第二章 2
九月になって、新学期がやってきた。
暦の上では秋とはいえ、まだまだ真夏日が続く毎日である。
「哲学、休講になった。学食行こ」
学生課の掲示を見に行った凜が戻ってきて、教室に入るなりそう言った。
「なんだよ来ちゃったよ」
「今から行けばいい場所取れるよ」
霧亥が立ち上がった時、後ろの方の席にいた女子学生がやってきて、羽鳥君、と言った。
「ちょっと時間、いいかな」
霧亥は凜に先行ってて、と言うと、その子に聞いた。
「なに?」
周りの学生たちが、続々と大教室からはけていく。最後の学生がいなくなるのを見計らって、その子は言った。
「あのさ」
「うん」
「突然なんだけど」
「ああ」
「私と、付き合ってくれないかな」
本当に突然の告白に、肩にかけた鞄がずり、とずれたのがわかった。
「あ?」
「だから、私と」
「いやそれは聞こえた」
霧亥は両手を振って彼女を押し留めると、
「なんで俺?」
「なんでって……頭いいし、かっこいいし」
「文学部の悪評、聞いてないの」
「悪評?」
「冷徹、氷の男、悪魔、その辺」
「聞いてないわ」
霧亥はがっくりとうなだれた。広い大学だ。噂の力など、高が知れている。
「だめかな」
返答に困って、素直に言うことに決めた。
「俺、好きな子いるんだ」
「――」
「だから、ごめん」
「それでもいい」
「は?」
「私、頑張るから」
「頑張るからって……」
「私を好きになってもらえるように、頑張るから」
「いやいやいやいや。その情熱を、他の男に向けなよ。もったいないよ」
「お願い、羽鳥君」
「いやお願いったって」
「じゃ一回だけ、デートして」
「ええ……」
なにをどう言っても相手が引かないので、結局一度きりという約束を交わして、次の週末出かけることになってしまった。
あっという間の出来事だった。
意気揚々と出て行った彼女の背中を見ながら、霧亥は茫然としていた。
なんで俺はこう、押しに弱いんだ。そのうち怪しいセールスとか宗教に勧誘されんじゃねえか。
「あ、来た。なんだったの」
げっそりとして食堂に行くと、まだがらがらのテーブルで凛が待っていた。
「付き合ってくれって言われた」
「また?」
「また」
「で、なんて返事したの」
「言わん」
「相手は納得してくれた?」
「一回デートしてくれればいいから、それで諦めるって」
「うわ、つよつよ」
「俺がよわよわなんだ」
腹立ちまぎれに鞄を乱暴にそこに置いて、椅子に座った。
「何度断っても、頑張るとかそれでもいいとか言って引き下がってくれないんだ」
「霧亥が弱いというよりは相手が強すぎるような気がするけど」
連絡先がわからないと困るからと、電話番号を交換してしまった。これではメッセージのやりたい放題だ。
ああ、気が重い。週末なんて、すぐだ。
むすっとして頬杖をついてしまった霧亥の横顔を見て、凜は彼にはわからないように微笑した。
霧亥、やさしいからこういう時うんって言っちゃうんだよな。誰に頼み事されても、基本断らないし。きっと内心じゃ気が重いって思ってるんだろうけど、その実どこ行くんだろうとか考えてるんだろうな、きっと。相手の気持ちを考慮しすぎちゃって、動けなくなるんだよね。
にこにこしてそんなことを考えていたら、じろりと睨まれた。
「てめえ、なににやにやしてやがる」
「え、なんでもないです」
機嫌わるっ。刺激しないようにしないと。
霧亥の思った通り、週末はすぐにやってきて、その間にも例の相手とメッセージのやり取りは続いて、そうして会う日になった。
「羽鳥君、今日はありがとう」
「あ、うん」
ぎこちなく挨拶を交わすと、歩き出す。
「どこ行こうか」
「考えてあるの。横浜に行かない?」
「横浜?」
「うん。あんまりあっちの方行ったことないから。中華街とか。羽鳥君は行ったことある?」
「家族で何度か」
