AKANE 01

 夏だ。


 日差しがギラギラと照りつけ、アスファルトからは揺らめく熱が立ち昇り、例年以上にうるさく感じられる蝉の声が暑さに拍車をかける。


 七月に入ってから、猛暑日が三週間近く続いているって朝のニュースでスーツ姿のキャスターが言っていた。



 昼過ぎに表周りをしている私は、とてもじゃないけどスーツなんか着てられない。

 自慢の長い髪でさえも、この時期は鬱陶しく感じることがある。


 腕まくりをしたブラウスから露出した肌からも、湯気が立ちそう。


 もはや"暑い"っていうより"熱い"。

 日焼け止め――しかも、かなり強めなヤツが必須だ。


 私は左手で額の汗を拭いながら、名刺より二回りくらい大きなクリアレッドのカードを地面にかざした。


 身体の動きに合わせて、頭の上の方でまとめたポニーテールが大きく揺れる。


「やっぱり、何も反応ないなぁ」

 念の為に、手にしたカード型の探知機 【Mサーチャー】を数カ所で起動させてみた。


 私の仕事の相棒【Mサーチャー】は、人間の身体や心が発する感情などの電気信号を計測して、その独特な電磁波を感知するシステムを備えた便利なハイテクアイテム。



 しかし、【Mサーチャー】は、ウンともスンともいわない。


 これだけやって、反応がないんだから……。

 私はガクッと肩を落とした。


「やっぱり、ガセネタだったんだ……」

 【Mサーチャー】の電源を切り、ブラウスの胸ポケットにしまう。



『この道を通ると、急に胸が痛くなり息苦しくなる』という市民からの通報が複数件あったため、只事ではないと思って調査に来たのに……。



「まぁ……何事もなかったと思えば、それはそれで良いんだろうけどさ」

 膝についた埃をはたいて、立ち上がりながら自分に言いきかせる。


 何気なく、通りの名前が書いてある街路標識を見た。


 [初恋通り]……。

 ずいぶんロマンチックな名前。


 ん?


 初恋……通り?

 初恋……胸が苦しくなる、息が詰まる。


 まさかね。


 いかんいかん。

 私まで、ロマンチックな考えになっちゃってるなぁ。

 思わず苦笑。



「お姉ちゃん、何してるの?」

 目の前に飛び込んできたのは、二人の女の子たち。


 お揃いの黄色い帽子が、ひよこみたいで可愛らしいな。


 彼女たちは大事そうに朝顔の鉢を抱えている。


 夏休み前の恒例行事。

 その小さな手が……小さな身体が、重そうな鉢をささえながら、まるで自分たちの夏を見守っているみたい。



(そっか、もう夏休みに入るのかぁ)


