第一章 5
3
桜が散る頃、同級生の女子学生に付き合ってほしいと言われて、南はこう言った。
「ごめん。今は特定のひとと付き合うつもりはないんだ」
彼の常套句だった。もう何度言ったかわからない、何人に言ったかもわからない、すり減らした台詞だった。
大抵の女はそれで引き下がった。彼ほどの男になるともててもてて仕方がないため、告白して満足するだけの女がいるというのも然り、また実際彼の周りには女の影がなかったため、その言葉に安心して諦める女がいるというのも然りであった。
時々、それに納得せず、食い下がる女がいた。
「私、待ってる。だから、返事は保留にして。ずっと待ってるから」
そういう女には、期待させずにきっぱりと言うことにしている。
「いくら待っても、俺の答えは同じだ。可能性は、ゼロだ」
相手にしていない女には、気を持たせないことにしている。
待たせれば待たせただけ相手の時間を無駄にしてしまうし、自分の周りにいられたらそれだけでもうっとうしい。両者のメリットは皆無だ。
そういうわけで、彼は常人の知るところ周知の事実でよくもてたが、その実周囲には女がいないという、珍しいことでも知られていた。
その代わり、男友達とはよくつるんだ。
同性はいい。駆け引きをしなくていいし、記念日などのイベントを覚えずともすむ。プレゼントに心を砕かずともよくて、食事の予約をしなくても怒らない。
南の不幸に怒り、南の幸せに喜び、共に笑ってくれる。気が置けない友達こそが一緒にいて居心地がいいと感じた。
特に、仲代とはよく話す。彼はいい奴だ。夜中まで飲みながら、なんでも話した。
家族のこと女のこと人生のこと、いくら時間があっても足りなかった。親友とはこういうものだと、仲代と共にいると実感した。
「またふったのか。あの子、学部の才女って呼ばれてるマドンナって話だぜ」
食堂に行くと、仲代はもうなにもかもわかっているようだった。付き合いを始めて三年目、これだけ一緒にいれば、南が女に呼び出されればなんの用事かくらいはすぐにわかろうというものだ。
「興味ないよ」
「お前は理想が高いんだよ。そろそろ近場で手を打てよ」
「近場とか手を打つとか、そんな気軽そうなやり方で選ぶのはよくない」
「お堅いなあ」
仲代は頭の後ろで両手を組む。
「より取り見取りなのに、もったいないよなあ」
仲代は、なにも気づいていないようだ。ちらりとその横顔を見て、悟られないようにため息をつく。
「もうすぐ新入生が入ってくるなあ」
「そうだな」
「そしたらお前、また告白ラッシュじゃないの」
それを思うと、気が重い。
だが仕方がない。これはもう、避けては通れない通過儀礼のようなもので、宿命だと諦めている。
四月になって、サークルでも新入生を勧誘することになった。
構内で南の姿をみとめた女子学生が殺到して、サークルは満員御礼の事態となった。これも、いつものことだ。
そしてその女子学生のほとんどが南に告白して、その悉くが彼にふられ、サークルを去っていき結局全体の人数が例年と同じくらいになる。これも、いつものことだ。
五月が終わると、それがようやくひと段落する。南はほっと息をつく。これでひとまず、来年までは怒涛のように女たちが押し寄せてくるということはない。気苦労も減る。
「相変わらずの人気だねえ」
「ほっといてくれ」
南がもてるのは、物心ついた時分からだ。幼稚園の時には既に、女の子たちが彼の取り合いを始めていた。小学校の頃には学年の女の子全員がバレンタインのチョコレートを彼の家に持ってきて、中学の時には痴女に襲われ、高校になって男子校に通うも、乗っている電車を別の学校の女子に覚えられ後を尾けられて自宅を突き止められたことすらあった。
「女の子と付き合ったことがないわけじゃないんだろ」
「あるよ。長続きしなかったけど」
「なんでだっけ」
「俺をみんなに見せびらかしたがるんだ。まるで勝ち取った賞品みたいに。たまにそうじゃない子は、記念日とかクリスマスとか誕生日とかを忘れるとすごく怒って、手がつけられなくなった」
「ああ、まあ、あるよね。そういうの」
「それに……」
――それに。
「え?」
「なんでもない」
それより、と南は何気なく話題を変えた。
「夏休み、海どこまで行くんだっけ」
「千葉じゃなかったけか。なんか、砂浜のあるとこって言ってた」
「ああ、それなら近くていいね。あんまり遠いと、疲れちゃうし」
「遠すぎても旅費がかかるしなあ」
そんなことを話しているうちに、夏になった。
海に行けば、当然のことみんな水着になる。
水着姿が拝めるというわけだ。
毎年、南はこの時期を秘かに心待ちにしていた。
むき出しになった二の腕がまぶしい、足も露わな人、人、人。
ちょっとした裸の見本市である。そしてそれをじろじろ見ていても、誰にも咎められない。
自分も水着になれば、解放感は殊更に大きくなる。仲代と話しながら歩いていると、一つ下の福原という女の子が話しかけてきた。
「一緒に泳ぎませんか」
「いいよ。ちょうど沖に行こうって言ってたとこなんだ。一緒に行こうよ」
