第4話:癒しのキス

翌日の放課後。 生徒会室には、昨日よりも早い時間から、詩織一人の姿があった。 今日の生徒会業務は、すべて午前中のうちに完璧に終わらせてある。放課後の予定表は、綺麗に空白だった。


(…まだ、来ないかしら)


詩織は、タブレットを開きながらも、その視線は一分おきにドアへと注がれる。 昨日、手の甲に落とされた、あの柔らかい唇の感触。 『また明日も、来ますね』 そう言って微笑んだ、怜の甘い笑顔。


あれから一晩、詩織の頭はそのことでいっぱいだった。 思い出すだけで、指先から熱がこみ上げてくる。胸が、きゅっと締め付けられるように甘く痛む。 昨日までの、鉛のように重かった生徒会室が、今や世界で一番、待ち遠しい場所になっていた。


後輩に泣き顔を見られた羞恥心? そんなものは、もうどこかへ消え去っていた。 あるのはただ、早く怜に会いたい、という焦げるような渇望だけ。


(私、どうしてしまったのかしら…)

詩織は、熱を持つ自分の頬を両手でパチンと叩く。 しっかりしなさい、詩織。相手は後輩よ。あなたは生徒会長でしょう。 そう理性に言い聞かせようとするそばから、心が「でも、怜さんは特別だわ」と反論する。


カツ、カツ、と。 廊下を歩く、聞き慣れた足音。


(来た…!)

詩織は、弾かれたように顔を上げる。 コン、コン。 ノックの音。


「失礼します」

「は、はい!」

上ずった声が出そうになるのを、必死に飲み込む。


ガチャリ、とドアが開き、待ち望んでいた姿が現れた。

「こんにちは、詩織さん。様子を見に来ましたよ」

「こんにちは、怜!」


怜は、昨日と変わらない完璧な笑顔。 対する詩織は、自分でも分かるほど、喜びを隠しきれない、満面の笑みを浮かべていた。

「ま、待っていたわ! さあ、どうぞ!」


慌てて立ち上がり、怜を招き入れる。その姿は、恋人を自宅に迎える少女のように、浮き足立っていた。


「はは、先輩。なんだか今日は、とても機嫌が良さそうですね」

怜は、そんな詩織のあからさまな歓迎ぶりに、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに楽しそうに目を細めた。


「え、あ、そ、そうかしら…?」

「ええ。昨日よりもずっと顔色がいい。ちゃんと眠れましたか?」

「はい、おかげさまで…!」


自然な気遣い。 怜は、そのまま慣れた様子で給湯スペースに向かうと、昨日と同じように手際良く二人分の紅茶を淹れ始めた。 詩織は、その無駄のない美しい横顔を、頬を染めながら見つめていた。


(…素敵)

紅茶を淹れているだけ。ただそれだけの所作が、まるで計算され尽くした舞台演劇のように、完璧に様になっている。


「どうぞ。今日は少し、リラックスできるようにカモミールをブレンドしてみました」

「ありがとう、怜さん。気が利くのね」


差し出されたカップを受け取る。 怜は、昨日と同じようにごく自然に詩織の隣へと腰を下ろした。 もう、その距離に緊張はない。むしろ、すぐそばに怜の体温を感じられることが、詩織の心をこの上なく満たしていた。


「それで、先輩。今日は御子柴先輩に、何か言われませんでしたか?」

「ええ。今日は、特別クラスの方で何か行事があったみたいで、顔を合わせなかったわ」

「それはよかった」


他愛のない雑談。 学園のこと、授業のこと、人気のカフェのこと。 怜は驚くほど聞き上手で、詩織がぽつりと話したことにも、的確な相槌と、気の利いた返事を返してくれた。 詩織は、この数ヶ月、いや数年間で、これほど心から「楽しい」と笑ったことがあっただろうか。 御子柴とのことなど、もう忘れてしまいそうだった。