 中学、高校とバレーボール部で汗を流していたから、あまり夏休みの記憶はない。


 夏休みの思い出と言うと、やっぱり小学校の頃まで遡る。


 あの頃、私も同じように朝顔の鉢を抱えて帰宅した。

 任された命の重さを感じながら、太陽の下で汗を流し、友達と一緒の帰り道を笑いながら歩いたな。


 みんなの笑顔や無邪気な声、朝顔の鮮やかな紫色が、今も心に鮮明に焼きついている。



「ねえ?お姉ちゃん、何してるの?」

 同じことを尋ねてくるショートカットの女の子の声が、過去の思い出に浸っていた私を呼び戻した。


「ん?あ、ごめんごめん。ちょっと調べ物してるんだよ」

 私は彼女たちに視線を合わせるために、中腰になりながら答える。

 身長から見て、低学年だろうな。


「調べ物?お姉ちゃん、お巡りさんなの?」

 ピンク色のTシャツがよく似合う、もう一人の子の問いかけ。


 私はその質問に、一瞬戸惑う。


 ちょっと前なら「そうだよ」って答えられたんだけれど……今の私は【アシストエージェント】だ。


 警察組織のサポートメンバーとして、一定の発言権を持つことは許されているが、あくまでも補佐役。


「まぁ、そんなようなものかな」

 曖昧に言葉を濁す。


「ところで、みんなはいつも学校帰りにこの辺の道を通るの?」

 せっかくだから、聞き込み調査してみよ。


 二人は、ほぼ同時に元気よく頷いた。


「このあたりで、急に気分が悪くなったりしたことない?」

 お互いに顔を見合わせて、首を傾げる。

「ないよぉ」

 ピンクのTシャツの子の返答に、ショートカットの子も頷く。


「そっかぁ……うん、ありがと。じゃあ、寄り道しないで気をつけて帰ってね」

 私がお礼を言うと、二人は飛び跳ねるように元気よく帰路についた。


 その後ろ姿を見つめながら、小さく微笑む。


 熱い日差しの中で、幼かった頃の自分の姿と重なり、目の前の光景が遠い昔の夏の日々と繋がるように感じたから……。




 路肩に停めたライトバンに戻ると、バッグから自前の水筒を取り出して軽く振る。


「ラッキー!まだ、氷溶けてない」

 私は水色の保冷水筒のフタを開けると、残っていた冷水を一気に流し込んだ。


 警察にいた頃は、制服姿で水分補給をしていただけで、それを見た市民から『警官がサボっている』なんて職場に連絡が入りお目玉を喰らったなぁ。


 警察から離れた今は、そんなことを気にしないでいいから助かるよ。



 喉を潤した私は、調査の結果を上司に報告するため仕事用の【ヴァーチュタッチ】を取り出した。


【警視庁捜査課分室 特定未解明事件専従調査班】……通称【未専班】班長 辻峰良介。


 それが私の上司の名前。


 班とは言っても、スタッフは私と辻峰さんの二人だけ。


 あっ!

 あと一人、非常勤の経理担当の人がいるらしい。


 いるらしいんだけど……警察から【未専班】に移動してきてから、もう四ヶ月くらい過ぎたけど、たまたま私の休暇の時に出勤してきているみたいで、まだお会いしたことはない。