ちょうどよかった。
「福原さん、けっこう泳げるんだね」
「私泳ぎは得意なんですよ」
「それは頼もしいね。俺も南も水泳は好きだよ」
「あれ、福原さん。羽鳥君は一緒じゃないの」
「あ、そういえば」
「珍しいね。いつも羽鳥と一緒なのに」
「気を利かせてくれたのかも」
「え?」
「いえ、なんでもないです」
「なあ、腹減らないか」
「じゃ戻ろうか」
岸に戻って、身体を拭く。福原はタオルを取りに、羽鳥のところへ行ってしまった。あの二人、あれで付き合っていないのだから、不思議だ。
食事をして、また泳いで、少し休んで、昼寝をした。
あんなに日焼け止めを塗ったのに、日が暮れる頃には肌が真っ赤になっていた。
「あー灼けちゃった」
「痛そう」
「先輩大丈夫ですか」
「俺、黒くならないで赤くなっちゃうんだよね。日焼け止め塗ったのになあ」
「私、アロエのジェル持ってます。使ってください」
福原が親切にもジェルを貸してくれたので、日焼けの火傷はそう痛くはならず、夕食の時間には痛みは引いていた。
「あーよく泳いだなあ」
仲代がよく日焼けした身体を布団に横たえて、大の字になった。
「疲れた疲れた」
「明日は潜れるかな。どうかな」
「天気がよかったらいけるだろうな」
同室の三年生は、他に三名だ。
暑い日の日差しの下で一日中泳いだから、その日はみんな早々に眠りについた。
月の光が部屋を明るく照らし出している。
その夜中、南はむくりと起き上がって同室の者たちが眠っているのを確認すると、隣で寝ている仲代に目をやった。
暑さのせいで、掛け布団がはがれている。寝乱れて浴衣の前合わせが大きくはだけ、仲代の胸が露わになっていた。
それに、南はそっと触れようとした。今なら、今なら大丈夫。ちょっとだけ、ちょっとだけ。
「う……ん」
仲代が寝言を言って、南はびくりとなった。それで慌てて手を引っ込めて、まるで誰かに見咎められたかのように慌てて布団のなかに隠れた。
いけない。だめだ。これは、俺の秘密。俺だけの秘密。知られてはならない。誰にも。 誰にも。
夜が明けると、何事もなかったように時間を過ごした。食べて、泳いで、また食べて、泳ぐ。夜には花火もやった。
「せんぱーい、一緒にやりましょうよー」
福原がやってきて、共に花火を持った。こんな時も、仲代から目が離れない。
二年生がすいかを切ってきてくれた。
「凛、ほら」
「あ、ありがと」
羽鳥がさりげなくすいかを福原に持って来る。
「あー俺もすいか食お」
仲代、行くな。俺の側にいてくれ。だがその心の叫びは彼には届かない。あくまで南の胸のうちに秘めたままだ。
だからその代わりに、南は東京に戻ってある場所へ行く。
繁華街の、男性専門のサウナルーム。夜な夜な出会いを求める男たちが、お互いの肉体を晒して品定めをし夜の闇に消えていく空間。
南は滅多なことではここに足を運ばない。仲代に対する気持ち、どうしようもない欲望が高まり、頂点に達して如何ともしがたくなった時だけやって来て、一夜限りの関係を名前も知らない男と結ぶことにしている。
自分が同性にしか興味がないとわかったのは、初めて女と寝た後のおかしな感覚からだ。
奇妙な違和感だった。
聞くところによればそれはとても気持ちのいいものであるはずなのに、達したあとの気分は居心地が悪く、叱られた後のような罪悪感を感じてしまって、それで自分はひととは違うのだとわかった。
それを隠していくのは、簡単なことではなかった。
女たちは、当たり前のように自分を異性愛者だと決めつけた。それが苦痛だった。
だが、それをやり過ごせば、またいい隠れ蓑にもなった。なにより、同性といるいい口実になった。だが欲望は抑えれば抑えるほど募ってきて、やがてむくむくと鎌首をもたげて彼を苛むようになった。
そうして南は夜の住人になったのだ。
ある日、彼の好みとよく合う身体の男と夜を共にした。相性は、今までにないほどよかった。
終わってから、彼は言った。
「お前、名前は」
そんなことを聞かれたことはない。また、言うつもりもない。
だが、男が自分に与えたあまりの快感に、言葉が先にするすると口から滑り出た。
「……夏輝。南、夏輝」
「来週、土曜。六時に、あの場所だ」
そう言うと、男は服を着て出ていってしまった。止める暇とて、なかった。
なんであんなことを言ってしまったのだろう。
後悔のようなものが、胸に押し寄せてくる。
だがそれよりも強く、彼がくれた快感の方が波のように襲ってきた。それで思わず震えがきて、服を着た。
来週の、土曜って言ってた。会える。また会えるんだ。
名前も知らない、素性の知れない男に身をまかせるという恐怖よりも、またあの快感を得られるという喜びの方が
それで、また来ようという気になった。
南はそっと部屋を出て、人目を忍ぶように建物から出ていった。
来週の土曜、六時。
それだけを胸に、彼は夜の街を後にした。
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