第二章 1
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二人の通う大学は変わっていて、必修科目に比較文化論というのがある。
教科そのものを聞けばただの文化論のようにも見えるが、その実蓋を開ければキリスト教とイスラム教とユダヤ教の戒律文化の違いを学ぶというもので、学期末にはテストもある。そこまで聞くとミッションスクールのようにも思われるが、ただのふつうの大学なのであるから、単に担当教授がすごく変わっているだけの話なのであろう。
この科目を一年と二年で履修しないと進級できないから、必然この大学に通う学生はみな、学者でもないのにトーラーだとか律法だとかに妙に詳しくなる。
八月に入ったある日、凜はその比較文化論の勉強をしようと大学の図書館へやってきた。
内容が内容なので、その辺の書店ではなかなか資料が集まりにくく、またあっても値段が馬鹿高くてとても手が出ない。だから図書館へ来たというわけだ。
空いている席を探してうろうろしていると、見慣れた背中が見えたので近づいていった。
「やっぱり霧亥だ」
「よう、自習か。ものはなんだ」
「比較文化論」
「俺もだ。イスラム教の禁忌の食べ物、豚と二本足とあとなんだっけ」
「鱗のない海産物。あと反芻しない動物」
「鹿って反芻するかな」
「うーんしないんじゃないかな」
「あとモーセ五書のさあ……」
「それより、口伝律法ってテストに出るっけ」
二人でああでもない、こうでもないと教え合って、そのうちに喉が渇いてきた。
「ちょっと外でお茶しない」
と凜が言い出して、ロビーに出た。
空調が効いているから涼しかったが、表のうだるような暑さがここまで届くようで、当分図書館にいたいと思った。
「蝉が鳴いてないね」
「あんまり暑いと、蝉って鳴かねえんだって」
「そうなの?」
「暑すぎんだよ。最近の日本は」
「あー早くバーベキューの日にならないかなあ」
凜は両手を伸ばして、うんと伸びをした。
「川辺は涼しいだろうな」
「お休み中だと先輩に会えなくて、さみしい」
「またそれかよ」
霧亥は舌打ちして言い返す。
「おめえの頭のなかにはそれしかねえのかよ」
「だって好きなんだもん」
その言葉に、霧亥の胸はずきりと痛む。
だって、好きなんだもん。
俺が喉から手が出るほど欲しい言葉を、いとも容易くお前は言うんだな。
「新しい服は、いいのかよ」
「うん、考えたんだけどね」
凜はちょっと思案する顔になった。
「川に行くから、やっぱり動きやすいかっこがいっかなーって。だから、ここは短パンかな。これは持ってるからいいとして、上はなにを合わせればいいかなあ」
「新しく買えばいいってもんじゃねえ。頭を使えや」
「ふえ?」
「今まで散々研究してきただろうが。自分になにが似合って、なにがかわいいか鏡とよく相談して、持ってる服で勝負しろよ」
「えーでもなにが似合うかなんていまいちよくわかんない」
「んじゃ候補を持ってこい。見てやるから」
「いいの?」
「横でうだうだ言われるよかましだ」
凜の顔がぱっと輝いた。
「川に行くの来週だから、じゃあ明後日は?」
「その代わり、コーヒーおごれよ」
「そんくらいお安いご用だよー」
そうやって着ていく服を二人で選んで、川に行く日に臨んだ。
行く場所が川辺だから、雨天の場合は順延ということだったが、今年はよく晴れるという天気予報の通り、その日も晴天だった。
川に着くと、誰もが歓声を上げて足を水に浸しに行った。
「深いとこに行くなよー。溺れるぞー」
三年生が声をかける。
凜が荷物から食材と包丁を出して、黙々と支度をし始めた。
霧亥は火を熾しながら、それをちらりと振り返る。相変わらずだな、そういうとこ。
凜が一人で食材を切り出していくのに、南先輩が気づいて話しかけた。
「福原さん。いいのにそんなの。遊んでおいでよ」
「あーあははは。いいんです私。こういうのほっとけないんです」
ちょっと感心したように凛を見て南先輩がなにか言おうとした時に、仲代先輩が後ろからやってきた。
「ちょっとあっち手伝って」
「あ、うん」
あ、行っちゃった。せっかく二人きりになるチャンスだったのに。ちぇ。
「よう、惜しかったな」
それを見ていた霧亥が声をかけてきて、凛は思わずそちらを振り向いた。
「火は?」
「もう点いた。手伝う」
野菜を切るだけだから、二人でやるとその分早くできた。
「おーお二人さん。それが終わったらついでにおにぎりもお願いしていいかなー」
三年生が顔を出して、手を合わせてきた。
「ごめんね、働かせてばっかりで」
「いいですいいです」
「さっさと切っちまおうぜ」
「うん」
肉がメインだから、野菜の量はそんなにはない。あっという間に切り終わって、米を炊いている場所まで行った。
「福原さんと羽鳥君のコンビ、働き者ー。助かるわー」
