第11話 前編「それでも、貴女は家族です」

【ジュリア視点】


 


 ──ドスッ。

 拳が鳩尾にめり込む音が響いた。


 


 ぐらつく視界。ぐしゃりと濡れた音。唇が切れていた。

 鼻の奥で鉄の味が広がる。


 


「どうしたん? さっきの威勢はどこ行ったんや?」


 


 リリリリスの声が、愉悦に満ちて耳を舐めてくる。

 ジュリアは拳を構え直すが、肩が痙攣してうまく上がらない。


 


 見渡せば、かつての同僚たち──

 シスター・ノエル、シスター・マリナ、シスター・テレサ──


 


 皆、下着同然の格好で床に寝転がり、ペルフェコールの魔力に呑まれ、快楽と酒にまみれていた。


 


「っ……!」


 


 拳が握りこぶしのまま震える。

 それでも立ち向かう理由を探して、ジュリアは視線をリングの向こうに向ける。


 


 ──イヴ。


 


 グローブをはめた手で髪を結い上げ、血の気を帯びたその顔には、リリリリスの冷笑が浮かんでいた。

 だがジュリアは、その中に微かに揺れる“違和感”を見逃さなかった。


 


(……イヴ。今、貴女は──)


 


 意識がふと、過去へと引き戻されていく。


 


 ──あれは、イヴがまだ幼かった頃。


 


 イヴの両親は悪魔崇拝を掲げる地下カルトの信者で、イヴは“祝福”と称した儀式で幾度となく虐待を受けていた。

 両親はある日、信者ごと摘発されて逮捕された。


 


 教会に保護されたイヴは、言葉も少なく、誰にも心を開かず、目には常に怯えと反抗が同居していた。


 


 それでもジュリアたちは、根気強く接し続けた。

 しかし──


 


 ある日、ジュリアは見てしまったのだ。

 イヴが、祈りの時間に十字架を床に叩きつけ、吐き捨てたのを。


 


 『そんなもん、アタシの親が一番嫌ってたんだよ! 神なんて、敵だってずっと言ってた!』


 


 その叫びは、ただの反抗ではなかった。

 イヴにとって“神”とは、自分を虐待から救ってくれなかった存在──

 両親が恐れ、悪口を浴びせ、殴る口実にしていた“仮想の敵”だった。


 


 神の名前は、イヴにとって「痛みの記憶」と結びついていた。


 


 


 ……それでもジュリアは、怒りに任せて叫んでしまった。


 


 『神を信じない人は……家族じゃありません!』


 


 ──その一言で、すべてが壊れた。


 


 以後、イヴはジュリアを完全に拒絶した。

 教会の規律に背き、街に出ては不良仲間と喧嘩し、最後にはリリリリスの依代にまで成り下がった。


 


 (私のあの言葉が……イヴを、ここまで追い込んだ……)


 


 リリリリスの拳が横腹にめり込む。


 


「ほらほら、そろそろ奥様みたいに腹筋にキスしてもらおか?」

 顎を掴まれ、汗の光る腹筋がジュリアの目の前に突き出される。


 


「その清い口で、ウチの身体に忠誠を誓い──」


 


「……いいえ」


 


 ジュリアは歯を食いしばって、クリンチしたまま顔を上げた。

 目は、リリリリスの奥にいる“少女”を見つめていた。


 


「ごめんなさい、イヴ……」

 声が震えた。


 


「信仰の違いに、育ちの違いに、腹を立てたのは全部、私の弱さです。

 貴女がどう思っても──何を信じても──私にとっては、最初から……ずっと……!」


 


 ジュリアの瞳が涙でにじむ。


 


「……貴女は、家族なんです……!」


 


 その瞬間──

 リリリリスの身体がビクリと震えた。


 


「……あ、あぁ……?」


 


 潤んだジュリアの視線の奥に、“もう一人の瞳”が浮かび上がる。


 


 それは──

 かつて孤児だったイヴが、ジュリアの背に隠れながら小さく笑った、あのときと同じ瞳だった。


 


 (イヴ……今、貴女に届いてる……?)


 


 リリリリスがよろめいた。

 内側で、イヴの魂が目を覚まし始めている。


 


 リングが静まり返る。

 観客の堕ちたシスターたちすら、リリリリスの変調に声を失っていた。


 


「──次で、決めます」


 


 ジュリアがゆっくりと構えを取る。


 


「貴女を、取り戻すために」


 


 リリリリスの中のイヴが、かすかに涙を流していた。


 


(つづく)

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