第3話:騎士の誓い
時計の秒針が刻む音だけが、やけに大きく生徒会室に響いている。 昨日の嵐が嘘のように片付けられた室内で、生徒会長・詩織は一人、落ち着かない様子でドアと時計を交互に見つめていた。
(…本当に、来てくれるかしら)
昨夜は、ほとんど眠れなかった。 後輩に、あれほどみっともない泣き顔を晒してしまった。家の恥まで知られてしまった。 生徒会長として、年長者として、完璧でなければならない自分が、取り乱してしまったことへの羞恥心。
しかし、それ以上に。 記憶に焼き付いて離れないのは、胸の中で声を上げて泣いた、あの瞬間の不思議なほどの安心感だった。
冷え切った身体に染み渡るような、怜さんの温かさ。 大丈夫だ、と繰り返すように背中を撫でてくれた、大きな手。 そして、「また明日、様子を見に来ますから」という、あの優しい声。
あれは、社交辞令だったのではないか。 泣きじゃくる先輩をその場限りで慰めた、彼女の「王子様」としての優しさだったのではないか。 もし今日、彼女が来なかったら。 あの温もりを、ただの気まぐれだと突きつけられたら。 そう思うと、胸がチリチリと焦げるような不安に襲われる。
会いたい。 でも、会ったら、どんな顔をすればいいのか分からない。 生徒会長として毅然と振る舞わねば。でも、もしまた優しくされたら、昨日みたいに泣いてしまうかもしれない。 詩織が、その相反する感情の中で唇を噛み締めた、その時だった。
コン、コン。
控えめなノックの音。
「―――っ!」
詩織の肩が、ビクリと跳ねた。
「失礼します。様子を見に来ましたよ、詩織先輩」
ガチャリ、とドアが開き昨日と寸分違わぬ、完璧な笑顔を浮かべた怜が立っていた。 紺色のウルフカットが、西日を浴びて艶やかに光っている。
「れ、怜さん…!」
来てくれた。 その安堵感で、思わず立ち上がりそうになるのを、詩織は必死に堪えた。
「ええ…待っていたわ。どうぞ、入って」
なんとか平静を装い、生徒会長としての笑みを取り繕う。声が上ずっていないか、それだけが心配だった。
「お邪魔します」
怜は、私の緊張など意にも介さない様子で、ゆったりとした足取りで部屋に入ってきた。 そして、私の顔をじっと見つめる。
「先輩、顔色、昨日より良さそうですね。ちゃんと眠れました?」
「え、ええ。おかげさまで…」
「よかった」
その自然な気遣いに、私の心の鎧がまた一枚、音もなく剥がされていく。 怜は、そのまま部屋をぐるりと見渡すと、当たり前のように給湯スペースへと向かった。
「あの、怜さん? お茶なら私が…」
「いいですよ。僕、美味しい紅茶を淹れるの、得意なんですよ。先輩は、座って待っててください」
手際良くポットに水を入れ、火にかける。棚からティーカップと茶葉を取り出すその動きには、一切の迷いがない。
詩織は、そのテキパキとした後輩の背中を、ただ呆然と眺めていた。
(本当に、後輩、なのよね…?)
昨日今日で入ったばかりの生徒会室で、なぜあんなにも堂々としていられるのか。その佇まいは、まるでこの部屋の主のようだった。
やがて、芳醇なダージリンの香りが、部屋にふわりと漂い始めた。
「どうぞ。熱いので、気をつけて」
怜は、湯気の立つティーカップを二つ、ローテーブルに置いた。
「さあ、座ってください」
怜がソファを勧める。詩織が恐る恐るその端に腰掛けると、怜はテーブルを挟んだ向かい側ではなく、ごく自然に詩織のすぐ隣に腰を下ろした。
「――っ!?」
すぐ間近に感じる、怜の体温と、石鹸の匂い。 近すぎる距離に、詩織の身体がビシリと硬直する。心臓が、痛いほどに跳ね上がった。
「…? どうかしましたか、先輩」
「い、いえ…なんでもないわ」
動揺を隠すように、詩織は慌てて紅茶に口をつけた。
「…美味しい…」
驚きだった。適当に淹れたものではない、専門店で出されるような、深く香り高い味わい。 張り詰めていた心が、その温かさでふわりと解けていくのが分かった。
「それはよかった」
怜は、私がリラックスしたのを見計らったように、静かに本題に入った。 その声は、先ほどまでの「王子様」とは違う、どこか達観した静かな響きをしていた。
「御子柴先輩のこと、大変ですね」
「え…」
「家のための政略結婚なんて…そんなものに縛られていたら、先輩自身の心が、死んでしまいますよ」
