第3話 朝霧の口吻
翌朝、馬事公苑は霧に包まれていた。砂は一様に湿り、柵の白が曖昧に溶ける。スピーカーにまだ電源は入っておらず、鳥の声だけが高い。
女性は走らず、歩いて入った。靴底が砂の薄い層を柔らかく押して、わずかな音を立てる。その音が——
「来ない方がいいと言ったのに」
若い厩務員が、霧の向こうから現れた。目の下に隈がある。
「二番は?」
「放してない。厩舎の扉は閉めた。鍵も」
「でも」彼女は指さした。観覧席に続く通路の砂に、二本の細い溝が、柵際まで続いている。
厩務員は顔をしかめる。「誰か、いたずらで引いたのか……」
金具の触れ合う微音。霧の幕が一枚めくれ、黒鹿毛の額が、その向こうに現れた。
厩舎の鍵は、確かに閉まっている。だが扉の下の隙間から、湿った吐息が、細い糸になって外へ伸びている。
糸は砂に落ち、そこから二本の溝へと合流していた。
「——戻って」厩務員が低く言う。「目を合わせないで」
「でも、呼ばれてる。昨日からずっと」
彼女は柵に近づく。霧で濡れた柵は冷たい。黒い瞳が、霧の水滴を集めて深くなり、彼女の顔だけを映す。
「二番」
唇の形と同じ、不思議な音が、馬の喉から漏れた。
「聞こえた?」彼女は振り向かずに言う。「私の名前に似てる」
「違う。あれは、噛む前の音だ」
厩務員が柵を回り込もうとした刹那、砂が撥ね、柵の低い部分を越えて湿った首が伸びた。
噛まない。触れるだけの、口吻。
だが触れた場所から、彼女の皮膚の色が、砂に馴染むように薄くなっていく。頬、喉、胸元。馬の吐息とともに、体温が剥がれていく。
「寒くない?」
「ううん。懐かしい匂いがする。朝の匂い」
「離れて!」
厩務員が腕を引く。彼女は一歩下がるが、砂に足が沈む。沈んだところに、水が滲む。
馬の瞳がわずかに細くなり、彼女の足音だけを聴くように耳が動いた。
その時、スピーカーが突然、試験音を鳴らした。ピ、と高い音。
馬が瞬く。耳が一瞬、別の方向へ向く。
厩務員はその隙に彼女を抱えて柵から離した。二人の足跡が砂に重なり、崩れる。
「帰ってください。もう、来ないで」
「でも、あの子は」
「“あなた”を覚えた。もうそれで十分です」
霧が流れ、黒鹿毛の姿は白い柵の向こうに溶けた。
観覧席の最上段で、カラスが一羽、か細く鳴いた。
帰り道、彼女は自分の影を見た。足元から伸びる影の中に、細い二本の溝が、薄く刻まれている。
踏みつけて歩くたび、溝は消えて、また浮かび上がる。
朝の匂いが、いつまでも離れない。
その夜、彼女の部屋の床に散った砂は、玄関からベッドの脇まで、二本の線で結ばれていた。
彼女は目を閉じる。暗闇で、唇に柔らかなものが触れた気がした。
「——二番」
返事の代わりに、遠くで蹄の音がした。雨の前に鳴る、あの軽い合図。
次の朝、馬事公苑の砂は、前夜よりも黒く、深かったという。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます