蹄のあと

彼辞(ひじ)

第1話 砂の匂い

朝の馬事公苑は、散水を終えたばかりの砂の匂いがする。濡れた砂が黒ずみ、蹄鉄の跡が浅く帯を引く。白い柵、曇天、無人の観覧席。

ジョギングの女性が柵沿いを歩き、足を止めた。黒鹿毛の馬が、こちらをじっと見つめている。曳き手の若い厩務員が、控えめに手綱を緩める。


「触らない方がいいですよ。噛む時があるんで」

「見てるだけです。目が、人みたい」


馬は耳を前に倒し、鼻先を柵の隙間へ伸ばした。女性が一歩前に出ると、馬は湿った吐息を指先に吹きかける。甘い青草と鉄の匂いが掌に移る。

厩務員が眉を寄せた。


「変だな……この子、知らない人に寄ってかないのに」

「私、犬にも好かれるから」

「犬と馬は、ちょっと違うんで」


砂場のスプリンクラーが、遅れて一つだけ回り始め、霧粒が横に流れた。観覧席の高いところで、カラスが鳴く。

女性は名を尋ねた。


「この子、名前は」

「名札は外してます。今は“二番”って呼んでるだけ」

「二番さん」

馬がふっと喉を鳴らした。低い、温い音。曳き手は視線を外そうとして、なぜか外せずにいる。


「その、すみません。あんまり見つめないでやってください。競り合いの癖になって、人の目に反応することがあって」

「怖いの?」

「怖いというか……欲が出る。走る時に、何かを追いかけたくなる。目の奥に、それが写ると」


女性は笑い、手を引っ込めた。「じゃあ、また明日」

「来るんですか」

「ここ、好きなんです。朝の匂いが」


帰り際、振り向くと馬は柵の白を背に、まっすぐ立っていた。曇天の下、瞳だけが水を含んだみたいに光っている。

彼女の足跡に、別の跡が重なっていた。細い溝のような線が二本、並んで続く。

「……手綱、引きずってます?」

「引きずってないです。今、巻いてます」


若い厩務員は手元を示した。手綱は短く巻かれている。

ではこの線は何か。女性が足で触れると、線はさらさら崩れて消えた。

風が、柵の向こうから吹いた。柔らかい鼻息の気配が、背中にふっと触れた気がした。

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