グレイハウンド2[秋街ソレイユ]

手鷹緋色

プロローグ

[魔の十一分間]と呼ばれる時間がある。


 航空機の運用において最も危険な時間帯、離陸直後の三分間と着陸直前の八分間の時間帯が相当するのだが、世界の航空機事故のうち実に約七〇%が、その時間に発生している。



 今まさに着陸態勢に入った【ニューアーク国際空港発成田空港着UA79便】の機上にて、その男は、仕事仲間から聞いたそんな話を思い出した。


「……とは言え、落ちる時は落ちるし、落ちない時は落ちないからな」

 関係者が聞いたら、顔を顰めるような独り言を呟きながら腕時計に目をやる。


 十七時五〇分。

 ほぼ予定通り十三時間のフライトだ。



 ドゥッ。

 軽い衝撃があり、UA79便は日本の大地を踏みしめた。



 到着ゲート、入国審査エリアを通り過ぎた彼は、荷物受取エリアを横目に出口に向かう。


 その手には、機内に持ち込んでいたのであろう片手で持てるブリーフケースのみ。

 旅行者特有の大きな荷物はない。


 平均より少し高い身長を仕立てのいいカーキのサマージャケットで包み、同色のスラックスを身につけている。

 茶色がかったクセのある髪は、あちらこちらに向かって跳ね上がっているが、不思議とだらしなさは感じさせない。

 ややつり目のダークブラウンの瞳は、どこか遠くを見つめている。



 ターミナルビルを出た途端、今日という日を締めくくる最後の名残りの太陽光が彼に照りつけた。


「……あっちぃなぁ」

 男は忌々しげに呟くと、沈みかけている夕陽を睨みつける。


 睨んだところで、この暑さの元凶であったであろう夕陽は素知らぬ顔だ。


「成田の方が、マンハッタンより涼しいことを期待していたのにな」

 長めの髪を掻きむしると、指先に汗の感触。

 男は整った顔を鬱陶しそうに歪めた。


 そもそも日本が夏の時期、マンハッタンも同じく夏の季節だ。

 都市部では建物やアスファルトが熱を蓄えやすいため、日本の都市部と同様に暑さを感じることが多い。



 彼は、胸ポケットから移動用携帯端末【ヴァーチュタッチ】を取り出す。



 【ヴァーチュタッチ】――高性能で直感的な操作が可能なブック型の端末で、情報の閲覧やコミュニケーションなど様々な機能を備えた画期的で便利なツールだ。


 子供から社会人、ひいては高齢者まで日本人口の約八割が保有し、世界各国では六割以上の人々の間で流通している。


 その異常なまでの販売台数の多さを容易に呑み込めないで『何者かの悪しき計画によるものだ』と事実を曲解する、いわゆる陰謀論者も存在するくらいだ。



 しなやかながらも力強さを秘めた指先が画面をタップして、携帯電話モードに切り替える。

 彼の【ヴァーチュタッチ】は少し小さめなサイズだ。


 画面表示には"アキラ"と書かれている。



「ああ、晶。今、大丈夫か?」

 ツーコール目に相手が出た。


「うん。今、成田に着いたよ」

 話しながら周りを見回す。

 彼と同じ便に乗ってきたのであろう無数の人々が、次々とタクシーに乗り込んでいく。


「そうだな。かれこれ二年ぶりだけど、あんまりこの辺の景色は変わらないな」

 周囲に人影がなくなったのを確認し、彼は【ヴァーチュタッチ】の電話をスピーカーモードに切り替える。


「それ以降、状況はどうよ?」

 なんの話をしているのだろうか?

 軽い口調だが、目は笑っていない。



『この前、電話で話した通りよ。――使えそうな被験者は一人だけ』

 スピーカーから流れてくるのは、年若い女性の声。


 被験者という言葉が会話の中に出てきたということは、彼もしくは電話の相手の女性は医療関係者か、なんらかの研究者なのであろうか。



「そっか……もっと精度を上げるために、研究材料が必要なんだろ?なら彼女を使おう」

 スピーカーモードを起動させたままの【ヴァーチュタッチ】をジャケットの腰ポケットに入れた彼は、辺りを見回した。


 彼の目線の先には、数台並んだ自動販売機が客待ち顔で佇んでいる。


 大きめのそのサイズからして、冷却庫室で発生した熱を回収し、加温庫室で有効活用するシステムを搭載することで省エネに寄与していることがウリの、いわゆる"ヒートポンプ式自動販売機"だろう。


(しかし、なんでこの国はこんなに自販機が多いんだろうな。みんな、そんなに喉が渇いているのかね?)

 男は少し悩むそぶりを見せてから、赤色の自販機に向かった。


(そう言えば二年前、空港に向かうタクシーの中で、何台の自販機を見かけるかカウントしたな……。すぐに飽きちゃったけど、確か二〇分くらいの間で……)


 自販機にカードをタッチし、無糖のコーヒーのボタンを押す。



『十二よ』

「十二?確か十八台じゃなかったか?」

 二人の間に沈黙が訪れる。


『何の話?』

「何って自販機の――あぁ、すまない。何でもない」

 会話と全然関係ないことを思い出していた彼は、誤魔化すように言った。


 スピーカーの向こうから、晶と呼ばれた女性の呆れるような嘆息が聞こえる。

 だが、怒りの感情は感じられない。

 "話しながらも、心ここに在らず"というこの男の態度には慣れっこのようだ。



『唯一の被験対象者の年齢。十二歳よ』

晶は再度、確認するように言った。


「ちょっと若すぎる気がするけど仕方ない」

 男はどこか力なく呟いた後で、キンキンに冷えた缶コーヒーのステイオンタブを引き開けると口をつけた。


 あたりを香ばしい薫りが包む。

 ――が、その芳香は焼けたようなアスファルトの臭いと混じり合い、すぐに消えてしまった。



『若すぎるっていうか、まだ子供よ?』

 ポケットの中に入っているためか、女性の声はすこしくぐもって聞こえる。


『恋次……本当にいいの?』

 その問いかけるような言葉は批難なのか、それとも……。



「いまさらだな」

 恋次と呼ばれた男は、力なく……だが断言するように続けた。

「許されないことをしようとしていることは重々承知の上だよ」



「もう後戻りはできないし……止めるつもりもないよ」

 恋次は残っていたコーヒーを飲み干すと、空になったスチール製の缶を握りしめた。



 そろそろ、周囲のタクシー待ちの客達もまばらになっている。



 自販機の横に設置されているリサイクルボックスに空き缶を投げ込むと、恋次は軽く右手を上げながら車道の方に歩み寄っていく。


 それに気がついた一台の空車表示のタクシーが、ハザードランプを灯しながら忠犬のような足取りでフラフラと近づいてきた。



「これから一〇日間ばっかし日本で野暮用があるから、ソイツが終わったら、俺の方でも計画の準備をおっぱじめるよ」

 わざとらしく、少し明るい口調で恋次は言った。


『…………』

ゴォォォォォォォォォッ!


 答える彼女の呟きは、恋次の背後を飛び立つ航空機の轟音にかき消された。

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