第4話 前編「拳で語るのならば、まず心を鎮めて」

【ジュリア視点】


 


──メイ様、本当に、そこまでされるおつもりでしたか。


 


 私は、リングの外でグローブを持ったまま、震える指を組み直した。

視線の先では、可憐な淑女がグローブを構えリングに立っていた。

その姿が──今はあまりにも勇ましく、誇り高く、美しい。


 


 しかし、同時にあまりにも危うい。


 


 私、ジュリアには分かる。

拳の構えひとつ、呼吸の深さひとつで、その者が“どこまで限界か”が見える。

メイ様は……限界の向こう側へと、足を踏み出してしまっている。


 


(本来であれば、あんな状態の人を試合に出すなど──あり得ないのです)


 


 それでも私は、止めなかった。


 止められなかったのだ。


 


「勝てたら、あなたにしかできない特別な方法を……伝授いたします」


 


 静かに呟いたその言葉が、私の心を締め付けた。


 


(お願いです。どうか、勝ってください)


 



 


 メイ様は怒りのまま、拳を振るっていた。

その拳に迷いはない。躊躇いも、ためらいもない。

だが、あるべき“冷たさ”も、ない。


 


 それは、“ただの怒り”だった。


 


「くっ……!」


 


 パウロ様──いえ、今は“悪魔”の顔をした彼──は、最初こそその勢いに押されていた。

だが、段々と……そう、“徐々に”適応してきたのだ。

人間離れした反射、鋭いステップ、そして──放たれた鋭いボディブロー。


 


「う、ぐっ……!」


 


 メイ様の体がくの字に折れ、膝をつく。


 


「メイ様ッ!」


 


 私はリングサイドに駆け寄り、叫んだ。


 


「思い出してください! 前にお教えした、“悪魔祓いの秘訣”を──!」


 


 その言葉は、メイ様の意識を、過去へと引き戻すはずだった。


 



 


(──三日前)


 


「っは……はぁ、はぁっ……」


 


 グローブを付けたまま、メイ様は私の構えるミットへ必死にパンチを放っていた。

しかしそれはもはや、“打つ”というより、“押し当てている”に近い。

腕の筋肉は悲鳴を上げ、脚もがくがくと震えている。


 


「もう……もう無理、ですわ……!」


 


 メイ様がその場にへたり込み、口を押さえる。


 


「あっ……」


 


 私は即座に傍にバケツを滑らせた。


 


「うぇぇっ…うぅ……ご、ごめんなさい……」


 


「いえ、お気になさらずに。最初の一吐きは通過儀礼のようなものですから♡」


 


 わたくしの微笑みに、メイ様は本気で顔をしかめた。


 


(ふふっ……可愛い)


 


 口元を拭き取って差し上げながら、私は話を続けた。


 


「さて、ここまで耐えたメイ様に、わたくしから特別な“秘訣”をお教えしますね」


 


 メイ様の目がわずかに見開かれた。


 


「……秘訣?」


 


「ええ。“悪魔に屈辱を与えるための、本質的な流儀”です」


 


 私はそっと、彼女の耳元で囁いた。


 


「──“憎しみ”は、悪魔に力を与えてしまいます。

だから、拳に込めるべきは怒りではなく、“蔑み”と“嘲笑”なのです。

心から、見下して、笑って、哀れんであげてください」


 


 その言葉に、メイ様は目を見開き、唇を噛んだ。


 


「……そんなの、できませんわ……」


 


「だから練習するのです。さあ、立ちましょう?吐いたぐらいじゃ終わらせませんよ?」


 


 私が手を差し伸べると、メイ様はうめくように言った。


 


「貴女が……一番の悪魔ですわ……!」


 


 私は満面の笑みでうなずいた。


 


「ええ、たまに言われます♡」


 



 


(──現在)


 


 メイ様は、血の滲む唇で、ゆっくりとリングに立ち上がった。

その姿は、殴られた者とは思えないほど凛としていた。


 


 ──怒りは、そこにもう無かった。


 


 彼女は、笑っていた。


 


「まあ……パウロ様。たったこれだけで息が上がってしまうなんて。

やはり、悪魔憑きになっても、軟弱な旦那様ですわね?」


 


 その声は、明らかに“演技”だった。

だが同時に、見事だった。


 


「……あら、そんな顔して。悔しいの? でも安心なさい。

貴方はわたくしに殴られるだけの価値があるって、少なくとも身体は思ってますわよ♡」


 


 メイ様は、挑発的な笑みを浮かべながら、構え直す。

その笑顔に、私は──心から、惚れ直した。


 


(……やはり、あなたは“本物”です)


 


 そして私は確信した。


 


(──もしこの試合に勝ったなら。あなたに、あの“手段”を伝えましょう)


 


(つづく)

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