第2話:秘密の共有者
「――大丈夫ですか、詩織先輩」
静まり返った生徒会室に、僕の声が響く。 その声は、この部屋の主にとっては雷鳴よりも衝撃的だっただろう。
「―――っ!?」
机に突っ伏していた黒髪が、弾かれたように跳ね上がる。 そこに現れたのは、僕の知っている「完璧な生徒会長」の姿ではなかった。
涙でぐちゃぐちゃに濡れた瞳が、信じられないものを見るかのように僕を捉え、大きく見開かれている。いつもは血の気のない、陶器のように白い頬は、片方だけが痛々しく赤く腫れ上がりそこを伝う涙の筋が妙に生々しい。
「れ、怜さん……?」
彼女の唇が、か細く僕の名前を紡ぐ。
どうして、という驚愕。
見られた、という絶望。
そして、学園の誰にも見せてはいけない姿を、後輩に見られてしまったという、強烈な羞恥。 あらゆる感情がその美しい顔の上で渦を巻き、彼女は激しく動揺していた。
「あ、あの、今のは…その…」
詩織は、慌てて制服の袖で乱暴に目元を拭う。だが、一度溢れ出した涙は、そう簡単には止まってくれない。
「ち、違うの、これは…っ、目にゴミが……」
あまりにも見え透いた嘘。 完璧な彼女が、今、必死に平静を取り繕おうと、壊れた人形のように言葉を探している。
「それに、さっきのは…御子柴くんと、意見が少し食い違って…そう、それで、ついカッとなってしまって…!」
散らかった机の上。倒れた椅子。そして、彼女の赤い頬。 それらが何より雄弁に、ここで何が起こったかを物語っている。
僕は彼女の痛々しい言い訳を、あえて遮った。 黙って一歩、部屋に足を踏み入れる。
「怜さん、あの…!」
僕の視線から逃れるように顔を伏せようとする彼女の前に立ち、その濡れた瞳をまっすぐに見つめ返した。 嘘も、取り繕う言葉も、もう必要ない。
「全部、見ました」
静かに、しかしはっきりと告げる。 詩織の肩が、凍り付いたかのように硬直した。
「御子柴先輩が、あなたを殴ったところも。その前に、あなたを『道具』だと、罵倒していた声も」
「………っ」
詩織の顔から、血の気が引いていく。 隠し通したかった、家の事情。婚約者との歪んだ関係。そして、自分が暴力を振るわれているという、最大の屈辱。 そのすべてを、この後輩に知られてしまった。
「やめ…」
「先輩」
彼女の拒絶の声を、僕は許さない。 前世の記憶が、僕に確信させる。今、彼女に必要なのは、同情でも憐れみでもない。絶対的な「肯定」だ。
僕は、さらに一歩踏み込み彼女の震える両肩に、そっと手を置いた。
「あなたは、『道具』じゃない」
「…!」
「あんな奴のために、あなたが泣く必要なんて、これっぽっちもない」
僕の言葉が、詩織の心の最も柔らかい部分に突き刺さる。 彼女の瞳が、絶望とは違う色で大きく揺らめいた。 ずっと、誰にも言えなかった。 ずっと、家の為だと自分に言い聞かせ、耐えてきた。 その苦しみを、今、目の前の後輩が、いとも容易く見抜き、そして否定してくれた。
「先輩は、いつも一人で戦いすぎだ」
それが、最後の一押しだった。 僕の言葉と同時に、詩織の美しい瞳から、堰を切ったように再び大粒の涙が溢れ出した。
「あ…、ぅ……」
もう、嘘も、体裁も、プライドも、何も残っていなかった。
僕は、何も言わずにその震える華奢な身体を、そっと引き寄せた。 僕の制服の胸に、詩織の顔がうずめられる。
「―――っ!!」
温かい胸板と、自分よりも少しだけ早い鼓動。 予期せぬ抱擁に、詩織の身体がビクリと強張ったのが分かった。だが、僕は構わない。
まるで小さな子供をあやすように、その背中を、ゆっくりと、一定のリズムで撫でてやる。 大丈夫だ、と。もう一人じゃない、と。言葉にしない想いを込めて。
数秒の硬直の後。 僕の胸に顔をうずめたまま、詩織の身体から、ふっと力が抜けた。
「……ぅ、…うわぁぁぁぁ……ん…!」
次の瞬間、彼女は、これまで抑え込んできたすべての感情を、嗚咽として爆発させた。 生徒会長としての威厳も、大企業の令嬢としてのプライドも、すべてをかなぐり捨て、ただの傷ついた女の子として、僕の胸の中で声を上げて泣きじゃくった。
