第4話 前編「拳で語るのならば、まず心を鎮めて」
【ジュリア視点】
──メイ様、本当に、そこまでされるおつもりでしたか。
私は、リングの外でグローブを持ったまま、震える指を組み直した。
視線の先では、可憐な淑女がグローブを構えリングに立っていた。
その姿が──今はあまりにも勇ましく、誇り高く、美しい。
しかし、同時にあまりにも危うい。
私、ジュリアには分かる。
拳の構えひとつ、呼吸の深さひとつで、その者が“どこまで限界か”が見える。
メイ様は……限界の向こう側へと、足を踏み出してしまっている。
(本来であれば、あんな状態の人を試合に出すなど──あり得ないのです)
それでも私は、止めなかった。
止められなかったのだ。
「勝てたら、あなたにしかできない特別な方法を……伝授いたします」
静かに呟いたその言葉が、私の心を締め付けた。
(お願いです。どうか、勝ってください)
◆
メイ様は怒りのまま、拳を振るっていた。
その拳に迷いはない。躊躇いも、ためらいもない。
だが、あるべき“冷たさ”も、ない。
それは、“ただの怒り”だった。
「くっ……!」
パウロ様──いえ、今は“悪魔”の顔をした彼──は、最初こそその勢いに押されていた。
だが、段々と……そう、“徐々に”適応してきたのだ。
人間離れした反射、鋭いステップ、そして──放たれた鋭いボディブロー。
「う、ぐっ……!」
メイ様の体がくの字に折れ、膝をつく。
「メイ様ッ!」
私はリングサイドに駆け寄り、叫んだ。
「思い出してください! 前にお教えした、“悪魔祓いの秘訣”を──!」
その言葉は、メイ様の意識を、過去へと引き戻すはずだった。
◆
(──三日前)
「っは……はぁ、はぁっ……」
グローブを付けたまま、メイ様は私の構えるミットへ必死にパンチを放っていた。
しかしそれはもはや、“打つ”というより、“押し当てている”に近い。
腕の筋肉は悲鳴を上げ、脚もがくがくと震えている。
「もう……もう無理、ですわ……!」
メイ様がその場にへたり込み、口を押さえる。
「あっ……」
私は即座に傍にバケツを滑らせた。
「うぇぇっ…うぅ……ご、ごめんなさい……」
「いえ、お気になさらずに。最初の一吐きは通過儀礼のようなものですから♡」
わたくしの微笑みに、メイ様は本気で顔をしかめた。
(ふふっ……可愛い)
口元を拭き取って差し上げながら、私は話を続けた。
「さて、ここまで耐えたメイ様に、わたくしから特別な“秘訣”をお教えしますね」
メイ様の目がわずかに見開かれた。
「……秘訣?」
「ええ。“悪魔に屈辱を与えるための、本質的な流儀”です」
私はそっと、彼女の耳元で囁いた。
「──“憎しみ”は、悪魔に力を与えてしまいます。
だから、拳に込めるべきは怒りではなく、“蔑み”と“嘲笑”なのです。
心から、見下して、笑って、哀れんであげてください」
その言葉に、メイ様は目を見開き、唇を噛んだ。
「……そんなの、できませんわ……」
「だから練習するのです。さあ、立ちましょう?吐いたぐらいじゃ終わらせませんよ?」
私が手を差し伸べると、メイ様はうめくように言った。
「貴女が……一番の悪魔ですわ……!」
私は満面の笑みでうなずいた。
「ええ、たまに言われます♡」
◆
(──現在)
メイ様は、血の滲む唇で、ゆっくりとリングに立ち上がった。
その姿は、殴られた者とは思えないほど凛としていた。
──怒りは、そこにもう無かった。
彼女は、笑っていた。
「まあ……パウロ様。たったこれだけで息が上がってしまうなんて。
やはり、悪魔憑きになっても、軟弱な旦那様ですわね?」
その声は、明らかに“演技”だった。
だが同時に、見事だった。
「……あら、そんな顔して。悔しいの? でも安心なさい。
貴方はわたくしに殴られるだけの価値があるって、少なくとも身体は思ってますわよ♡」
メイ様は、挑発的な笑みを浮かべながら、構え直す。
その笑顔に、私は──心から、惚れ直した。
(……やはり、あなたは“本物”です)
そして私は確信した。
(──もしこの試合に勝ったなら。あなたに、あの“手段”を伝えましょう)
(つづく)
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