第4話 後編「愛と屈辱と信頼のキス」

【メイ視点】



 


──痛みを、与えるたびに。


 


 わたくしの中に、得も言われぬ熱が湧き上がってくるのを感じておりました。


 


「ほら、立ちなさいませ、パウロ様。今度はどこを殴られたいのかしら?」


 


 拳を構えるたび、声を発するたび、背筋を電気が走るような興奮が走る。

わたくしは今、夫を──愛する人を──挑発して、殴って、屈服させているのです。

そんなこと、絶対に間違っていると分かっているのに、体が止まらない。


 


 ──どうして。こんな、はしたない気持ち……。


 


「はあっ!」


 


 わたくしの拳が、パウロ様の頬を打ち抜く。

赤く腫れた皮膚に汗が飛び散り、リングが軋む。


 


 ──見てはならぬものを、見てしまった。


 


 目の前には、わたくしが殴り続けた“結果”があった。

腫れ上がり、鼻は曲がり、目はほとんど開かず、唇は切れている。


 


「……あっ……あああ……」


 


 わたくしの足元に、崩れるようにパウロ様が座り込む。


 


「な、なにを……わたくし……わたくしは……!」


 


 膝から力が抜けた。震えが止まらない。

わたくしは、ただ、自分の拳のせいで傷ついた夫の姿を見て、呆然と立ち尽くした。


 


 でも──その時、見えたのです。


 


 腫れたまぶたの隙間から、わずかに覗く瞳。


 


 それは──確かに、“パウロ様”の目でした。


 


 


【パウロ視点】


 


──俺のせいだ。


 


 意識の奥底から、どうしようもない罪悪感が溢れてくる。

さっきのあの一発──

彼女をダウンさせたボディブローを放ったのは、この俺の身体だ。


 


(……俺、メイを傷つけたんだ)


 


 しかし、メイが立ち上がったのを見て、言葉にできない感情がこみ上げてきた。


 


 弱い俺を見捨てずに、逃げずに、ここまで来てくれた彼女を──


 


(……俺も、がんばらなきゃ……!)


 


 それは言葉にする間もなく、俺の意識に宿った。


 


 ──ペルフェコールの支配力を、押し返す。


 


 この身体を、少しでも奪い返す。


 


 肉体の一部の支配権が戻った瞬間、俺はメイに向かって身体をよろめかせ、クリンチを仕掛けた。

耳元に、そっと言葉を忍ばせる。


 


「メイ……ちょっと提案がある」


 


「……パウロ様?」


 


「今……俺とあいつの意識が混ざってる。だからこそ、できることがある」


 


 俺は呟いた。


 


「今まで、屈辱的な状況になると、悪魔は逃げて祓えなかった。でも……

今、俺自身が“自分で自分に恥をかかせる”ような真似をすれば──」


 


「……!」


 


「やってくれ、メイ。お前にしかできない、トドメの屈辱を」


 


 


【メイ視点】


 


 夫の言葉の意味を、わたくしはすぐに理解しました。


 


「……分かりましたわ。任せなさいませ」


 


 わたくしは、無言でグローブを構え、夫の鳩尾へ──


 


 ドスッ!


 


「……ぐはっ……!」


 


 パウロ様が息を詰まらせ、膝をついて倒れる。


 


 わたくしは、彼の目の前に仁王立ちし、唇を歪ませて笑いました。


 


「では、命令いたしますわ──

わたくしの靴に、キスなさい」


 


 リングが静まり返った。

誰もがその命令を、耳を疑っていた。


 


 パウロ様の体が、震えながらも、わたくしの足元ににじり寄る。

唇が、わたくしの靴のつま先に触れた──その瞬間。


 


「ぐわああああああああああああああああッ!!!!」


 


 響き渡る、悪魔の絶叫。

血のようにどす黒い瘴気が、パウロ様の体から吹き出し、天井へと霧散していく。


 


 ──試合、終了。


 


◆ ◆ ◆


 


「……わたくし……わたくし、ひどいことを……

パウロ様に、合わせる顔がありませんわ……」


 


 控室でうずくまるわたくしの肩に、そっと毛布がかけられた。


 


「メイ様……あなたは間違っていません」


 


 ジュリアさんの声は、いつになく静かだった。


 


「私たちは、決して“遊び”で男の方を辱めているわけではありません。

悪魔を祓うために、信仰と覚悟を持って、戦っているんです。

快感に呑まれそうになるたびに、それを信仰心で押し込めて。だから……キツイ仕事なんですよ」


 


「……ごめんなさい、ジュリアさん。

先日、貴女のこと、あんなふうに……」


 


「許しますよ」


 


 彼女は柔らかく笑った。


 


「ですが、それはそれとして──

ボディ一発で倒れるメイ様は、明日から地獄の腹筋鍛錬です♡


 


「……ひぃ……」


 


(……やっぱりジュリアさんが一番の悪魔ですわ……)


 


 


【パウロ視点】


 


──リングの外。俺は、ようやくベッドに戻り、静かに目を閉じた。


 


 体中痛い。顔もズキズキする。

けど、気持ちは、妙にスッキリしている。


 


(……今、あいつ……)


 


 心の中に、かつてないほど小さく縮こまった気配がある。


 


 ペルフェコールだ。あの尊大な悪魔が、もはや呻き声すら上げられないほど萎れている。


 


 ──でも。


 


(……まだ、完全には祓えてない)


 


 残ってる。小さく、しつこく、へばりつくように。


 


 ふと、思った。


 


(……そもそも、こいつ……)


 


「なんで人間界に来たんだ?」


 


 その答えを、まだ誰も知らない。


 


(つづく)

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