その温かさが、あまりにも優しすぎたから。 その背中を撫でる手が、あまりにも力強かったから。 御子柴に殴られた頬の痛みなど、もうどうでもよくなっていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。 夕暮れの生徒会室に響いていたのは、詩織のしゃくりあげる声だけだった。
やがて、その激しかったリズムが、少しずつ緩やかになっていく。 嗚咽が、かすかな寝息にも似た、静かな呼吸に変わり始めたのを見計らって、僕はそっと身体を離した。
「……すみません、怜さん」
詩織は、僕の胸元で真っ赤になった顔を、恥ずかしそうに伏せた。僕の制服のブレザーは、彼女の涙と化粧で、ぐっしょりと濡れてしまっている。
「みっともないところを…服まで、濡らしてしまって…」
「全然。むしろ、勲章ですよ」
僕は、濡れた胸元をわざと誇らしげに叩いてみせた。
「溜め込んで平気なフリをするのが、一番良くないんです。…少しは、すっきりしましたか?」
冗談めかして笑いかけると、詩織は「…はい」と、蚊の鳴くような声で頷く。
その顔は、まだ赤く腫れていたが、先ほどまでの絶望の色は消えていた。
僕は、彼女の机の前にあった椅子を引き寄せ、その隣に腰を下ろした。
「…僕でよければ、いつでも、その愚痴、全部聞きますよ」
「え…?」
「先輩が一人で抱え込んでいるもの、少し僕に分けてください。荷物は、二人で持った方が軽いですから」
僕のまっすぐな視線に、詩織は戸惑ったように目を泳がせた。
「でも…」
彼女のプライドが、最後の抵抗を見せる。
「後輩であるあなたに、そんな…家の恥や、弱みを見せるわけには…」
「後輩だから、ダメなんですか?」
僕は、彼女の言葉を遮る。
「僕は、口が堅いので。今日ここで見たことも、聞いたことも、先輩が泣いていたことも、絶対に誰にも言いません」
僕は、彼女の不安を取り除くように、ゆっくりと言葉を続けた。
「それに…」
僕は、詩織の赤くなった頬に、そっと指先で触れる。 ビクリ、と彼女の身体が震えた。
「泣いている先輩を、見て見ぬフリできるほど、薄情じゃないんで」
僕は、彼女の瞳を覗き込み、悪戯っぽく微笑んだ。
「だから、これは、僕と先輩だけの、『秘密』です」
「秘密……」
詩織が、その言葉をオウム返しに呟く。 誰にも言えない苦しみ。それを共有してくれる、たった一人の「秘密」の相手。 その響きは、今の詩織にとって、何よりも甘美な救いの言葉だった。
彼女は、数秒間、僕の青い瞳をじっと見つめた後、何かを決意したように、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「よかった」
僕は満足して立ち上がると、御子柴が荒らしていった机の上を、手早く片付け始めた。倒れた椅子を起こし、散らばった書類をまとめる。
「あ、怜さん、私が…」
「いいですよ。泣き顔の先輩に、こんなことさせられませんから」
僕はポケットから新品のハンカチを取り出すと、それを詩織に手渡した。
「どうぞ。こんなになるまで我慢しちゃダメですよ」
「…ありがとう、ございます」
詩織は、それをおずおずと受け取った。
「じゃあ、僕はこれで。今日はもう、無理しないでくださいね」
僕は生徒会室のドアに向かう。
「あの、怜さん!」
背後から、詩織の焦ったような声が飛んできた。 振り返ると、彼女は僕のハンカチを握りしめたまま、不安そうな顔で立ち尽くしている。
「…その、ハンカチ、は…」
「ああ、それは差し上げます。お守り代わりにでもしてください」
「でも…!」
「その代わり」
僕は、泣き顔の先輩を安心させるように、片目を閉じて小さくウインクしてみせた。
「また明日、様子を見に来ますから。その時に、元気な顔、見せてくださいね」
「…! はい…!」
詩織の顔が、夕日のせいではない赤みで、パッと明るくなった。
僕はそれに満足し、今度こそ生徒会室を後にした。 一人残された詩織は、まだ涙の跡が残る頬のまま、怜が去っていったドアを呆然と見つめていた。
手の中には、怜のハンカチが握られている。そこから伝わる、かすかな石鹸の匂い。 殴られた頬の痛みは、もう感じなかった。
代わりに、胸の奥深くがじんわりと温かくなる、不思議な感覚に包まれていた。
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