「そんなお二人におにぎり作りを手伝っていただきたい」
「でもお米、まだ炊けてませんね」
「うん、もうちょっとかかるから、それまで川に行ってていいよ。できたら呼ぶから」
霧亥を見ると、行こうぜ、と合図された。辺りを見回したが、南先輩はいない。
「なに探してんだ」
「ん、先輩」
「いねえな」
「せっかく服選んでもらったのに」
「……」
さみしげにうつむく凛を見て、霧亥は思った。俺なら、こんな顔はさせねえのに。絶対にこんな顔は、させねえのに。
「ま、たまにはこういうのもいいじゃねえか」
霧亥は言うと、凜に笑いかけた。それで彼女は顔を上げて、霧亥を見た。
「な」
なぜかほっとして、それでもいいかという気になった。
「うん」
水に入ると、驚くほど水が冷たい。周囲は木々に囲まれているので、空気も冷ややかだ。
「きもちいーねー」
「ああ」
「あ、気がついた」
「あん?」
「蝉が鳴いてる」
「あ、ほんとだ」
「ここはあっちよりか涼しいってことだね」
「あっちが暑すぎんだ」
あちらでは、みんなが水をかけあっている。
「行ってこいよ。涼しいぞ」
「でも濡れるし。足つけてるだけで気持ちいいからいいよ」
「そういうとこだけは、真面目だな」
「あーどういう意味?」
「ひとは見かけだけじゃないってこと」
福原さーん、羽鳥くーん、という三年生の声が、向こうの方から聞こえてきた。
「ごはん炊けたから、お願いしまーす」
「はーい」
行こ、凜は霧亥に言う。
二人は水辺から上がって、おにぎりを作り始めた。
「あつ、あつ、熱い」
「ばか。ちゃんと冷ませよ」
「冷ましたよ。霧亥の手の皮が厚いんだよ」
「お前は面の皮が厚いだろ」
「まっ。そう言う霧亥は鉄面皮のくせに」
そんなことを言い合っていると、側で聞いている三年生たちがげらげら笑った。
「おかしいね、二人とも。いっつもそんな会話してんの?」
「え、はい。いつもこんな感じです」
「それで二人とも付き合ってないの?」
「付き合ってないです」
「変なのー」
思い切り笑われて、凜はぷーっと頬を膨らませた。
「もう、霧亥のせいで笑われちゃったじゃないのよ」
「俺のせいじゃねえよ」
「じゃあ誰のせいよ」
「おめえだろうがよ」
「そんなことないわよ」
「んなことあるわあほが」
「あーっあほって言った自分の方があほのくせに」
わはははは、と三年生が大笑いして、
「ま、まあまあ二人とも。おにぎりできたから、今から焼いてきて。焼きおにぎり、時間かかるから」
二人はむっつりと黙ったまま、おにぎりを火の近くまで運んだ。そして網の上にそれを乗せると、無言でそれを見守った。
パチ、と火が燃える音だけが聞こえる。あちらで水飛沫が上がる水音がした。
「……あほじゃないもん」
「一言一句にこだわるんじゃねえどあほ」
「あほじゃないもん」
「ならなんならいいんだよ」
「かわいいさんとか賢いさんとかあるでしょ」
「てめえ、五歳児か。そんなこと言われて嬉しいのかよ」
「褒められて嬉しくないわけないじゃない」
「あーじゃあ言ってやらあ。凛は大層賢くてかわいくていらっしゃいますねえ」
「わー嫌味ったらしい。なんかやなかんじ」
「おめえ大概にしろよ」
言い合う二人の声が聞こえたのか、南先輩がどこからかやってきた。
「やあ、珍しいね。仲良しの二人が喧嘩?」
「あ、先輩」
「喧嘩じゃねえっすよ」
「そうなの?」
「なんでもねえっす」
霧亥がぷいっと行ってしまったので、凜はそれを追おうとした。だが南先輩がその時、
「これ、二人で握ったの」
と聞いてきたので、そのタイミングを逸した。
「あ、え、はい」
「器用だねえ」
「こんなのなんでもないですよ」
「野菜切ったのも福原さんでしょ」
「霧亥も手伝ってくれましたよ」
「君たちほんとに仲いいね」
「先輩と仲代先輩も、いつも一緒にいますよね」
「そうだね。そう言われてみればそうだなあ」
あれ? 私南先輩とふつうにしゃべってる。二人きりだ。
さりげなく霧亥を目で探したが、彼の姿は見えない。その後もずっと南先輩と凛は話が盛り上がって、バーベキューが始まっても一緒に食べていた。
霧亥はふとした時に姿を見せた。
「そこ、肉焼けてんぞ」
「あ」
「ほら」
手が届かない凜に代わって霧亥が手を伸ばして、肉を皿に取ってくれた。
「……ありがと」
「ああ」
取ってもらった肉を食べながら、凜は言った。
「あほじゃないもん」
「ああ。お前はあほじゃねえ。肉が焼けてるのに気がつかねえ大馬鹿もんだ」
「もー」
「ほら、肉」
「うん」
それを見ていた三年生は、
「あの二人、あれで仲直りしちゃったわけ?」
「うーんわからん」
と言い合っていたという。
そうして川遊びが終わって、夏も終わった。
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