第6話「女悪魔の誘惑と拳」
【メイ視点】
その女は、戦う前から“異様”だった。
リングの中央で仁王立ちするイヴの姿を、わたくしは思わず息を呑んで見つめていた。
まるで彼女自身が何か“別のもの”になったかのような、不気味で、美しく、そして禍々しい威圧感──
そして、彼女はその名を呼んだ。
「──出な。リリリリス」
空気が、冷たく震えた。
次の瞬間、イヴの瞳が紫に染まり、黒く煌めくオーラが彼女を包み込む。
その口元から洩れる笑みは、ゾクリとするほど艶めいていた。
「──男の子と戦うなんて……ほんま、最悪やわぁ……」
妙に艶のある声。
甘ったるく伸びる独特の訛り。その“悪魔”は、何を思ったのか、リング上でぶつぶつと文句を言い始めた。
「せやけど、しゃーないなぁ……仕事やもんね。ウチはおとなしく拳で話すわぁ……」
ぐん、と踏み込み──そのまま、パウロの顎を打ち抜いた。
「パウロ様ッ!」
声を上げた時には、もう遅かった。
わたくしの最愛の夫は、リングの上で宙を舞い、マットに叩きつけられていた。
「──くぅ……ッ」
そのまま畳みかけるように、次々と拳が降る。
甘い声とは裏腹に、リリリリスの拳は容赦がなかった。
「……ほんま、男の子殴るの嫌いやのに……これ以上やらされたらストレスで死ぬわ……はぁ……」
文句を言いながらも的確に腹を、顔を殴る。
悶絶するパウロ様を見て、わたくしは身を乗り出しかけた。
その時、隣からジュリアの声が聞こえる。
「……説明します。彼女に取り憑いているのは、“女悪魔の頂点”──リリリリスです。
地獄では男の悪魔たちを誘惑して側室にしたと言われる、まさに“誘惑の女王”。」
「誘惑の……女王……」
「ええ。かつてはシスターズ・ジムを内部から堕落させるために、信仰心の薄かったイヴに取り憑きました。
でもイヴは見抜いたんです。“リリリリスが、男と戦わされるのを何より嫌がっている”って」
「……あの悪魔は、男好きなんですの?」
「異常なほどに。
だからイヴは、悪魔憑きの男を殴るという“仕事”を強制し、リリリリスに屈辱を与えることで完全に主導権を奪ったのです。
……高位の悪魔の力を利用して他の悪魔を祓うなんて、私としては到底納得できませんけどね」
言葉の最後に、ジュリアは目を細めた。
その視線の先では、リリリリスがついにパウロ様をマットに沈め、足で胸を押さえつけていた。
「ふん……もぉ、やだわぁ……ほんま男って、弱いのになんでこんなに可愛いんやろ……。
ねえアンタ……もっぺん顔見せてぇなぁ……♥」
──悪魔が引っ込んだ。
イヴの目が戻る。紫の光は消え、代わりに、あの人懐っこい笑みが浮かんだ。
「ふふ、ようやく正気に戻ったみたいね。じゃあ、ご褒美──♥」
次の瞬間、イヴはパウロ様の腹の上に跨り、耳元に口を寄せて──何やらいやらしいことを囁きはじめた。
「パ、パウロ様!?」
慌ててわたくしが駆け寄るより先に、ジュリアが動いていた。
「この変態外道メイドがあああああ!!」
シュッという音とともにジュリアのジャブが飛び、イヴの額を直撃する。
文字通り吹き飛ぶようにリングから転げ落ちたイヴを、ジュリアはそのまま羽交い締めにして床に押さえつけた。
「も、もがっ!? な、なによ!アタシ正気に戻っただけでしょ!? サービスサービス!」
「その“サービス”を求めている人間が一人でもここにいますか!?」
「…………ごめん♥」
ジュリアが深々とため息を吐き、わたくしはマットの上で顔を赤くするパウロ様に近づく。
「だ、大丈夫ですか? お顔が赤いですわ……」
「……あ、ああ……その……ちょっと動揺しただけ……」
(……パウロ様が……顔を赤らめている!?)
目の奥がずきん、と痛んだ。胸の中が、ちくちくする。
わたくしの知らないところで、夫が“何か”にときめいていた──そんな気がしてならなかった。
(……パウロ様……わたくし以外の女性に……)
嫉妬? そんなはず……でも……
「……まったく……あの女……」
わたくしは、初めて心の底からイヴに対して敵意を覚えた。
一方、ジュリアは落ち着かない様子で自分の腕をさすっていた。
その顔に、いつもの余裕はない。
「……メイ様」
「……どうかなさいましたの?」
「……おかしいと思いませんか? シスターが二人もいたのに、なぜペルフェコールは自分から姿を現したのでしょう?」
確かに。
「……何か、理由があるのかもしれませんわね」
ジュリアは頷いたが、表情は晴れなかった。
「──嫌な予感がします。これから何か、大きな“歪み”が生じるかもしれません」
誰かが、こちらの“ルール”を逸脱してくるような──
そんな、言い知れぬ恐怖が、わたくしたちを包み始めていた。
(つづく)
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