第5話「純潔なる拳は、まだその先を知らず」

【ジュリア視点】



 メイドとして働き始めて数日、屋敷にはすっかり私──ジュリアの生活が馴染んでいた。


 


 掃除、洗濯、食事の用意、パウロ様の殴打、そして──


 


「はい、ではいきますよ、メイ様──!」


 


「……えっ、ちょっ──くふぅっッ!!」


 


 ドスン、と鈍い音がメイ様の腹から響いた。


 


 新設された地下のトレーニングルームにて。

いま我々が行っているのは、ボディへの耐久訓練──いわゆる「腹筋受け」です。


 


「……くっ……ぅぅ……まだ、ですの……?」


 


 歯を食いしばるメイ様は、苦しげな顔をしながらも微動だにせず立っている。

赤く染まった腹筋をさすりながら、次の一撃を待っていた。


 


(……強くなりましたね、メイ様)


 


 以前の彼女であれば、私のジャブ一発で泣き出していたでしょう。

しかし今は、ミドルレンジのフックでも踏ん張ることができる。


 


 その根性に敬意を表して、今日は特別に──この話を持ち出しました。


 


「さて、メイ様。そろそろ“ジムに伝わる奥義”について、お話ししても良い頃ですね」


 


「おう……ぎ?」


 


 メイ様が息を荒げながら顔を上げる。


 


「……それは、“女性が男に与える屈辱の最高峰”……つまり“悪魔憑きを陵辱する”という、最強の悪魔祓いの方法です」


 


 部屋の空気が止まった。メイ様が瞬きを忘れたように目を見開く。


 


「りょ、りょうじょく、ですの……!? わたくしが……夫を……そのような……!」


 


 真っ赤な顔を振り乱し、口をぱくぱくと動かす。

その表情は何ともいえず可愛らしいのですが、ここは真剣な場面です。私も真面目に説明を続けました。


 


「……ですが、私たちシスターは“純潔”を神に誓った身です。

この技を使うと、悪魔祓いの力そのものを失ってしまう可能性がある。

つまり、この技を使えるのは──“神の御前で永遠の愛を誓った女性”、すなわちメイ様だけなのです」


 


「そ、その時が来れば、わたくしが……リングの上で……夫を押し倒して……」


 


 途端に、メイ様の意識が飛びました。

私が次の一撃を打つ前に、もう腹筋に力が入っていないことが分かります。


 


 しかし拳は止められない──


 


「ッ──すみません、メイ様!」


 


 ゴスッ!


 


「ん……ぐ……ぅぅ……」


 


 表情が歪み、膝が震える。

私は即座にあのバケツを差し出す。


 


「……っっ、大丈夫ですわ……もう、慣れましたの……」


 


 震える声で、彼女は言った。

確かに、目には涙が浮かんでいたが──


 


 吐かなかった。


 


(……なんて、根性……)


 


 思わず、口元が綻んだ。


 


「ふふっ……すごいですよ、メイ様。さすが、“本気の拳”を知った女は違いますね」


 


「ジュリアさんが言うと怖いですわ……」


 


 その呟きにくすりと笑って、私は汗を拭き取るタオルを渡しました。


 


 しかし、その平和な時間は──


 


「……ちーっす。荷物どこ置きゃいい?」


 


 ──乱暴な声とともに、破られました。


 


 振り返ると、屋敷の玄関ホールに、派手なアクセサリーを付けたスレンダーな女性が立っていました。

シスターだというのに、まるでヤンキーのような佇まい。露出度の高い改造メイド服。


 


「イヴ……!!」


 


 思わず、顔が引き攣る。


 


「へぇ、ここが噂の屋敷かあ……。ジュリア、アンタがこの屋敷で苦戦してるって聞いて、助っ人に来てやったわよ」


 


「……苦戦などしていません。誰も頼んでいませんし」


 


「ちぇー。そーいう態度取るから可愛くねぇんだよ、アンタ」


 


 最悪です。よりによって、この女が来るとは──

イヴ。私の同僚にして、一時期ジムを破門された“外道シスター”。


 


「ま、どーでもいいけど。とりあえず、そこの悪魔憑き、挨拶させろよ」


 


 言うなり、イヴは勝手にパウロ様の部屋に向かいました。


 


「は、はじめまして、メイと申しますの。こちら、わたくしの夫、パウロですわ」


 


 私が慌てて追いついたとき、すでにイヴはソファに座ってふんぞり返っていた。


 


「おう、悪魔付きのパウロ。アンタ、見た目のわりにマジで情けねーな。

あの程度のシスターにボコられて、奥さんにまで殴られて、プライドねぇの?」


 


「え、ええと……その……」


 


 パウロ様が視線を彷徨わせたその瞬間──


 


「──ぐゥっ……」


 


 来た。


 


「パ、パウロ様!? 発作ですわ!!」


 


 再び身体が硬直し、口元が引き攣る。悪魔の力が、発露し始めていた。


 


 私は構えに入ろうとした──その瞬間。


 


「へっ、出番ってわけね。あたしがやるよ。そっちで準備しな」


 


 イヴが立ち上がり、グローブを引き締めた。


 


 不敵な笑みの奥に、何か“違う気配”が宿っているのを、私は見逃さなかった。


 


(……やはりこの女、“アレ”を……)


 


 不安と緊張が張り詰めるリング。

イヴとパウロ様が向き合う──次なる戦いの火蓋が、いま落とされようとしていた。


 


(つづく)

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