その、楽しい会話が途切れた、一瞬。 怜が、ふと真剣な表情になり、詩織の顔をじっと見つめた。


「…どうかしたの、怜さん?」


怜は、何も答えない。 ただ、その青い瞳で、詩織の左の頬を、まっすぐに見つめている。 数日前に、御子柴に殴られた場所。 赤みは引いたが、よく見れば、まだ薄く青あざが残っている場所。


「先輩。その頬の傷…」

怜が、静かな声で言った。


「まだ、少し青くなっていますね」


その一言で、詩織の心臓が、冷たい水に浸されたようにドクンと跳ねた。 楽しい雰囲気から一転、忘れたかった現実が、目の前に突きつけられる。 詩織の顔から、さっきまでの笑顔が、さっと引いていった。


「あ…これは、もう、大丈夫よ。大したことじゃ…」


「大したことですよ」


怜は、私の言葉を遮る。 そして、何も言わずに、そっと右手を伸ばしてきた。 その指先が、傷跡が残る、私の頬に触れる。


「―――っ!」


ビクリ、と詩織の身体が震えた。 殴られた瞬間の、あの鈍い衝撃と屈辱的な記憶が、一瞬でフラッシュバックする。 反射的に、その手を払いのけようとしてしまった。


しかし。 怜の指先は、暴力とは対極にある、あまりにも優しい感触だった。 まるで、傷ついた蝶の羽に触れるかのように。 壊れやすいガラス細工を扱うかのように。 怜は、その痛々しい傷跡を、そっと撫でた。


「…痛みますか?」

囁くような、優しい声。 詩織は、その優しさに声が出せず、ただ小さく首を横に振った。 痛みは、もうない。 ないはずなのに、怜にそこを触れられると、胸の奥が、昨日泣いた時とは違う意味で、苦しくなる。


「よかった」

怜は、そう呟くと、頬を撫でていたその手で、私の顎をそっと掴んだ。 そして、ゆっくりと、自分の方に向かせる。


抵抗は、できなかった。 至近距離で、怜の青く澄んだ瞳が、私を捉える。 その瞳の奥に宿るのは、昨日までの優しさとは違う、静かな怒りの色だった。


「こんな綺麗な顔に、傷をつけるなんて」

怜の声は、低く、冷たい怒りに満ちていた。

「…絶対に、許せない」


詩織は、怜の真剣な眼差しに吸い込まれる。 動けない。 時間が、止まった。


怜の顔が、ゆっくりと近づいてくる。 長い睫毛。滑らかな肌。

そして、私を見つめる、熱を帯びた瞳。


(嘘…)


詩織の震える唇に、柔らかく、温かいものが、そっと触れた。


「………ん」


それは、ほんの一瞬。 カモミールティーの甘い香りがした。 柔らかく、優しく、そして、少しだけ戸惑うような、初めてのキス。


数秒後。 ゆっくりと唇が離れる。 詩織は、目の前で起こったことが理解できず、顔を真っ赤にして固まっていた。 心臓が爆発しそうだった。


(今…私、怜さんに…キス、された…?)


「…あ…」

呆然と、目の前の後輩を見つめる。 怜は、そんな私の様子を見て、悪戯が成功した子供のように、ふっと笑った。


「…これも、二人だけの『秘密』ですよ、詩織先輩」


怜は立ち上がると、ドアへと向かう。 そして、昨日と同じように、去り際に振り返った。


「じゃあ、また明日」


今度は、手の甲じゃない。 怜は、呆然とする私の、キスされたばかりの唇に、自分の指先でそっと触れた。


「…っ!」

「おやすみなさい」


カタン、とドアが閉まる音で、私は我に返った。 一人残された生徒会室。


私は、キスされた自分の唇に、震える指でそっと触れる。 まだ、怜の感触が熱が、生々しく残っている。


「……………ぁ…」


私は、その場に崩れ落ちるようにソファに深く沈み込んだ。

もう何も考えられない。 頬が熱い。心臓がうるさくてたまらない。


あの男に殴られた頬の痛みも、婚約者としての苦しみも、すべてがどうでもよくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る