核心。「心が、死んでしまう」。 その通りだった。もう、ずっと前から詩織の心は死にかけていた。家の道具として、完璧な生徒会長を演じることに、すべてをすり減らしてきた。
「どうして…あなたが、それを…」
声が震える。
「見ていれば分かります」
怜は、まっすぐに私の瞳を見つめてくる。その青い瞳は、すべてを見透かしているようだった。
「先輩は、いつも『完璧な詩織』を演じている。でも、その仮面の下で、ずっと苦しんでいる」
その言葉に、もう何も言い返せなかった。 俯くと、昨日あれだけ泣いたはずなのに、また視界が滲み始める。 ダメだ、また泣いてしまう。
後輩の前で、これ以上みっともない姿を――。
私が唇を強く噛み締めた、その時。 震える私の左手を、温かいものが包み込んだ。
「…!」
見ると、怜が手の上から、彼女の大きな手を重ねて、優しく握りしめていた。
「一人で抱え込まないでください」
力強い指先。伝わってくる確かな体温。 それは、昨日私を抱きしめた、あの温かさだった。
「怜、さん…」
「昨日も言いましたよね。荷物は、二人で持った方が軽いんです。…僕に、分けてください」
その温かさと、言葉についに心の堰が切れた。 昨日のは、ただのパニックだった。 でも、今は違う。この人は、苦しみを、孤独を、本当に理解してくれている。 その確信が、最後のプライドを溶かしてしまった。
「……御子柴くんは、いつもそうなの」
ポツリ、と。自分でも驚くほど、素直な言葉が漏れた。
「私が家の道具だって、知ってるから…。私が、絶対に逆らえないって、分かってるから…」
握られた手を通じて、怜に熱が流れ込んでいくように、私の口からは次々と愚痴が溢れ出した。
「誰も、助けてくれない。父も母も、家のことばかり。私が殴られても、我慢しろって…。学校の友達も、先生も、みんな私を『完璧な生徒会長』としてしか見てない…! 本当の私なんて、誰も…っ」
私は、泣いていた。 でも、昨日のような激しい嗚咽ではない。 ただ、静かにぽろぽろと涙をこぼしながら、幼い子供が親に甘えるように、溜め込んでいたすべてを吐き出していた。
怜は、何も言わなかった。 ただ、私の言葉を一つ一つ、うん、うんと、優しく相槌を打ちながら聞いてくれる。 握られた手の力が、時折、ぎゅっと強くなる。それが、「ちゃんと聞いているよ」という合図のようで、私はさらに安心して、すべてを話すことができた。
気づけば、一時間が経過していた。 あれだけ胸に詰まっていた黒い澱(おり)のような感情が、すっかり洗い流されたように、心が軽くなっている。
「…ありがとう、怜さん」
私は、まだ少し赤くなった目元のまま、心からの笑顔を彼女に向けた。
「あなたと話していると、本当に、楽になるわ。…こんなこと、初めて」
「それは、よかったです」
怜は、ようやく私の手を解放すると、満足そうに微笑み、立ち上がった。
「いつでも聞きますから。先輩が、その仮面を外したくなった時は」
「…ええ」
名残惜しい。もう、帰ってしまう。 私が、そんな子供じみた感傷に浸っていると、怜は私の前に再び膝をついた。 そして。
「――先輩」
怜は、私がテーブルの上に置いたままだった右手を、そっと取った。
「え…?」
次の瞬間。 その甲に、柔らかく、温かいものが触れた。
「―――っ!?」
唇。
怜が、私の手に、キスをした。
まるで、中世の物語に出てくる騎士が、姫君に忠誠を誓うかのように。
時間が、止まった。 触れた場所から、電流のような熱が全身を駆け巡り、顔が一気に沸騰する。私が、声も出せずに固まっていると、怜はゆっくりと顔を上げ、私が今まで見たこともないほど、完璧で甘い笑顔を向けた。
「じゃあ、また明日も、来ますね」
それだけを言い残し、怜は今度こそ生徒会室を去っていった。
カタン、とドアが閉まる音で、私は我に返る。
一人残された生徒会室。 私は、キスされた右手の甲を、もう片方の手で押さえる。 まだ、怜の唇の感触が、熱が生々しく残っている。
「……………っ」
私は、その場に崩れ落ちるように、ソファに深く沈み込んだ。 頬が熱い。心臓が、うるさくてたまらない。
昨日殴られた頬の痛みは、もう、どこか遠い世界の出来事のようだった。
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