第一章 2
冬休みになって、サークルで一週間、長野に行くことになった。
「南先輩、スキー検定一級持ってるんだって。きゃー」
行きの夜行バスで、凛は隣に座る霧亥にそう言った。
一級か。検定一級なんて、なかなか取れない。ほんとになんでもできるんだな。
件≪くだん≫の南先輩は一番後ろの席で仲のいい仲代という先輩と一緒に座っていて、ここからはよく見えない。あの二人はいつもつるんでいて、大抵側にいる。
「凛、お前滑れる?」
「ゲレンデって食べ物? って思ったくらい雪山には縁がないよ」
霧亥はそれを聞いてがっくりとなった。しかし、なにかを思いついたように顔を上げて、
「じゃあちょうどいいじゃねえか。先輩に教えてもらえよ。滑り方」
「え? そうかなあ。教えてもらえるかなあ」
それを聞くと凛はちょっと期待に胸を膨らませて、どきどきしたように口元を緩ませた。
いらんことを言ったかな、霧亥は少しだけ後悔する。俺の前でいちゃつかれるわけか。
たまったもんじゃねえな。
それでなぜか目が冴えてしまって、行きのバスのなかではずっと起きていた。
そんなことはなにも知らない凛は、彼の肩に寄りかかってすうすうと眠っていた。
旅館に着いて部屋割りを見ている間に、凜はすすすすす、と南先輩の側に近寄っていって、
「南先輩」
と話しかけた。
「私、滑ったことないんです。よかったら、教えてもらえませんか」
「ああ、そうなの。いいよ」
きゃーっ。うそみたい。やったーっ
天にも昇る気持ちで、凜は霧亥の元へ戻っていった。
「霧亥霧亥、いいって。教えてくれるって」
「……よかったな」
サークルのなかでも、初心者は凛だけである。他はみな、誰もが経験者だ。
部屋へ行って着替えて支度して、レンタルの板を貸してもらう場所へ行った。
南先輩はもう仲代先輩とやってきていて、早速靴などを合わせていた。
「やあ、来たね。足のサイズはいくつ?」
きゃーっみ、南先輩から話しかけられたあ。
「に、二十四センチですう」
「じゃあこっちかな」
南先輩はそう言うと、靴を取りに行った。霧亥はむすっとして、側で自分の支度を黙々としていた。
それから南先輩はてきぱきと凛の背丈に合わせたスキー板とストックを借りてくると、じゃあ行こうかと彼女を外に連れ出した。
ああ、夢じゃなかろうか。胸がどきどきする。
「ここに足をはめて。ぐっと押し込んで」
「ぐっ」
「もっと力入れて」
「こうですか」
凛が力を入れても靴がはまらないので、南先輩が凜の足首を掴んでスキー板にはめた。
それで益々凜はどきどきして、もう心臓が喉から飛び出そうな心持ちになった。
「ストック持った? じゃ、滑ってみて」
「え、いきなりですか」
「そうそう。やってみないと。せーの」
「そーっと」
へっぴり腰でそろそろと行く凛が滑り出したかと思ったら、足を取られて盛大に転んでしまったので、後ろで見ていた霧亥は目を片手で覆った。
「あーん先輩ー」
「大丈夫?」
「転んじゃいました」
「誰でも最初はそうだよ。つかまって」
手を差し伸べられて、当然のようにそれに掴まる。あ、手繋いじゃった。どうしよう、距離が近い。
「腰は、こう。膝を曲げて」
先輩が後ろに回って、腰に手をやった。それで、姿勢をどうすればいいのかわかった。
きゃっ、身体が触れる。どうしよう。
「じゃ、もう一回滑ってみて」
「は、はい」
今度はさっきより順調に滑ることができて、転ばずにすんだ。
「きゃー滑れました」
と、言った途端に転んで、雪まみれになった。
あーあー。それを見ていた霧亥は、思わず呟いた。
「だいぶましになったね。もう一度」
どんなに転んでも先輩は文句を言うことなく、決してけなすことなく、根気よく凜に付き合ってくれた。あんなの、惚れて当然だろ。霧亥は諦めを込めた瞳で見つめる。
あっという間に正午になって、昼食の時間になった。
「ちょっと休憩しようか」
「は、はい」
ゲレンデには大抵、リフトの側にロッジがあるものである。そういう場所では、食事ができる。
「福原さん、だいぶ上達したね」
「そうでしょうか……」
食事を前に、凜はしゅんとなる。
「先輩に迷惑ばっかりかけて、申し訳ないです」
彼は笑った。
「そんなことないよ。楽しいよ」
「そう言ってもらえると、気が楽なんですけど」
よかった。楽しい。私、今先輩を独り占めしてる。
と、そこへ仲代先輩がやってきて、
「おい、もっと上の方行ってみないか」
と南先輩に言ってきた。
「ああ、いいよ」
彼は仲代先輩にそうこたえると、凜に向き直って言った。
「じゃあ福原さん、俺はもう行くけど、午後も頑張って。この調子なら明日にはもう中級者コースに行けるようになるよ」
そして仲代先輩と一緒に行ってしまった。
「あ……」
そう、だよね。やっぱり初心者と一緒じゃ退屈だよね。滑りたいよね。
「おい」
うなだれる凜の頭上に、霧亥の声が降りかかった。彼女は顔を上げた。
「午後も特訓だぞ」
食事が終わって表に出ると、凜は霧亥に尋ねた。
「霧亥、滑れるの?」
「二級」
そんなこと、今初めて知った。意外。
リフトで上まで行って、凜はため息を漏らす。
「そーっと」
滑り出そうとして、足がもつれて転ぶ。霧亥がやってきて、絡まったスキー板とストックをほどくようにしてまとめてから彼女を立たせて言った。
「まず、基本だ。止まり方。板を三角にして、膝をきゅっと曲げるんだ。そうすると止まる。そうなるようにできてる。やってみろ」
「三角。膝。きゅっ」
ぶつぶつと言いながら、滑り出すのと同時にやってみた。
「……止まった」
凜は後ろを振り返った。
「止まったよ」
「だから言ったろ。そうなるようにできてる」
彼はすーっと滑ってくると次に言った。
「そしたら、次は曲がる練習。最初は、板を三角にしたまま曲がれ。俺が曲がれって言ったら、ストックで突いてから曲がれ。いいな、曲がるんだぞ」
「は、はい」
そこで、凜はまず坂を真っ直ぐに滑り降りた。
すぐに、霧亥の声が後ろからかかった。
「曲がれー」
「ストックで突いて、曲がる」
ぶつぶつ言いながら、右手で地面を突いて板を三角にしたまま曲がった。くるり、凜は半回転して、坂と平行になった。
「うわ」
霧亥がやってきて、
「よし、曲がれたな。基本、この繰り返しだ。滑る、曲がる、また曲がる。コブがあるだろ。あのでこぼこの周りを曲がるんだ。行くぞ」
「えっいきなり?」
「やらないと上手くならない。実践あるのみ」
霧亥はでこぼこの周りをするりするりときれいに滑っていくと、かなり下まで行って止まり、凜にむかって叫んだ。
「いいぞー。ここまでこーい」
「ええーっ」
「いいから早くしろー日が暮れるー」
ええい、と思い、滑り出した。
「曲がれー」
ストックで突いて、曲がる。少し滑る。
「曲がれー」
また突いて、曲がる。滑る。
「曲がれー」
突いて、曲がる。また滑る。
気がついたら、霧亥の元へとやってきていた。
「よし、来たな。リフトの側まで行くぞ」
そうやってリフトの元へと行ってしまうと、彼は言った。
「一番上まで行こう」
「えっやだよ」
「なにを言う。こんなとこでちんたら滑ってたって上手くならねえんだよ。上級者の、ハードなとこでじゃんじゃん滑って初めて上手くなるんだ。俺はちっちぇえ頃からそうやって鍛えられてきた」
「ふえー」
「ほら行くぜ」
それで二級かあ。確かに上手だもんなあ。
「おっ、福原さん、特訓? 羽鳥君に教えてもらってるの」
リフトの列に並んでいると、三年生の先輩と行き会った。
「はい、午前中は南先輩に教えてもらいました」
「へえ、豪勢だね。彼、一級だっていうもんね。でも見てたけど、羽鳥君もなかなかきれいな滑りしてるよ」
「そうなんですか」
「うん。きっと、小さい頃からスキー教室とかでちゃんと習ってやった滑りだと思う」
「二級だって言ってました」
「ふうん、さすがね。ま、頑張って」
霧亥が前からおい、来たぞ、と声をかけてきた。リフトの順番が回ってきたのだ。凜は先輩に会釈して、慌てて前へ行った。
リフトはぐんぐん上まで行く。
雪野原に、時々ぽつん、ぽつんと足跡があった。
「あ、あれなんだろ」
「うさぎか、鹿ってとこだな」
「鹿かあ」
上に行けば行くほど、静かになっていく。
「そういや霧亥の家族のこと、聞いたことないね」
「俺か。俺は三人姉弟。一番上に兄貴。その下に姉ちゃん。で、俺。父親は弁護士事務所の経理、母親はその昔秘書、今は主婦」
「へえ、三人姉弟なんだあ」
「お前んとこは?」
