第一章 4

四月になって、新入生が入学してきた。

 この時期の後には、サークルは新入生の歓迎会と共に新緑会を催す。

 五月の緑を愛でようという、大層雅なものであるが、その実ただの飲み会であることは言うまでもない。

「うわーどうしよう霧亥。今年の新入生、かわいい子たくさんいるよう」

「だからなんだよ」

「南先輩にこの子たちの一人が告白して、先輩がオッケーしたらどうしよう」

「てめえはすいかを食う前から割れる心配すんのか。気にすんな」

 と、凜が心配するくらい多くの女子学生がサークルに入ってきて、凜は気が気ではなかったようだ。

「どうせすぐに玉砕していなくなるだろ」

 という霧亥の言葉通り、新緑会までにはその数はぐっと減り、六月には新入生の人数は半分になっていた。

 その頃までに、霧亥は響子と三度ほど寝た。

 どの時も、彼は凜のことを思って響子のことを抱いた。響子の顔に凜の顔を重ね、響子の名を呼ぶ代わりに心のなかで凜の名を呼んだ。

 そしてその後には、必ず罪悪感が押し寄せてきて、たまらなくなってしまうのだ。

 夏休みには、サークルで海に行くことになっている。そしてその後は、川辺でバーベキューだ。

 その前に、決着をつけてしまおう。あの子は、いい子だ。こんな不当な扱いは、してはいけない子だ。

 とうとうこの罪悪感に見切りをつけることに決めて、霧亥はある日響子を呼び出した。

「どうしたの? 珍しいね羽鳥君から呼び出すなんて」

 アイスティーを飲みながら、響子はなにも気がついていないようだった。

「なあに話って」

 単刀直入に、彼は言った。

「別れよう」

 響子の手が、ぴたりと止まった。彼女は顔を上げた。

「え?」

「俺と、別れてくれ」

「……なんで?」

「君は、こんな扱いされるべきじゃない。もっと大切にされるべきだ。俺は、あまりにもひどい。ひどすぎる」

「どういう意味? わかんないよ」

「とにかく、言いたいことはそれだけだから」

「羽鳥君」

 勘定をテーブルに置いて、霧亥は立ち上がった。

 響子が追いかけてこないようにと早足で歩いたが、杞憂に終わった。彼女は来なかった。

 ぽつり、と雨粒が肩を叩いて、小雨が降ってきた。

 生温かい空気が顔をなでて、それでなんとなく空を見上げた。

 鉛色の空が広がっているだけで、太陽の姿は見えなかった。

 どこから話を聞いてきたのか、凜は三日後には霧亥が響子と別れたという噂を耳にして、早速彼に尋ねてきた。

「別れたって、ほんと?」

「ほんと」

「なんで」

「……」

「あれれ、だんまり」

「あの子には、もっといい奴がいると思ったまでだよ」

「なんか硝子が言ってたよ。文学部の女たちの間では、霧亥は要注意人物だって。近寄っちゃいけないって言われてるって」

「ああ、文学部では俺の評判は最悪だろうな」

 どちらの女にも、ろくな扱いをしなかった。好きな女がいるのに、誰かと付き合ったりするからだ。これに懲りて、当分誰かと付き合うようなことはやめておこう。

 そんなことを胸に刻みつけておいて、夏休みに入った。

 毎日がうだるように暑い。

 バイトの合間に図書館に通い、時々凛と会った。

 凛と話していると、ほっとする。自分を飾らなくていいし、話題に困らない。気が合うのか、会話はどんどん続く。一緒にいて楽しいだけでなく、学びがある。

 こんなことを考えるのか、俺とは違うな、そうか、環境の違いなのかもな、と感心することがあって、得られるものが必ずある。

 だから、一緒にいたいと思う。

 凛はどう思っているんだろう。

 ふと、そんなことを考えることがある。

 俺は凜といつもいたいと思う。でも凜は。

 凜は、どう思っているんだろう。

「……い?」

「え?」

「暑くない? 図書館行こうよ」

 言われて、初めて気がついた。夏休み中の食堂は休みだから、テーブルを使うことはできても冷房はかかっていない。だから、暑い。

「そうだな」

 霧亥は立ち上がると、鞄を肩にかけた。

 図書館なら冷房が効いているだろうから、涼しいはずだ。

「もうすぐ海だね。それでさ、お願いがあるんだけど」

「そら来た。水着だろ」

「すごい。なんでわかったの」

「どれだけお前の買い物に付き合わされたと思ってんだ。お見通しだ」

「えへへへ。それでさ、早速なんだけど、今度の週末、どう」

「いいけど、水着だけだからな」

「わかってますって」

 それでその週末、二人は凜の水着を見に出かけた。

 しかし、水着というものはぱっと見と実際に着た時とでは、まるで違うものである。

「あ、これかわいい」

 と凜が手に取ったものでも、実際に試着すると、