 仕事用の【ヴァーチュタッチ】を通話モードにして事務所にかける。

『はい。【未専班】担当の辻峰です』

 ちょっと眠たそうな声。

 でも、これが通常の会話のトーンであることは承知の上。

「紅林です。お疲れ様です」

『あぁ。暑い中、お疲れ様』



 私は調査の結果、私たち【未専班】の関わるような案件でないことを伝えた。


『そうか。わかりました。この案件で、病院に運ばれたりしている人はいないから、俺の方で他の部署に連絡して引き継いでおくよ』

 信用されているのか、そもそもあまり部下を疑わないのか……辻峰さんの返答はいつも簡潔だ。


「では、帰って報告書を……」

『報告書は明日以降で良いよ。それより……』

 私が言うよりも先回りして、辻峰さんはこう続けた。


『なんか気になる通報があったんだろ?そっちの調査に向かって良いよ』


 私はハッと息を呑んだ。

 この通報のことは、まだ辻峰さんに報告していなかったのに……。



 そう、事務所のポストに入っていた一通の封書……何故だかそれがすごく気になっていたんだ。


 可愛いウサギのキャラクターが描かれたレターセット。


 そこには子供らしいけれど、丁寧な文字で『友達と私を助けてください。十五時頃ならいつでもいます』と記されていた。


 内容はまるっきり書かれていない。

 でも……それが余計に気になって、つい持ってきてしまった。


 私は無意識にポーチから封筒を取り出した。


 封筒の裏に書かれた住所は【未専班】の事務所のすぐ近く。

 名前は……枕崎七海。

 文字の感じから察するに、小学生くらいの女の子だと思う。



「でも、事件性があるかどうかもわかりませんし……ただの子供のイタズラかもしれません」

 少ししどろもどろになる私。


『でも、君は……紅林さんはそうは思わなかったんだろう?』

 スピーカー越しの辻峰さんの声は優しい。


 シートに座った私は話を聞きながら、エンジンをかけてエアコンを[強]にした。



『そろそろわかってきたと思うけど、俺たちの仕事は警察の捜査と違って、絶対と断言できる事例や証拠は少ないんだ』

 辻峰さんが言葉を選びながら話しているのが、よくわかる。



 そうなのだ。


 強い思いを残して亡くなった人間の[感情]と言う名の電気信号は、その人にとって関係性の深い場所に特殊な電磁波の乱れを残すことがある。

 それによって、一般人には理解できない事件や事例……そして、トラブルを起こす存在が発生する場合があるの。


 それを調査するのが私たち【未専班】……通称【グレイハウンド】の仕事。


 数ヶ月前まで、まさか自分がこんな不可思議な仕事に就くなんて思ってもみなかったよ。



『思ったことを、そのまま行動に移す勇気を持ってごらん。自分の直感を信じてみると、意外と良い結果が出るかもしれないよ』

 その辻峰さんの声は柔らかく、かつ私を励ますような優しさに溢れていた。



「はい、ありがとうございます!車を駐車場に戻したら、行ってみます」

『俺は今日一日、事務所にいるから、何かあれば遠慮なく連絡ください』


 一言お礼を言って【ヴァーチュタッチ】の電源を切った私は、一路、事務所裏の駐車場に向かった。




 私たち【未専班】のスタッフ移動用のライトバンを駐車場に停めて腕時計を確認する。


 時刻は十四時半を少し回ったところ。

 一日で一番暑い時間帯だ。

 いつまでも涼しい車内にいたいところなんだけど……気合いを入れて車から降りた。


 車内のクーラーで冷やされた体に、再び熱波が襲いかかってくる。



 つ……辛い。



 私は歩きながら、【ヴァーチュタッチ】のナビモードに、便箋の裏に書かれていた住所を入力した。


 歩いて一〇分もかからない場所に目的地表示が付く。



 何度かお茶を買ったことのあるコンビニの前を通り過ぎ、歯を擬人化した大きなマスコットキャラが立っている歯医者さんの角を曲がった。


 目的地表示は、ここから一〇〇メートルくらい直進した先を指している。


 あれ?このまま行ったら……。



「やっぱりだ」

 ナビが示している建物は、煉瓦造りのオシャレな外壁と、いつもピカピカに磨かれている大きな窓ガラスが印象的な喫茶店。


 確か名前は……。

 私は入り口に立っている看板を見た。


「そうそう[Blue Ocean]だ」

 私も何回か昼食を食べにきたことがある、ポテトグラタンとクラブハウスサンドが絶品な喫茶店。


 私は看板を見つめたまま、少し首を傾げた。


 大人が待ち合わせ場所に喫茶店を使うっていうのは別に珍しくない。

 むしろ、喫茶店の持つ役割の一つなんじゃないかと思う。



 だけど……。

 今、訪ねてきた相手は、多分小学生もしくは中学生くらいの女の子。

 どちらにしても、待ち合わせ場所に喫茶店を選ぶとは思えないんだけど……。


「住所、入れ間違えちゃったかしら?」

 封筒を取り出して確認。

 間違ってないなぁ。


 もしかして、保護者同伴でこの喫茶店にいるとか?

 うん、考えられないことじゃないな。



カランカラン……。


 ドアベルが響く。

 こんな時間にこのお店に来るの初めてだ。


「いらっしゃい」

 カウンターの中で洗い物をしていた女性が目を上げた。

 照明に照らされて緑がかった髪が揺れる。

 スポーティに切り揃えられたショートカット。スラっとした長身の彼女が、多分、このお店のオーナーなんだろう。


 って言うか、彼女以外のスタッフを見たことがない。


 年齢は、私より少し上くらいかな?



「あれっ?珍しい時間に来たねぇ。ごめんなさい、ランチはもう終わってるんだ」

 私のことを覚えていてくれていたみたい。


 さりげなく周りを見回してみる。

 時間帯のせいか、お店の中にお客さんの姿はない。



「こっちの席でいい?」

 彼女は、キンキンに冷えた冷水とおしぼり。そして今時珍しい、バインダーに入った紙製のメニューを窓際の席に置いた。



 しまった!