「じゃあ私よりよく知ってるわね。行きましょ」
電車に乗って中華街まで行くと、大通りの食べ放題をやっている店ではなく、小路を入った小さな店に行った。
「こういうところ?」
「ああいう場所は、観光客向けなんだ。味も値段も。この辺は、地元の人間が来るから味がちゃんとしてる」
「へえ……」
引き戸を開けると、中年の男性が新聞を読んでいた。霧亥は指を二本見せると、空いているテーブルに座った。
「なに食べる? 鉄板は、小龍包と青菜のにんにく炒め。あとアオリイカの煮物と焼豚」
「じゃあ、それ」
霧亥は手を上げて注文すると、すぐ来るよ、と言った。
男性が厨房に中国語でなにか言うと、すぐに返事が聞こえてきて物音がした。それから鍋ががちゃがちゃいう音や、火がごうごうと燃える音がひとしきりしたかと思うと途端にいい香りが漂い始めた。
厨房から皿が出てきて、男性がそれを持ってきた。
「わあ、ほんとにすぐに来た」
「食べよう」
小龍包は四個あったので、二人で二個ずつ食べた。どの料理も小皿であったので、すぐに食べてしまった。
「まだいける?」
「全然入るわ」
「じゃ次だ」
霧亥は自分のお勧めを次々に注文していき、小皿料理がどんどん運ばれてきた。
それを十皿も食べると、さすがに二人とも満腹になった。
「は、羽鳥君。もう食べられない」
「ちょっと歩こう」
霧亥は支払いをして、立ち上がった。
「だめよ羽鳥君。ここは私が」
「いいから」
財布を取り出そうとする彼女の手を押さえて、霧亥は言った。
小路から少し行くと、色とりどりの建物にやってきた。
「わあ、派手な建物ね。なあにここ」
「関帝廟。昔大火事があったけど、関帝の像だけ燃えなかったって言われてる」
「へえ」
内部に入って拝礼して線香を上げると金を取られてしまうので、柵の外から見るだけにした。それだけでも、充分楽しめる。
「お寺なのに、日本とは随分赴きが違うのね」
また歩いて、大通りに向かった。
「腹具合、どう」
「え?」
「甘いものなら、食べられそう?」
「そうね、それくらいなら」
霧亥は大通りからそれた小さな店に入ると、
「さんざし飴二本ください」
と声をかけた。店の者が冷凍庫から串を二本取り出して、彼に渡した。
「はい」
「なあにこれ」
「さんざしに飴をかけて、凍らせたやつ」
赤い、丸いものが串に四個刺さっている。それが、水飴で固まっている。そっとかじると、甘すぎずさっぱりしている。さんざしを食べるのは初めてだったが、これなら何本でもいけそうだ。
「おいしい」
「そう。よかった」
それをかじりながら東門をくぐって、中華街の外へ出た。
少し行くと、海へ出る。まだ残暑があるが、既に湿気はない。風が涼しくて、気持ちよかった。
海辺に、船が一隻停泊していた。海鳥がゆらゆらと風に乗っている。その鳥を見上げながら、彼女は髪を押さえて言った。
「今日はありがとう羽鳥君。とっても楽しかった」
霧亥はその言葉になんと返事をすればいいのかわからなくて、黙ってそれを聞いている。
「これで私、諦められるわ。もうメッセージもしないから、安心して」
駅まで共に歩いて、彼女は言った。
「ここでいいわ。一緒に帰ると、ずっといたくなっちゃうから」
「じゃあ、ここで」
「うん。また、大学で」
彼女はなんでもないように微笑んで、そう言って階段を下りていった。
また、大学で、か。また会っても、あんたに挨拶できるかわかんねえよ。俺、ひどい奴だもん。
無性に凜に会いたくなって、今なにしてるかな、と思った。週末だから、家だろう。メッセージしようとしてスマホを取り出して、手が止まった。
ふと上を見上げると、太陽が雲間に光っている。
なにやってんだ俺。
スマホをしまって、階段を下りた。
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