルにも二人が所属する経済学部にも新入生が続々とやってきて、案の定南先輩に心を持っていかれた何人かが告白しに行き、見事玉砕したという噂が流れてきた。

「ごめん。今は特定の相手と付き合うつもりはないんだ」

 南先輩はそう言って断ったという。

「それ、ほんとかなあ」

「本人しか知らないことだよなあ」

 凜はしばらく腕を組んで思案していたが、やがて、

「……わかった」

「なにが」

「新緑会で、私先輩に直接聞いてみる」

「おいおい」

「だってそうしないと、白黒はっきりつかないもん」

「まあ、そうだな」

 そこで新緑会の日を待って、凜は先輩の席の側に座ることにした。まだ五月だから四年生も余裕があって、南先輩も仲代先輩も来ている。

 しかしさすが人気者だけあって、先輩の近くの席はなかなか空かない。

「あーんどうしよう霧亥。誰も立たないよう」

「落ち着け。チャンスは必ず巡ってくる」

 宴会が盛り上がってきて、席を移動する者がちらほらと出てきた。

「むー」

 ふと、先輩の隣に座っていた誰かが立った。

 今だ。

 凜はそこにあったグラスの酒を一気に呷ると、

「行ってくる」

 と立ち上がった。

「先輩、隣いいですかー」

「あ、福原さん。どうぞ、座って」

「先輩最近雰囲気変わりましたよね」

「え、そうかな。どう変わった?」

「なんかやわらかくなったっていうか、表情がまるくなったっていうか、楽しそう」

「……そうかな」

「ちょっと前は、なんか余裕ないみたいで心配してたんですけど」

「なんかあったかなあ」

 南先輩は考える顔になって顎をなでた。が、内心ではよく見てるなこの子、と感心していた。

「でもまあ、確かにちょと前まで色々あったかな。家でゴタゴタしてて、落ち着いてくつろげなくて」

「そうだったんですか。大変でしたね」

「今は確かに気が楽になったからかな、楽しいよ」

「それで、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

「うん?」

「先輩、彼女がいるんですか?」

「えっ」

「だから楽しそうだとか?」

「やだなあ福原さん」

 南先輩はにこやかに笑った。

「俺、そういう相手はいないよ。いたらいいとは思うけどね」

 凜はじっと彼を見上げた。

「ほんと?」

「ほんとほんと。確かにいっぱい女の子たちが来るし、仲代には理想が高いって言われるんだけど」

 その言葉に嘘はない。いつか、いい相手が見つけられたらいいと思う。ただし、その相手は女性ではないというだけで、理想が高いわけではない。

 凛はほっとして、笑顔になった。

「よかった」

「飲んでる? 福原さん」

「少ししか」

「じゃ飲もう」

「いただきます」

 その後は先輩と楽しく話して、一緒に飲んだ。

 どれだけ飲んだかもわからなくなった頃、霧亥が席までやってきて、

「おい、飲み過ぎだ」

 と凛の腕を取った。

「ふえ?」

「それ以上飲むと吐くぞ。もうやめとけ」

「あーんもうちょっと」

「だーめ。おしまい」

 またね、先輩に手を振られて、霧亥に連れられて自分の荷物のある場所まで戻った。

「ほら水飲んで」

「んー」

 幹事が、会のお開きを告げた。

「おい、終わりだってよ。行くぞ」

「待ってー」

「立てるか」

 他の人間は続々と立ち上がって帰っていく。霧亥は凜を立たせて彼女と自分の荷物を持ち、店を出た。

「羽鳥、帰れそう?」

「こいつの酒が醒めるまでもうちょっと待ってから。先行ってて」

 同級生たちも駅に歩いて行ってしまった。霧亥は自動販売機でスポーツドリンクを買ってきて、凜に飲ませた。

「ほら」

「ありがと」

「どんくらい飲んだ」

「日本酒五杯くらい」

「冷や酒ってのは、一番酔いが回るんだ。次から気をつけろよ」

「もう平気。歩ける」

「じゃ行こう」

「先輩、彼女いないって」

「そうか」

「いたらいいとは思うけど、いないって」

「よかったな」

「それって、私にもそういう可能性あるってことかなあ」

「……そうだな」

「そしたらお祝いしようね」

「ああ」

 そんな日が来たら、俺はどうなっちまうんだろうな。お前は失恋したら大泣きするだろうけど、俺は。

 ――俺は。

 電車で寝てしまった凛の横で、その日のことを思い、覚悟を決める。そんな日はやって来ないと考えつつ、いやあるかもしれないと憂いながら。

 翌日の土曜日、昼過ぎに凜はメッセージを寄越してきた。

 あたまがいたいれす

 それを見て、二日酔いだな、と思った。完全な飲み過ぎだ。

 しじみの味噌汁でも飲んどけ。よく効く

 と返信しておいた。

 月曜日、凜は鼻息も荒く教室にやってきた。

「しじみパワー。復活しました」

 霧亥はじろりと彼女を睨んで、意地悪げに言った。

「だいたい、飲み過ぎなんだよ。先輩たちの様子を見て学んだから、控えるとか言ってたのはどこのどいつだ」

「だーって、先輩とお話ししてたら楽しくて、つい」

「お話しね。はいはい」

 その様子は、霧亥も見ていた。他の学生と話しながら凜が南先輩と楽しそうに語らうのを盗み見ては、誰にも悟られぬように吐息を漏らした。

「それにしてもしじみ、すごいね。お味噌汁、沁みたー」

「兄貴や姉ちゃんが飲み過ぎた朝なんかによくやってたんだ。秋には柿なんかもいい」

「へえ、柿」

「けど一番いいのは、飲み過ぎないことだ」

「ひいっ」

「お前、女が飲み過ぎて一人で家に帰るようなことが将来あったらどうするんだ。身の危険があるかもしんないんだぞ」

「反省してます」

「よーく考えるように」

「でもさあ」

 凜はいたずらっぽく言った。

「もしそんなことあっても、霧亥が迎えにきてくれるでしょ」

「ふん」

 お見通しというわけか。

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