 今の私はお客さんじゃないと伝える間もなく、トントン拍子に話が進んでいく。



「お昼まだ?簡単なものでよければ、作れるけれど?」

 押し付けがましくない親切心が嬉しい。


「あ……ありがと。でも、お昼はすんでるから大丈夫」

 嬉しいんだけど……そのペースに流されてしまった。



 まぁ、いいか。

 住所が間違っていない以上、もうちょっと待ってみよう。


 そうと決まれば、飲み物でも頼もうかな。

 私は品のいい木製の椅子に座りながら、メニューのバインダーに手を伸ばした。



 以前、「机にタッチパネル式のメニューもあるのに、なんで紙のメニューを使うのか」と聞いたことあるけど、これがこのお店のこだわりらしい。


 メニューを渡した時に、会話とかのコミニュケーションを取れるのが好きだって言ってたな。



「生オレンジジュースもらえますか?」

 だから、私もあえてタッチパネルを使わず直接注文する。

「氷は入れる?」

 その問いかけに、私は頭を横に振った。

 せっかくの生搾りだから、濃いままでいただこう。



 おしぼりで指先を拭いている間に、グラスが置かれる。

「もしかして、待ち合わせかなんか?」


 う〜ん。

 今の状況って、待ち合わせって言って良いのかな?


「そうなんだけど……」

 私は曖昧に答えながら、腕時計をチラッと見た。


 十四時五〇分。


 この封書をくれた子に心当たりがないか、聞いてみようかな。


「あの……」


カランカラン……。


「たっだいまぁ!」

 私の言葉をさえぎるように、ドアベルが鳴り響き元気な声が飛び込んでくる。


「ナナミっ!お店から入ってくるなって言ってるでしょ!裏から帰ってきなさいっ!」

 ショートカットの店長さんが怒鳴った。


 ん?

 今、ナナミって言った?


「固いこと言いっこなしだよ、ナギ姉」

 ナナミって呼ばれた女の子がランドセルを下ろしながら言う。

「どうせ、この時間はお客さんなんかいないんだからさ」

 そこで、私とナナミちゃんの目が合った。


「あ……お客さん、いた」

「あ――ども」

 私は無意識に頭を下げてしまった。


 大きなロゴが可愛い肩あきの黒いTシャツに、ベルト付きのおしゃれなベージュのショートパンツ。

 バックのリボンがアクセントになったコットンキャップ。


 なるほど、最近の小学生の流行りはこんな感じなのね。



「ナナミ、ちゃんと挨拶しなさい」

「はぁい、こんにちはぁ」

 ナナミちゃんが帽子を取ると、長いサラサラの髪が溢れた。


「妹なの」

 その言葉に私は小さく頷く。


 うん、見ればわかる。お姉さんをそのまま小学生にしたような顔立ちだもん。

 髪を短くしたら、瓜二つ。


「そう言えば、私もまだ名前を言ってなかったよね。この店の店長の枕崎渚。で、こっちが……」

「枕崎七海です。七つの海って書いてナナミ」

 あ、やっぱりこの子が。


「【未専班】の紅林茜です。七海ちゃん、ポストにお手紙くれたよね?」

 私は封筒と名刺を取り出しながら、自己紹介した。


「【未専班】?」

 姉妹二人が顔を見合わせる。

 やっぱり通じにくいか。


「えっと……【グレイハウンド】って言った方がわかりやすいかな?」

 私は一瞬だけ悩んでから言い直した。


 この通称はあまり良い意味で使われないんだけど、どちらかと言うとこっちの方が有名なんだよね。


「えっ?お客さんって【グレイハウンド】の人だったんだ」

 お姉さん……渚さんが呟きながら、私をジロジロ見まわす。

 やっぱり、こっちの名前の方がわかりやすかったかぁ。



 【グレイハウンド】って言うのは[悪霊や心霊などという超常的なモノに取り憑かれて悪事を働く、本来なら罪のない民間人。

 つまり白でも黒でもないグレーな存在を追いかけ回す猟犬]という意味で、警察内部の口の悪い連中が私たち【特定未解明事件専従調査班】を揶揄して呼び始めた通称だったんだけど、現在では[心霊や悪霊を追いかけ回す]って言う部分だけが残り、由来を知らない一般の人も呼び名として使っている。



