第7話 後編「腹に刻まれた敗北」
【メイ視点】
「悪魔の力なんか使わなくても、あんたにゃ負けねーよ。けどな、分かりやすく力の差を見せてやるために、あえて出してやるよ」
不気味な笑みと共に、イヴの姿に宿った“何か”が、胸の内に染み込んでくる。
それはまるで、油で染めた絹のように滑らかで、なのに獣じみた熱を孕んだ、異質な気配。
「ご紹介にあずかりましたぁ──地獄の愛玩王妃、リリリリスや。
男の人を殴るのはほんまに嫌やけど……アンタみたいな女が相手なら、遠慮いらんわな?」
言葉の端々に滲むのは、冷笑と軽蔑。
この悪魔は女同士の戦いすら、“弄び”として楽しんでいる。
イヴ──いや、リリリリスは高らかに笑い、わたくしの顎に強烈な右フックを叩き込んだ。
視界が揺れる。地面が傾く。
けれど──負けるわけには、いかない。
(パウロ様が、見ていらっしゃるのですもの……!)
気合と共に立ち上がる。
拳を構える。
相手の腹筋を狙い、息を吐いて打ち込む。
リリリリスの腹筋に、わたくしの拳がめり込む──その瞬間、リリリリスの瞳に、ほんの僅か、動揺が走ったのを見逃さなかった。
「うふふ。やるやんか、奥様。せやけど──その程度じゃウチは止まらへんで?」
空気が、変わった。
そこから先は、まるで“儀式”のようなボディへの打ち合い。
拳が、腹に沈む。
呻き声が、響く。
互いに額から汗を滴らせ、体勢を崩しながら、それでも立ち続け、打ち続けた。
だけど──限界は、わたくしに先に来た。
「……っ、う……おぇ……」
鳩尾に打ち込まれた拳が、身体の奥に響く。
力が抜けて、膝が崩れた。
四つん這いになったわたくしは、苦悶のまま胃の中のものを吐き出す。
汗と涙と胃液でぐしゃぐしゃになりながら、わたくしは這いつくばるしかできなかった。
「いーち……にーい……さーん……」
リリリリスの甘ったるい声が、リングの空気を嘲笑で満たしていく。
わざとらしくゆっくりとカウントするその足元に、わたくしは倒れていた。
「じゅうー」
──試合、終了。
「ふふっ、勝ちやな」
リリリリスは優雅に仁王立ちし、わたくしを見下ろした。
「さぁ、ウチのお願い、聞いてもらおか。ウチがアンタより強いことを認める証や。──ウチの腹筋に、キスしなはれ」
「……!」
ぞわりと肌が粟立つ。
わたくしの誇りを踏みにじる、これ以上ない命令。
しかし、先ほど交わした約束がある。
ここで逃げれば、嘘つきになってしまう。
「どうしたん?奥様ってのは弱い上に嘘つきなんか?」
リリリリスの言葉が、胸を刺す。
わたくしは、震える手で地を這い、彼女の前へと膝をつく。
ゆっくりと、顔を上げた。
綺麗に割れた、リリリリスの腹筋。
その汗の光沢が、まるで勝者の証のように見えた。
わたくしは唇を寄せ──そのまま、キスをした。
口の中に広がったのは、汗のしょっぱい味。
胃液の残滓と混ざりあう。ぬるく、苦い、“敗北の味”。
「……あ……あぁ……」
込み上げる涙を止められなかった。
悔しさ、情けなさ、恥辱、屈辱。
そのすべてが押し寄せて、わたくしの心を押し潰していった。
(……こんな姿……パウロ様に……)
振り向く勇気など、もう無かった。
「メイ!!」
パウロ様の声がした。
駆け寄ろうとした彼を、ジュリアさんが無言で制した。
──ジュリアさんの表情に、怒りも、憐れみもなかった。
ただ、静かに首を横に振る。
これは、わたくしが背負った“決闘”。
誰にも手を出させてはいけない、“敗北”。
わたくしはただ、汗に濡れた床に額を押し付け、震えて泣くことしかできなかった。
(つづく)
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