第3話「その拳は、愛か屈辱か」

【パウロ視点】


 


──これは夢だ。夢であってほしい。


 


 目覚めた時、俺は真っ先に自分の顔を触った。

骨のきしむ痛み、割れた唇、青く腫れた頬。残念ながらこれは現実だった。


 


 昨夜の出来事が脳裏にフラッシュバックする。

風呂場で突如として悪魔の力に引きずられ、全裸のまま家中を暴れ回り、

そして、妻──メイに殴られ、挑発された。


 


『恥ずかしくないんですの!?』


 


 あああああ、駄目だ。思い出しただけで胃が痛い。

メイはあんなにも優しくて、清らかで、恥じらい深い女性だったのに──

まさか俺に向かって、あんな台詞を、真顔で、しかも拳と共に。


 


(……このままでは……)


 


 俺はベッドに突っ伏して呻いた。


 


(……このままでは、俺の性癖がおかしくなってしまう……!)


 


 あれが、良かったわけではない。むしろ本当にショックだった。

だが脳の奥に妙な回路ができたような気がする。新しい扉が叩かれているのだ。

いやだ。俺は、普通の愛を求めていたのだ……!


 


『ふっはははは! “普通”の愛? 人間とはかくも哀れな生き物よ』


 


 脳内に、あの声が響く。


 


「……悪魔め……」


 


 最初は霞のようだったその存在が、日に日に色濃くなっている。

自分の意識の裏にいるもう一つの“意志”──それが、コイツだった。


 


『我こそはペルフェコール、地獄の第七王権に連なる純血の高位悪魔なり。

このような屈辱……耐えがたき仕打ち……だが、我が意志は不滅ぞ……!』


 


 強がっているが、声は微かに震えていた。

たしかに彼は誇り高く、魔力も桁違いに強い。だが、それゆえに“辱め”に弱い。


 


(──だからこそ、だ)


 


 俺は確信していた。

この悪魔を完全に祓うには、ただ殴るだけでは足りない。

彼の“芯”──誇り、威厳、尊厳。それらを完全にへし折らなければならないのだ。


 


 問題は、そのためにどれほどの地獄を、俺が通らねばならないかということだが。


 


(……メイ、だけは……巻き込みたくなかったんだけどな……)


 


 


【メイ視点】


 


「……相当なしぶとさですね。顔を踏まれても一日も保たなかったなんて」


 


 ジュリアさんは、今日も筋トレをしながら平然と恐ろしいことを言っていた。


 


「それだけ強大な悪魔ということです。もしかすると、地獄の大貴族クラスかもしれません」


「……大貴族……」


 


 私はグローブを拭きながら、小さく呟いた。

昨日の一件でパウロ様を沈められたのは、きっと偶然。奇跡のような一致に過ぎない。


 だが──


 


「メイ様、ひとつ思ったのですが」


 


 嫌な予感がした。


 


「悪魔が昨日、すんなり鎮まったのって……」


「……ええ」


「“全裸”だったからでは?」


「……」


「つまり、パウロ様をまた“全裸”にすれば、悪魔への屈辱効果が高いのではと思いまして」


「……っ!?」


 


 私はグローブを落とした。 


 


「その上で、今後の儀式は中継映像を通じて他のシスターたちにも見せましょう。

つまり──“全国晒し者コース”でございます♡」


 


「やめなさいいいいいいッ!!」


 


 あまりの発言に、私はつい怒鳴ってしまった。

ジュリアさんは、目をぱちくりさせていた。


 


「いくら何でも限度がありますわ! 貴女、夫を辱めて楽しんでいるだけではないですの!?」


 


 その瞬間、ジュリアさんの顔から笑顔が消えた。


 


「……申し訳ありません。わたくしは……そのつもりでは……」


 


 彼女が本当に反省しているのだと分かるほどに、声は小さかった。

けれど、私は止まらなかった。


 


「もう、見ているだけは嫌ですわ。……わたくし、自分の手で、パウロ様を救いたい」


 


 深呼吸をひとつ。拳を握りしめて、私はジュリアさんを見据えた。


 


「ですから──ジュリアさん。わたくしに、ボクシングを教えなさい」


 


 彼女の目が、ほんの少しだけ見開かれた。

だがすぐに、柔らかな笑みが戻った。


 


「──かしこまりました、メイ様」


 


 


【パウロ視点】


 


 数日後。俺は、また“意識の底”に沈んでいた。


 


 自分の身体が、自分のものでないような感覚。ペルフェコールに主導権を奪われているとき、俺はただ、薄暗い檻のような場所で、外の光景をぼんやりと見ているしかない。


 


 今、俺の身体はリングの上にいた。


 また、ジュリアさんの拳が降ってくる。挑発が飛んでくる。

羞恥と屈辱が、グローブに乗って全身に打ち込まれる──


 


 ──そう思っていたのに。


 


「──ぬ……?」


 


 リングに上がってきたのは、ジュリアさんではなかった。


 


 スカートの下からのぞくレギンス。薄く汗を滲ませた額。

それは──


 


 愛する妻、メイだった。


 


 彼女は、拳を構えた。そして──かつて見たことのないような目で、俺(たち)を睨みつけた。


 


「お覚悟なさいませ、パウロ様。……いえ、悪魔」


 


 その声には、怒りが滲んでいた。

そして、同時に決意と──痛みがあった。


 


「これまで、どれほど夫が恥をかかされてきたと思って……。その罪──そのプライド──この拳で叩き潰して差し上げますわッ!」


 


 ゴォッ、と風を切る音。彼女の拳が唸る。


 


 俺は、動けなかった。ペルフェコールも、微かに震えていた。


 


(──これは、今までとは違う)


 


 そう思った瞬間──彼女の拳が、飛んできた。


 


(つづく)

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