第12話 後編「大悪魔の敗北」

【ペルフェコール視点】

 


──この女、やるつもりだ。

この大悪魔ペルフェコールを、辱めて祓う気だ。


 


 だが、いいだろう。やってみろ。


 


 我は耐えられる。

 たとえ、どれほどの屈辱を受けようとも。


 


 


 なぜなら──我が芯は、もう決まっているからだ。


 


 *


 


 遥か昔、我は一度、人間界を訪れた。

 目的は単純な好奇心からだった。


 


『人間界に、“幸せな結婚”というものは存在するのか?』


 


 悪魔界では、結婚は力を補う儀式にすぎぬ。

 だが人間たちは、“愛”などという得体の知れぬ感情で互いに結びつく。


 


 だが──我の探究の結末は、あまりに滑稽なものだった。


 


 喧嘩、すれ違い、誤解、不倫、家庭崩壊。

 あらゆる夫婦が、ほんの些細なきっかけで壊れていく。


 


(愛だの絆だのと謳っていながら、なんと脆い存在か)


 


 そのとき確信したのだ。

 「人間の夫婦が幸せになることは、不可能だ」と。


 


 その確信は、我の誇りへと変わった。


 


『我ら悪魔の結婚の方が、人間の結婚より何倍も尊い』

『側室を何人持とうと、我は妻を愛し、妻もまた我を愛してくれる』

『たった一人すら理解し合えぬ人間ごときが、結婚を語るなど笑止!』


 


 ──メイとパウロも、例外ではない。


 


 嫉妬や不安を煽れば、すぐに仲は拗れた。

 わずかな刺激で、たやすく心はすれ違った。


 


(所詮その程度よ……貴様らの夫婦愛など)


 


 


 ゆえに、我は屈しない。


 


 陵辱されようが、辱められようが──

 「夫を救うために他の男と寝た女」という事実さえ残れば、必ずすれ違いが生まれる。


 


 たとえ祓われようと、心の奥に不信と気まずさを刻む限り、悪魔である我の勝ちなのだ。


 


 


(さあ、やるがいい……この我を──)


 


 


「──やっぱり、できませんわ」


 


 


「…………なに?」


 


 聞き間違いかと思った。

 だが、彼女は明らかに手を止め、顔を背けていた。


 


「……今の貴方の中身は、パウロ様ではありません。

 だから、たとえ肉体が夫でも──今ここで貴方と寝たら、それは不倫になってしまいますわ」


 


 言葉の意味が、理解できなかった。

 否。理解したくなかった。


 


「わたくしは、夫と触れ合った思い出を……こんなことで、穢したくありませんの」


 


 


 胸が、何かに締め付けられた。


 


 心が揺れた?

 まさか、我が? この大悪魔ペルフェコールが、今の言葉に……?


 


(違う! これは違う!)


 


「貴様……最後のチャンスを不意にしおったな!

 我にトドメを刺す手段など、もはや貴様には──」


 


「……ありますわよ」


 


 


 にこり、と微笑む。

 だがその笑顔は、慈悲ではなく──嘲りだった。


 


 


「人間には、聖水以上に相手に屈辱を与える液体があるんですの」


 


 彼女は、わたくし──ペルフェコールの顔へと、静かに顔を寄せてきた。


 


「……な、なにを──」


 


 


 ぴちゃっ。


 


 熱く、ぬめる感触が、頬を伝った。


 


 それは──唾だった。


 


 


 我の、顔に、唾を吐いたのだ。

 人間の女が。

 この、我に。

 この、大悪魔に──!!


 


 


「や、やめろ……やめ、やめ……やめろぉぉぉおおおおお!!!!!」


 


 心が、崩れた。

 誇りが、砕けた。


 


 唾一滴で、聖水よりも烈しく、我が心は破壊されたのだ。


 


 耐えてきた。

 すべてに耐えてきた。

 だが、これは──これは、違った。


 


 涙が止まらない。

 鼻水が垂れる。

 顔がくしゃくしゃになる。


 


 


 ……でも、それでも。


 


「リ、リリリリス……助けて、くれ……」


 


 妻の名を呼ぶ声は、惨めに震えていた。


 


 我は──


 


 我は……


 


 


「──ざぁこ♡」


 


 


 耳元で、優しく、甘く、それでいて凶悪に囁かれたその一言。

 それが、トドメだった。


 


「う、うわああああああああああああああッ!!!」


 


 哀れな断末魔を上げながら、我は器から抜け出し、光の渦に呑まれて──消えた。


 


 


 *


 


 


「……うぅん……メイ?」


 


 パウロ様の声。

 正気を取り戻した、いつもの優しい声。


 


「よかった……」


 


 わたくしは涙を拭い、パウロ様の胸に飛び込みました。


 


「メイのパンチと挑発、キッツいなぁ……でも、そんなメイも……ちょっと好きかも」


 


「ふふっ。嬉しいですわ。なら、いくらでもして差し上げますわよ」


 


 ふっと微笑み、顔を近づけます。


 


「でも、まずは──これですわよね」


 


 そっと目を閉じ、唇を重ねた。


 


 世界の終わりよりも、静かで優しいキス。

 それは、わたくしとパウロ様が確かに夫婦である証。


 


 ──最終決戦、決着。


 


(つづく)

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