第一章 3
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三月になった。
キャンパスの植え込みに、水仙がちらほらと咲いている。
「霧亥、彼女と別れたってほんと?」
どこから話を聞きつけてきたのか、凜がそんなことを尋ねてきた。
「ほんと」
「なんでなんでなんで。いつ」
「冬休み明け」
「結構前じゃん。知らなかった」
「言わなかった」
「なんで別れちゃったの」
「俺の友人関係に口出ししてきたから」
「どういうこと?」
「誰とは会うなとか、誰とは口利くなとか、そういうこと」
「そんなこと言われたの」
「だから、そういうこと言ってくる女はご免だって言ったら、もう知らないって」
「ふうん」
凜は肘をついて、そこに顎を乗せた。
「まあ、いいんじゃない。それは別れて正解だよ」
そもそも誰のせいだと思ってんだよ。霧亥は心のなかで毒づく。
「それよりさあ、今度お花見でしょ。服新調したいから、買い物付き合ってよ」
「またかよ」
「先輩にかわいい服で会いたいの」
「おめえそればっかで疲れねえのかよ」
「ぜーんぜん。楽しいよ。ね、お願い」
「わかったよ」
買い物に付き合わされるのは、いつものことだ。女の買い物は好きではないが、凜との買い物なら話は別だ。
いつものようにああでもないこうでもないと服をとっかえひっかえすること数時間、ようやく上下の服が決まり、くたびれ果てた霧亥はコーヒーを飲む手も重い。
「そんなに疲れなくたっていいじゃなーい」
「女の買い物は理解できん。時間がかかりすぎだ」
「だって色々見たいじゃん」
「見すぎなんだよ。見りゃいいってもんじゃねえんだ」
「そんなに買い物が嫌いなのに、なんでいっつも付き合ってくれんの」
お前といられるからだよ。
その言葉を飲み込んで、霧亥はコーヒーを飲んだ。ちらりと凛を見ると、不思議そうに自分を覗き込んでいる。
「別に。俺がいなきゃお前、一人で突っ走っておかしな服選んでサーカスみたいなかっこしてくるだろ」
「あーそうかもー。言えてる」
「だからだよ」
「ふーんありがとねー」
南先輩を好きになる前の凛は、冴えないわけではないがぱっとしなかった。どこにでもいる、ふつうのその辺の雑草。そんな感じの女性だった。
ところが、あの日以降、凜の変身ぶりは目覚ましいものがあった。服を変え肌がきれいになり髪に艶が出てくると、それだけで若い女というものは美しくなるものだ。
恋をすると、こんなに変わるのか。
たかが恋で、こんなにも。
あの男のせいで。
敗北感でいっぱいになった。
そんなことを思い出していた週末を終えて月曜日に大学に行くと、知らない学生に呼び止められた。
「あの、お話があるんですけど」
「なに?」
「ここじゃできないんで、あっちでもいいですか」
めんどくせえな、と思いながらもついていくと、そこはどうやら校舎の裏である。
「話って?」
「あの……私文学部の斎藤響子っていいます」
「で?」
「豊原さんと別れたって聞いて……」
「ああ……」
あの子か。同じ文学部だ、どうせ悪い噂でも流されたんだろう。
「あの……」
なんだろう。あの子の友達で、いちゃもんでもつけてこようってのかな。敵討ちとか。
「私と、付き合ってくれませんか」
「――」
は?
頭のなかが真っ白になった霧亥をよそに、響子は続けた。
「豊原さんと付き合ってたのなら勝ち目がないって諦めてたんですけど、長続きしなかったって風の噂で聞いて」
「へ……」
「私、彼女と違って交友関係には寛大です。記念日とかのイベントにも関心はありません。 ただ、羽鳥君とお付き合いできれば、それでいいんです」
「……俺?」
霧亥は自分で己を指差して、響子に尋ねた。
「はい」
彼女は力強くうなづくと、熱心な瞳で彼を見上げた。
「……俺、そういうことには疎くて、ひどいこととか言うけど」
「構いません」
「基本、放っておくし」
「いいです」
「……そんなんで、後悔しても知らないよ」
「後悔なんかしません」
参ったな。これは、諦めそうにもない。
それで押しに押されて、結局霧亥はうんと言ってしまった。
響子と連絡先を交換して授業に行くと、罪悪感だけが募った。またあんな思いをするのかと、辟易する思いだった。
「あれ、珍しいね。こんなに遅いの」
「成り行きで、彼女ができた」
「え、また?」
「まただ」
「今度はどんなの?」
「前よりはまともそうなの」
凜と話しているうちに、担当講師がやってきた。
その夜響子からメッセージが来た。なんてことはない、ただの挨拶文だった。適当に返事をしておいたが、返信はなかった。
翌朝、構内に入ると、後ろから誰かに話しかけられた。
響子だった。
「おはよう、羽鳥君。今日の授業はなに?」
「……日本文学」
「私、一限から哲学。眠くなっちゃうわよね。じゃ、教室あっちだから。またね」
こちらがなにか言う暇もなかった。
前の女とは大違いのさっぱりとしたその態度に、呆気に取られた。なんだあの女。あれでいいのか。彼氏だぞ。もっとないのか、なんか。
食堂でも響子は目が合っても手を振るだけで、一緒に食べようだとか自分を凜に紹介しろだかとは言わず、友達らしき学生と話しながら食事をしていて、霧亥のことはまるで目に入っていないようだった。
