第2話 曳き手の影

昼の馬事公苑。太陽に乾いた砂は明るく、蹄の音が軽い。観覧席の陰は冷たく、スタンド裏に風が溜まる。

女性は仕事帰りに再び来た。平日で人は少ない。若い厩務員が見つけて会釈する。


「また来たんですね」

「二番さん、いますか」

「今日は厩舎で休ませてます。気が立ってて」


厩舎の通路はひんやりして、金具の微かな打音が続いている。藁の甘い匂いと、消毒液。

黒鹿毛は、格子の向こうで耳を立て、すぐに彼女に気づいた。

鼻先が鉄柵に当たり、乾いた音がする。


「ほら、寄ってくる。やっぱり……」

「やっぱり?」

「あなたの足音だと思ってるんじゃないか」


「私、そんなに特徴的?」

「蹄に似てる。踵から入る歩き方だと、コツコツ鳴るから」


女性は笑って、スマホを取りだした。「写真、いいですか」

「フラッシュはやめてください。あと、真正面は——」

パシャ。

画面に黒い額と瞳、鉄格子の影が格子状に落ちている。撮れた瞬間、馬がぐっと首を伸ばし、金具に歯を当てた。

ギギ、と嫌な音。厩務員が一歩前に出る。


「だめ。二番」

馬は静まったが、瞳は彼女だけを追っていた。光の端がそこに集まり、周りの影が薄くなる。

彼女の手首に、微かな湿りがついた。見上げると、格子の間からの吐息が、細い線になって腕に落ちている。


「ねえ」女性が小声で言う。「この子、寂しいの?」

「寂しい、というより……覚えがいい。匂いを憶えるんです。」


「二つ?」

「たぶん、あなたの家の匂い。繊維の柔軟剤と、玄関の石の粉みたいな匂いが、ここまで運ばれてきてる」


彼女は黙った。バッグの底に、今朝、柵で撫でた指の匂いがまだ籠もっている気がした。

厩舎の奥で、別の馬が蹄を打つ。天井のファンが回り、光の帯が流れる。


「夜は、来ない方がいいですよ」

「どうして」

「人が少ないと、音がはっきりするから。はっきりしすぎると、誰の足音か、間違えなくなる」


その夜、彼女のアパートの前の坂道に、細い溝が二本、砂の上に走っていた。誰かが重いものを引いた跡のように。

玄関の前で、ふいに鼻腔が甘くなる。青草と鉄と、遠くで水を撒く音。

ドアスコープを覗くと、何もいない。

ただ、階段の踊り場に、濡れたような黒い影が、ひっそりと息をしている気配がした。

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