「私はお姉ちゃんがいるよ。うちはサラリーマン。お母さんは主婦」
「仲いいか」
「ふつうかなあ。小さい頃はよく喧嘩してたけど。少女漫画とか取り合いになったりしてたなあ」
「少女漫画ねえ」
案外、男に免疫がないからあんなに南先輩にきゃーきゃー言ってるのではないのかとも思っていたが、そうか、二人姉妹か。納得だ。
「霧亥は姉弟仲よかった?」
「うちは、いっつも取っ組み合い。特に、姉貴と」
「お姉さんと? へえ」
「うちの姉貴、すげえ強えの。もう、ゴリラみてえの。ボコボコにされる」
「ボコボコ」
「で、大抵俺が泣かされて、兄貴が慰めてくれるわけ」
「へへえ」
「だから兄貴とは今でも仲がいい」
「いいね。そういうの」
「姉貴には二人とも頭が上がんねえけどな」
「スキー旅行とか、家族で行ってたの?」
「父親が好きで、母親も独身時代からやってたから、自然と結婚して家族ができてからもやるようになったっていうのが正解かな。小さい頃はスキー教室に放り込まれて、泣きながら滑ってた」
「泣きながら? 霧亥が?」
「寒いし帰りたいし親はいないし、あれ、最悪なんだよ」
お、と霧亥が声を上げた。リフトの終着点だ。
リフトから下りてゲレンデを見下ろすと、次々とその横を人々が滑っていくのがわかった。
「霧亥ーどうしよう」
「滑らないと帰れない。行くぞ」
先ほどのように、霧亥が少し先を行って、凜が滑るという形を取った。その脇を、どんどん人が滑っていく。ぷっ、あの子ボーゲン? という陰口が、時折聞こえてきた。
「曲がれー」
「突くの忘れてるぞー」
「そこで曲がれー」
山の途中までやってくると、霧亥は言った。
「よし、だいぶ曲がれるようになったな。じゃあ今度はちょっと難しいやり方だ」
「ふえ?」
「曲がる時、足を揃えてみろ。ちょっとやってみろ」
霧亥は凛の側にいて、彼女が曲がるその時に、
「はい、そこで足を揃えるー」
と声をかけた。
「あ、足を。揃える」
わたわたと足をなんとか動かして、どうにか揃えてみると、身体がぐらぐらした。霧亥が飛んできて、転ばないように支えてくれた。
「ケツ、突き出すな。重心はここ。腰はこう。膝曲げて。もう一度」
凜は言われた通りに重心を持って行って、曲がってみた。
「はい、足揃えてー」
「あ、ああし」
忘れていた。足を揃えて滑り出すと、また曲がる。霧亥が言う。
「足揃えるー」
今度はできた。
「よし、いいぞ。じゃあそれでやってみろ」
彼はそう言うと、また少し下まで行ってしまった。
「曲がる時、足揃える」
ぶつぶつ言いながら曲がる。そろそろと足を揃えた。
「いいぞー。次ー」
下から声がする。曲がる。揃える。なんか、わかってきた。
あっという間に霧亥の元までやって来ると、息が切れていた。
「よし、できたな。ほれ」
彼はストックで、あちらを指し示した。
「ふえ?」
凜が腑抜けた声でそちらを見ると、眼下にはいつの間にか、先ほど食事をしたロッジが見えていた。麓まで下りてきたのだ。
「あれ?」
「な。あっという間だろ」
凜は霧亥を振り返った。
「うん」
「どうだ。もう一回行けそうか」
「……うん」
「よっしゃ。行こうぜ」
こうして、時間が過ぎていった。
三日四日と経つ頃には凜はめきめきと上達していき、先輩たちに、
「福原さん、随分上手くなったねー」
「特訓の成果だねー」
とまで言わしめるようになった。
「えへへへ、ありがとうございます」
「あの堂々としたボーゲン、お見事だったけどね」
「羽鳥君の教え方がいいのねー」
そう言われて、しみじみと思う。
あ、そうだ。霧亥、ずっと私につきっきりだったな。つまんなくなかったかな。初心者にずっと付き合ってばっかりじゃ、大して滑れなかったんじゃないのかしら。悪いことしちゃったな。たまには一人で滑っていいよって言おうかな。
そこで霧亥を探して、そう言おうとした。きょろきょろと首を巡らせていると、彼はちょうど靴に板をはめているところであった。
「あ、霧亥。今日さ……」
「お、来たな。今日はあれに乗ろうぜ」
「え、あれ?」
「あれ」
と、彼が指差したものは――
「ええっ」
ゴンドラであった。
「むむむむむり」
「無理じゃない。ほら行くぞ」
凜の靴に板をはめて、霧亥は彼女の手を引いた。
「無理無理無理無理」