それでなんとなくほっとして、凜と話していても響子に煩わされることなく時間を過ごすことができた。
桜の蕾がほころんできて、花見の時期が近づいてきた。
サークルでは花見をやるというので、場所取りや飲み物の手配に忙しい。
霧亥はこの前、二度ほど響子と食事をした。どの時も学食で一緒に食べただけであったが、彼女は特になにを話すでもなく、終始にこにことしていて、霧亥がちらりと彼女を見て目が合うと、にっこりと微笑んでみせるのだった。
それでなんだか毒気が抜かれて、霧亥はなにも言えなくなった。
確かに、前の彼女よりは居心地がいい。束縛しないし、いつも笑っている。どうやら俺が好きみたいだし、楽しそうになにか話す。
いい子だ。
そんな感想を抱いた。
「今度、サークルのお花見なんでしょ。どんなことするの」
「食って、飲んで、騒ぐだけ」
「いいなあ」
「俺ら一年は、飲めねえし」
「あー、それもそうだね」
響子は今気づいたかのように笑う。よく笑うな。凛みたいだ。凜は本当によく笑う。笑うと、そこにひまわりが咲いたみたいに場が明るくなる。俺はそれが好きで、もっと笑ってほしくなるんだ。
「あ、時間だ。じゃ、行くね」
響子が行ってしまうと、霧亥は辺りを見回した。彼女とは二時限目がたまたま互いに空いていて学食で一緒になったが、今は昼食時だ。凜が来る時間だ。
「あ、霧亥だ。おーい」
食堂の入り口で、凜が手を上げてきた。霧亥はそれに応えて手を上げて、場所を空けた。
「次、西洋文化論だよね」
「そう。大教室」
この週末は、いよいよ花見だ。凜はこの間新調した服を着て、南先輩の近くに陣取ろうと今から計画している。南先輩はこの前も二年の同級生に告白されたのに断ったとかで、凜はそれを聞いて青くなったり赤くなったりしていた。
「なんかさー、浮いた話一つないよね。いっつも仲代先輩と一緒だし」
「あんなにもてると、誰か一人選ぶと逆にその女が大変だからじゃね」
「どういう意味?」
「もてる誰かと付き合うと、その相手がやっかまれるんだよ。周囲から」
「あ、なるほど」
「だから特定の誰かと付き合わないで、同性とだけつるんでるっていうのはあるかもしれねえな」
「そっかあ。大変なんだあ」
もてる人間の悩みなど、凡人の自分にはわからないものである。
「今のところ、サークルには南先輩目当ての女子はいないんだよね。今のところは」
「いたけど、みんな玉砕していなくなってったな」
去年の四月当初は、見た目さわやかな南先輩を狙って多くの女子がサークルに参加していた。
そして我こそはと彼に告白していって返り討ちに遭い、いつの間にか姿を見せなくなり、一人また一人と消えていったのである。
「だから、今度のお花見は南先輩の隣に座るチャンス。新しい服着て目いっぱいアピールして、存在を強調しちゃいます」
「まだ飲酒できないから、烏龍茶抱えて行けよ。酔っ払った女はみっともないからな」
「先輩たち見て学習してるから、大丈夫」
そうして週末を迎えてみれば、花は八分咲きで今にも散り際、今が盛りである。
この日のために新調した上下の服を着て髪を巻き、凜は仲代先輩と飲む南先輩の側へ近寄った。
「先輩、隣、いいですか」
「ああ福原さん。こっちおいでよ」
「あれ、羽鳥はいないの」
「あっちでお手伝いしてます」
「福原さんはいつも羽鳥といるからさあ、なんだか近寄りがたいよね」
「そんなことないですよ。彼氏はいないって体裁ですから」
「そうそう、羽鳥君には彼女いるんだしね」
「そうなんですよ。あ、でもその子とは別れて、今新しいのと付き合ってますよ」
わ、私今、先輩と話してる。ちゃんと会話してる。わあ。
霧亥はそれを、そう遠くないところから見ていた。
楽しそうに南先輩と話す凜の横顔。時折、どっと笑い声が起こる。凜が笑う。場が明るくなる。
ぎゅっと胸が締めつけられるような気持ちになった。
なんだよ。そんな顔して、笑うなよ。
凜の笑顔は、南先輩に向けられている。
俺にだけ、笑ってろよ。
「――」
スマホに着信があった。
響子だった。
お花見はどう、楽しい? と様子を聞いてくるメッセージだった。
顔を上げて、凛を見た。
南先輩を一心に見つめて、楽しそうに笑っている。俺のひまわり。
冷たく燃え上がる青い炎が、霧亥の胸を舐めた。
咄嗟に、響子に今出てこられるかとメッセージをしたのは、どういうつもりだったのか。
気がついたら花見の席を抜け出していた。
「はーとーり君。どうしたの急に呼び出したりして」
無言で響子の腕を掴むと、ホテル街へ向かった。
「ちょっと、どうしたの羽鳥君」
そして部屋に入って、彼女を抱いた。
凛だと思って、滅茶苦茶に抱いた。抱き倒した。
凛、好きだ。凛。凛。好きだ。
事が終わると、後悔が波のように押し寄せてきた。なにをやってるんだ俺は。最低だ。
「ごめん」
ぽつりと言うと、響子はその言葉を勘違いしたようだった。
「いいの。突然だったけど、気にしてない」
服を着ながら、彼女は言った。
「実は、心配してたんだ。羽鳥君、こういうこと興味あるのかなって」
その腕には、痣ができている。乱暴に扱ったせいだ。
それでもう一度小さく、ごめん、と呟いた。
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