「だめだ。却下」

 と霧亥が途端に手を交差させることが続いた。

「えーなんでー」

「足が太く見えるぞ。まるで桜島大根だ」

「だいこん……」

「南先輩にそんな目で見られて、いいのかよ」

「よ、よくない。ちっともよくない」

「よし。次」

 次に凛が選んだ水着は腰と胸と太腿の部分に穴が開いていて、それを試着した凛を見た霧亥は一言、

「娼婦か。次」

「ちょっ娼」

「次だ」

 問答無用で次に着替えた凜は、ピンクのふりふりのフリルの水着を選んだ。霧亥は言った。

「まるで子豚姫だ。次」

「もー文句ばっかり」

「数打ちゃ当たる。運命の一着は必ずある。数をこなせ。次」

 凜はやけになって、次々と水着を持ってきた。

「顔色が悪く見える。次」

「胸が潰れて見えるぞ。だめだ」

「スケスケだぞ。これじゃ露出狂だ。休み明け、大学を歩けなくなってもいいのか。次」

「なんだこのしましまは。蜂じゃないんだ。まともなのを選んでこい」

 そしてさすがの凛もへろへろになって選んだ一着、それを試着して霧亥が言った一言は、

「……うん、これならいいんじゃないか」

 であった。

「ほんと? やった」

「でかした」

 会計を終えてくたくたになった二人は、甘いものでも食べようとお茶をしに行った。

「ふえーさすがに疲れたね」

「水着は難しいからな」

「でもよかった。これで先輩の前でも堂々と水着になれる」

 嬉しそうに言う凜を見て、霧亥は手を止める。本当は、自分だけに見せてほしい。本当は、その言葉を自分に言ってほしい。

「ね、霧亥は新しい彼女と海とか行かないの」

「女はしばらくはいい」

「えーなんでー」

「もう懲り懲りだ」

 それはその通りだった。浅薄な考えのせいで、痛い目に遭ったばかりか相手を傷つける羽目になってしまった。今度は、それだけは避けたい。

 いよいよ海に行く日がやってきて、凜はうきうきしてその朝やってきた。

「てめえ、なんだその浮かれようは」

「だーってー、海だよ。浮かれもするよ」

「去年も行っただろ」

「あの時はまだ先輩のこと好きじゃなかったもん。だからあんまり見てなかったし。でも今年は違うもんね。かっこいいとこいっぱい見るんだー。スキーの時はあんまり見られなかったけど、海だったら近くに行けるし」

「へいへい」

 それはそうだ。夏は、人と人の距離がぐっと近くなる季節でもある。凜の日頃の努力が実って、南先輩が彼女を選ぶことがあるやもしれないのだ。

 そんなことがあったら、俺、どうなるかな。笑ってられるかな。今までみたいにこいつの側にいられるかな。

 一抹の不安が胸をよぎる。

 なにも知らない凜は、窓の外を機嫌よく眺めている。その横顔を見て、ま、いいか、と思った。どうとでもなれ。

 その時は、その時だ。

 旅館に着いて、部屋を確認した。基本、男女に分かれて学年ごとの部屋割だ。荷物を置いて着替えれば、早速向かうのは海である。

 凜は上にパーカーを着て浜辺へ行くと、きょろきょろと辺りを見回した。

 南先輩、いないな。どこにいるんだろ。

「おいてめえ」

 後ろから霧亥の声が突然降ってきたので、凜はびくりとなった。

「あんだけ苦労して選んだ水着、なんで見せねえんだ。パーカー脱げや」

「は、恥ずかしいし」

「あほか。どうせ海入るんだろうが。恥ずかしいもなにもあるか」

 ちらりと他の女子を見れば、みな水着である。それで少し勇気が出て、思い切ってパーカーを脱いだ。

「あ、凜の水着、水色だ。かわいー」

「ほんとだ。似合うー」

 と二年の女子から声がかかって、ほっとする。

「ほらな。自信持て」

「う、うん」

 それでなんとなくあちらに目をやっていると、南先輩が仲代先輩と共に歩いてくるのが見えた。

「あ」

 先輩だ。

 気がついたら、歩き出していた。

「せんぱーい」

「あ、福原さん。水色だ」

「一緒に泳ぎませんか」

「いいよ。ちょうど、沖まで行こうって言ってたとこなんだ。一緒に行こうよ」

 海に入っていく凛の背中を見て、霧亥はパラソルの下に座っていた。

 行っちまった。

 なにやってんだ俺。自己嫌悪が押し寄せてくる。

 凜は笑顔で、二人の先輩と泳ぎながらなにか話している。その姿が見る見る遠くなっていく。

 誰かと付き合ってなくて、ほんとによかった。彼女がいたら、今ごろやりまくってた。

 ああ、俺、どんどんだめな人間になってく。だめだ。こんなんじゃ、だめだ。

 なんとかしないと――

 そんな霧亥の思いを孕んで、一日目が終わった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る