「え?じゃあ、あの妖怪ポストって【グレイハウンド】の物なの?」

 明らかに落胆した様子で七海ちゃんが言った。


 彼女が今、口にした妖怪ポスト(これも悪意のあるあだ名なんだけど……)っていうのは、ウチの事務所に設置されているいわゆる目安箱のこと。


 一般の人が【未専班】に関係がありそうな不可思議な現象について報告・相談するために投書してくれるんだけど、そのほとんどはガセやイタズラ、思いちがいばかり。



「じゃあ、悪霊絡みじゃない七海の頼みは解決出来ないね」

 渚さんは、落ち込んでる妹の頭を優しく撫でながら言った。


「ち……ちょっと待って。みんな勘違いしているんだけど、私たちは不思議な現象とかを調査するチームなんだ」

 私は慌てて否定した。


「不思議な現象?」

 大きな瞳をウルウルさせた七海ちゃんが尋ねてくる。

「そう。みんなが"不思議だな"とか"おかしいなぁ"って感じることを調査して原因を究明。そうして安心してもらうのが私たちの仕事なの。別に悪霊退治の専門家とかじゃないのよ」



「まぁ、七海の悩みも不思議って言えば不思議な現象だなぁ」

 トレイを抱えたまま渚さんが呟く。

「だったら、もしかしたら力になれるかもしれないから、良かったら話してみてよ」

 私の言葉を聞いて、七海ちゃんは少し困ったように姉を見上げる。

 渚さんは優しい目で頷いた。

 すごく仲の良い姉妹なんだなぁ。

 私、一人っ子だからちょっと羨ましい。


「えっと……入院している友達が、花が咲かなくて……火事で……」

 混乱して上手く説明出来ないみたい。


 こんな時、辻峰さんなら落ち着かせてちゃんと話を聞いてあげることが出来るのかもしれない。



「ナギ姉〜。説明してぇ」

 助けを求める七海ちゃんに対して、頭を横に振る渚さん。

「ダメ。自分のことは自分でなんとかしなさい」

 ピシャリと言われた七海ちゃんが、口をとがらせる。

「じゃあ一緒に来てっ!直接見てっ!」

 七海ちゃんは、座っている私の手を取った。

「えっ?別にいいけど……」


「七海。出かけるなら、ランドセルは部屋に戻しなさいね」

「わかってますよ〜だっ!ちょっと待っててね、帰っちゃヤダよっ」

 ランドセルを掴んだ七海ちゃんの小さな身体は、弾丸のように駆け出して母屋に続くであろうドアの向こうへと消えた。



「まったく……誰に似たんだか」

 渚さんが肩をすくめる。


 見た目だけなら、お姉さんである渚さんにそっくりだけど……。

 そう感じながら、私は小さく笑う。


「やっぱり、私一人で育てているからかなぁ」

 彼女は少し切ない声で言った。

「え?」

 問い返すと、渚さんは一瞬"しまった"という表情を見せる。


 聞こえなかったふりした方がいいのかな?



「ごめんね。うちの両親さ、六年くらい前に火事で死んじゃったんだ……」

 いつもはつらつとしている渚さんが、ポツリと呟く。

「そう……なんだ」



 渚さんの話によると、六年前、ご両親は火事で亡くなられたという。

 死因は、一酸化炭素中毒。

 火事そのものは幸いボヤ程度で済んだものの、有毒な煙が二人の命を奪ったらしい。


 渚さんはその時、学校に行っていて、火災現場には、ご両親とまだ幼かった七海ちゃんがいたという。


「その時、七海はまだ小さかったから、両親のことや火事のことはあまり覚えていないみたいなんだ」

「……亡くなられた場所、ここだったの?」

 渚さんは小さく頭を横に振った。

「火事になったのは、以前、父が店長をしていた別のカフェよ」


 出火元は食材を保管している倉庫で、普段火の気はなかったらしい。


 だったら、どうして……?