「てめえ、いつまでもちんたらおんなじコースを滑ってて上達するとでも思ってんのかよ」
「う」
「上手くなって南先輩と滑ってみたいだろ」
「は、はい」
「じゃ来い」
「うう」
無理矢理連れて行かれて、上級者コースのさらに上の、山の上まで行った。
ゴンドラから見る景色は、リフトとは違ってひと際高く、険しい。
「ふえーん霧亥。高いよう」
「泣き言を言うな」
頂上付近には食事処もあり、また風景が違っていた。上級者があちこちにいて、上手い人間がこれでもかというほどゲレンデを滑り回っている。
「き、霧亥。轢かれたらどうしよう」
「んなわけあるかい」
青くなる凛の背中を文字通り押して、霧亥は滑り出した。それを追って、凜は滑る。
えーと、曲がる。足を揃える。滑る。また曲がる。足を揃えて、滑る。よし、うまくいってるな。
「よしよし、上手いぞ」
どうだ、霧亥は彼女に尋ねた。
「楽しいか」
凜は彼を見上げた。
「うん。楽しい」
楽しい。スキーなんてできないと思ってたのが、嘘みたい。ちゃんと滑れてる。楽しい。
「じゃあ行くぞ」
霧亥は言うと、いつもより少し長めの距離を行ってしまった。凜は少しも怯まずに、それを追った。山の上の方なので、斜面が凍っていて、時折スキー板がガリガリと鳴った。
「あれ、福原さん?」
途中、南先輩と行き会った。
「あ、先輩」
「こんな高いところ滑ってるの」
「は、はい。低いとこ滑ってても上手くならないって、霧亥が言うんで」
「まあ、確かにそうだよね。上手くなったね福原さん」
「え、そうですか」
「きっと、先生がいいんだね」
わ、褒められちゃった。やった。
ほわわーとなりながら滑っていると、霧亥が、
「てめえ、アホ面して滑ってると転ぶぞ」
と恐い顔で言ってきた。
そうして一週間が過ぎた。
東京に戻ってくると、凜はバイトと図書館通いに明け暮れた。レポートの提出のための資料を探すのにどうしても大学の図書館に行かなくてはならず、霧亥と顔を合わせることも多くなった。
「彼女さんとデートとかしなくて、いいの」
「そういうの、かったるい」
「なんのために付き合ってるんだか」
自分でもそう思う。断る理由がなかったからだ。とはいえ、こんなに面倒で後悔することが多いものだとわかっていれば、断ればよかったとすら思う。
せっかくの冬休みなんだから会いましょうよ、と彼女から何度も誘いが来る。三度に一度は忙しいからと断って、なんとかやり過ごしているうちに休みが終わった。
休み明けのキャンパスを歩いていると向こうから恋人の姿が見えて、やべえ、と思った霧亥は反射的に隠れようと背を屈めた。その瞬間、話しかけられた。
「羽鳥君」
見つかっちまった。
「今日、お昼一緒に食べましょ」
「ああ。じゃあ、学食で」
なんで俺、がっかりしてんだ。あの子、彼女なのに。
授業を受けている間も、気が乗らなかった。あーあー、もうすぐ昼飯の時間だ。気が重い。やだなあ。
運命を告げるかのように、鐘が鳴る。
「しけた顔して、どうしたの」
凜が聞いてきたが、答えられなかった。一緒に食堂まで行って、そこで別れた。
それを、恋人は見ていたようである。
「いつもあの子といるのね」
「あの子?」
「あの女の子」
「ああ、凛?」
「凛っていうの?」
恋人は身を乗り出した。
「下の名前で呼んでるの。私の名前は呼ばないのに」
「……それは」
「もうあの子と話さないで」
「なんだよそれ」
「会うのも禁止。金輪際やめて」
「そんなのはご免だね」
「なんですって?」
「俺の友人付き合いにまで口出ししてくる女なんて、願い下げだ。俺の友達は、俺のもんだ。誰のものでもない。誰と付き合うかは、俺が決める」
「――」
彼女は言葉が出ないようだったが、しばらくして立ち上がって、
「もういいわ。知らない」
と行ってしまった。
隣に座っていた学生が会話を聞いていたのか、じろじろと見てきた。
霧亥はうんざりして、窓の外に目をやった。
名も知らない冬の鳥が木の枝に留まっている。
まあいいさ。すっきりした。晴れて自由の身だ。
まだ寒い表からは、弱い太陽の光が差し込んでいた。
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