第8話「魔と孤独と崩壊のキス」


【パウロ視点】


 


 ──メイに会えない日が、こんなにも堪えるなんて思ってなかった。


 


 あの試合のあと、メイは自室に閉じこもってしまった。食事にも顔を出さず、ジュリアが扉の前から何度呼びかけても、返事はない。

 俺はただ廊下の向こうにある、あの扉を見つめるだけだった。


 


 自分の力不足が悔しかった。

 だがそれ以上に──同じ屋敷にいるのに、メイに会えないことが苦しかった。


 


 庭をぼんやり歩いていると、またイヴと出くわした。


 


「……よ、また沈んだツラしてんな」


 


 軽口はいつもの調子だが、その目の奥にある微かな疲れを俺は見逃さなかった。


 


 けれど──次の瞬間。


 視界が歪んだ。


 


 頭の奥に何かが流れ込んでくる。


 


 これは──記憶……? 俺の……?


 


 いや、違う──ペルフェコール、だ。


 


 浮かび上がるのは、深紅の大広間。玉座の傍らに立つ黒髪の悪魔。その顔は──リリリリス。


 


 彼女の横で静かに佇む男──それがペルフェコールだった。


 


 リリリリスは彼の妻。

 だが、彼女は地獄を離れ、ある日突然人間界に囚われた。

 彼女を探して、ペルフェコールはこの地に降り立った。

 人間の器を手に入れ、ゆっくりと人間界に適応し、彼女の気配を探し続けた。

 ──そして、ある日、彼は“彼女”を見つけた。


 


 それが、イヴ。

 彼女の身体に宿るリリリリスの魔の気配に、彼は即座に気づいた。


 


 同じように──彼女もまた、ペルフェコールの気配に気づいていた。


 


(そうか……だから……初対面のときから、何か引き寄せられるような感覚があったのか……)


 


 イヴと俺が出会った瞬間、悪魔たちはすでに互いの存在を“再会”として認識していた。

 俺とイヴの心の奥で、記憶を共有しながら、ゆっくりと復活の準備を進めていたのだ。


 


「……ッ!」


 


 胸が痛む。


 


 ──俺が寂しさを感じたこと、それすらも、あいつの復活の材料だった。


 


 メイと心がすれ違い、愛する者と引き裂かれた“寂しさ”。

 その想いが、ペルフェコールと重なり──今、俺の身体が、奴に完全に……!


 


 ──抵抗できなかった。


 


 俺は、沈んでいく。

 意識の底に沈み、ペルフェコールの視界が、世界を塗り替えていく。


 


 ──同じように、イヴの中でも、リリリリスが目を覚ます。


 


「お久しぶりやな、ウチの旦那はん」


 


 リリリリスがしな垂れかかるように囁き、ペルフェコールは彼女の腰に手を回す。


 


「ずっと会いたかったよ、リリリリス」


 


「そうそう、ちょっと一つ、仕返しさせてもらったで」


 


 リリリリスはにっこりと笑いながら、こう言った。


 


「アンタと記憶を共有したことで、ウチは知ってもうたんよ。──あの奥様の靴に、アンタがキスさせられたことを、な」


 


「……」


 


「腹立ったさかい、ウチもおんなじことしてやったんよ。

 あの奥様に、屈辱のキス。ええ顔してたわぁ──泣きながら、ゲロの匂いにまみれて……」


 


 リリリリスの顔がぐしゃりと歪み、快感のような笑みを浮かべる。


 


 そして二人は、ゆっくりと唇を重ねた。


 


 ──魔力が、爆ぜた。


 


 地獄の主と妃が再会し、交わることで生まれる、忌まわしき共鳴。

 世界が揺らぐような、ぞわりと背筋を走る魔の波動。


 


 そのとき──


 


「パウロ様……?」


 


 扉の陰から現れたのは、メイだった。


 


 


【メイ視点】


 


 わたくしは、見てしまいました。


 


 ──あの人が、イヴと、唇を重ねている姿を。


 


「いや……いやぁああああああああああッ!!!!」


 


 足元から力が抜けて、膝が崩れました。

 涙が、音もなく頬を伝う。


 


「アンタの旦那はん、どうも“ゲロ吐き女”はお好みやないみたいやで?」


 


 リリリリスの──イヴの口から放たれた、あまりにも残酷な言葉。


 


(わたくしが、あの試合で……無様に負けて……!)

(わたくしが、恥を晒して……)

(だから……愛想を尽かされてしまったんですのね……?)


 


 ──ポキン。


 


 何かが、音を立てて、心の中で折れました。


 


「うっ……うぅっ……うわああああああああああん!!」


 


 子供のように泣き叫ぶしかありませんでした。

 胸が、痛くて、苦しくて──破れそうでした。


 


「──メイ様!!」


 


 駆け込んできたジュリアさんが、わたくしに駆け寄ろうとしますが──


 


「まやかしです! 今のキスは、愛ではありません! どうか、騙されないでください!!」


 


 その声は、遠く感じました。

 何も──もう、届かない。


 


 わたくしの世界は、すでに崩れ去っていたから。


 


 その傍らで、ペルフェコールとリリリリスは肩を寄せ合いながら、外の扉へと歩き出していました。


 


「──地獄に帰ろか?」


 


「……いや、帰ったらまた君の側室たちと取り合いになるだろう。もう少しだけ……君を、人間界で独占させてもらうよ」


 


 二人は──まるで愛し合う恋人のように──

 笑い合いながら、屋敷を去っていった。


 


(つづく)

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