「この街、私たちの両親の生まれ故郷なの」

 陽当たりの良い、ピカピカに磨かれた大きな窓の外を見つめて渚さんが語り始めた。


「父は"いつか自分たちの故郷で喫茶店を経営したい"って夢を持っていたらしくてさ」


 私は無言のまま、彼女の整った横顔……小さく動く口元を見つめている。

 彼女が口籠もる度に、細やかな音量で流れている有線放送が聞こえてきた。


「夫婦二人で一生懸命働いてお金を貯めて、ここのお店の建築にやっと着手出来たんだけど、完成を見る前に……」



 店内に小さく流れるクラッシックのピアノの旋律は、柔らかく幻想的な響きで、切なくも美しい情景を描き出している。



「お客さんがいない時間帯だったし、七海は母屋にいて無事だったのが不幸中の幸いだったけどね」

 無理に明るく声を張り、笑顔を浮かべる姿が余計に痛々しいよ。

「渚さん……」



「二人の残してくれた遺産と、このお店があるから生活には困ってないんだけどさ……」

 渚さんは少し控えめに言葉を漏らした。

 その声には、どこか遠くを見つめるような寂しさが含まれている。


 テーブルの上のグラスを手に取り、わずかに残っていたオレンジジュースを飲み干しながら渚さんが続けるのを待つ。



 彼女は一瞬ためらった後、再び口を開いた。

「私さ……けっこう男っぽいから、母親代わりにちゃんと育てられているか、時々不安になるんだよね」

 心の奥にずっと抱えていた不安を吐露するようなか細い言葉。


 私は渚さんの言葉に耳を傾けながら、心の中で先程の二人の様子を思い浮かべる。


「七海ちゃん、すごく良い子に育っているじゃないですか」

 私は彼女の切長の目を見つめながら、思ったままのことを言葉にする。

「さっきの二人の様子を見る限り、素敵な関係だと感じたけど?」


 渚さんは驚いたように一瞬私の顔を見て、少し戸惑ったような表情を見せた。


 もしかして、失礼なこと言っちゃったかな?

 私は彼女の顔をじっと見つめ、その瞳の奥に隠された思いを感じ取ろうとした。



「そうかな?」

 渚さんの声は少し上擦っている。


「うん……差し出がましいことをいうようだけど、七海ちゃんにとってお母さんは亡くなられたお母さんしかいないんだから、母親代わりになんてならなくても、今のまま"素敵なお姉さん"で接すれば良いんじゃないかな」

 私は言葉を選びながら伝えた。



 お店の中を少し長い沈黙が包む。

 流れるクラッシックは、静かで落ち着いた曲調に変わっていた。

 未来への穏やかな期待が感じられる曲……これは知っている。

 確かバッハの[G線上のアリア]だ。



「そうか……そうかもね…」

 囁くような渚さんの言葉に、少し力が戻る。


「ありがとう。そう言ってもらえると、なんか少し肩の荷が降りた気がするよ。」

 見つめ返してくる渚さんが浮かべたほのかな微笑みに、感謝の気持ちがこもっていることが伝わってきた。


 良かった……。



「おまたせっ!」

 静かな店内に元気な声を響かせて、七海ちゃんが戻ってきた。

 一瞬、お互いを見つめてから、小さく微笑み合う私と渚さん。



「ごめんね、変な話しちゃって。こんなこと考えていたってこと……七海には内緒にしてね」

 耳打ちする彼女の言葉に、私は小さく頷いた。


 ポーチを手に取って立ち上がる。

 渚さんの手が空いたグラスを取り、トレイに乗せた。


「オレンジジュース、いくらだっけ?」

 カウンターに戻る渚さんの後を追いながら、私は財布を取り出しながら尋ねる。


「私の奢り。相談に乗ってくれたお礼よ」

 振り返りながら小さくイタズラっぽいウインク。

「そんな、悪いよ」

 私の意見が、あまり役に立ったとも思えないのに……。

 でも、渚さんは小さく手をパタパタさせて笑顔を見せた。

「それより七海の面倒、よろしくね」

 私も笑い返して力強く頷きかえす。


 力になれることならいいけど。



「熱中症にならないように、ちゃんと帽子かぶりなさいね」

「わかってるよ。ナギ姉も、火の始末ちゃんとやってね!」

「大丈夫、わかってるよ」

「絶対、絶対だよ!火事は怖いんだからっ!」

 渚さんは、あまり記憶にないみたいって言っていたけど……やっぱり、七海ちゃんは無意識のうちに火事を極端に怖がっているみたい。


 火の用心をすることは大事なことだけど、トラウマになっているんだとしたら可哀想だな。



「さ、行こ!えっと……紅林さんっ!」

「茜でいいよ」

「じゃあ、茜お姉ちゃん!」

 屈託ない笑顔。


 お姉ちゃんかぁ。

 なんか、一人っ子の私にも可愛い妹が出来たみたいで嬉しいぞ。


 ついつい、私の顔にも微笑みが溢れた。


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