第2話「全裸悪魔と聖水の拳」
「……いえ、分かってはいるのです……。
これは、パウロ様を救うため……そう、愛の拳なのでございます……」
ぎゅ、と革のグローブを握り締めて、私はリングの外から祈るように見守っていた。
目の前のリングでは、今日もジュリアさんが聖水グローブでパウロ様を容赦なく殴りつけている。
「おほほほほ! それでも男ですのぉ!?♡」
そう叫びながら放たれるパンチは、まるで聖母の慈悲のように的確で残酷。
しかも今日のジュリアさんは、やけにノッていた。
「恥ずかしい声、出ちゃいましたわね? さすがは“屈辱”を嫌う悪魔さん♡」
……いくらなんでも、そのセリフは恥ずかしすぎます。
リングサイドで口元を押さえている私に、シスター見習いの少女が耳打ちしてきた。
「奥様も少し、挑発してみたらどうですか? 外からでも悪魔に屈辱を与えられますよ?」
「えっ、わ、わたくしが……?」
「愛の力で、悪魔にダメージを!」
少女はきらきらと目を輝かせた。言っていることはまっとうである。私も、できることはやらねば。
「……お……おっほほ……。ええと……その……やぁねぇ……わたくしのパウロ様が……」
周囲の目を感じながら、お嬢様風に手を口元に添えてみる。
「女の人に……あんなに……やられちゃって……っ、まぁ、はしたない♡」
──言ってから、自分で顔が沸騰するように熱くなった。声も裏返った。
ジュリアさんがチラリと私を見て微笑み、リング内でさらに気合いを入れる。
「……では、“仕上げ”とまいりましょう♡」
パウロ様がふらつきながら膝をついたその瞬間、ジュリアさんはスッと彼の顔の上に足を乗せた。
「──我が足の下、屈辱の極みを味わいなさいっ!」
パウロ様が、ぴくりと身体を震わせた。
……その震えとともに、リング上に漂っていた冷たい空気が、ふっと消えた気がした。
「……ふぅ。これで、本日の儀式は完了でございます」
ジュリアさんはグローブを外し、ぺこりとお辞儀をした。リングの中では、倒れたパウロ様がぼんやりと天井を見上げている。
◆
「さて、メイ様。明日の件で、ひとつ申し上げねばならぬことがございます」
儀式後の控え室で、ジュリアさんが聖水グローブを箱に収めながら言った。
「明日、私……女子ボクシングの防衛戦がございまして、どうしても不在となりますの」
「……女子ボクシング?」
「はい。実は私、現在この国のライト級チャンピオンでございます」
さらりと恐ろしい事実を口にした。
「そもそも、私たちシスターズ・ジムは、悪魔祓いの布教活動の資金源として、ボクシングを副業にしているのでございます。
いまでは、教会よりもジムとしての知名度のほうが高くなってしまいまして……ふふ、困りましたわね」
いや、それは困るとかの問題ではない。
「ですが、明日は他のシスターも全員出払っておりまして、ジム本部からの援軍も期待できません。そこで…」
ジュリアさんは、私の手に小さな木箱を渡してきた。
「中には、聖水を染み込ませた特製のグローブが入っております。“顔を踏む”という強めの屈辱を与えましたので、2日は発作を起こさないと思いますが……万が一の際は、メイ様がパウロ様を殴ってくださいませ」
「む、無理ですわ! 私、ボクシングなど……!」
「大丈夫です。悪魔憑きの方は、肉体の制御がまともにできておりませんので、ぶっちゃけ弱いです」
ジュリアさんは屈託なく笑った。
「それに、パウロ様って……ガリガリですし。聖水グローブなくても、まあ勝てるかと」
「……ガリガリとは、失礼ですわね……」
つい口に出してしまった。
◆
翌日。
私は屋敷のあちこちを落ち着きなく歩き回っていた。
いつ発作が起きるか、パウロ様がどこで豹変するか、常に神経が尖っていた。だが──
何も起きなかった。
「メイ? 大丈夫?」
「……え、あ、はいっ。あの……今日のあなたは、とても……穏やかですわ」
久しぶりに戻った、穏やかなパウロ様。ふたりで一緒に紅茶を飲み、庭を眺めて、何の変哲もない時間が過ぎていく。
……これが、私たちの本来の姿。そう思えるひとときだった。
夜になり、お風呂の準備をしていたその時──
「ギョォオアアアアアア!!!」
風呂場から、地の底から響くような咆哮が聞こえた。
「パウロ様!?」
バスタオル片手に飛び込んだ私は、衝撃の光景を目にした。
──全裸で暴れる夫。
「ふひぃ……! 解放されたぞ……! 魂の殻が、破れたあああッ!!」
「み、見ちゃ……いけませんわ!!」
私は叫びながら、慌てて聖水グローブを引っ掴み、目をそらしたまま拳を構えた。
だが──
「きゃっ……!?」
目をそらしていては、当然当たらない。むしろ、グローブに気づいたパウロ様(というか悪魔)は、悲鳴のような声を上げて走り出した。
「ど、どこへ行かれますの!?」
裸の夫が廊下を全力疾走するという、令嬢人生で想定していなかった事態に、私はもう涙目だった。
このまま屋敷の外にでも出られたら、きっと警察沙汰だ。新聞に載る。社交界での立場が消し飛ぶ。
「お待ちになってぇぇぇぇええええ!!」
気力を振り絞って、私は全裸の夫を追い詰めた。ついに階段の踊り場で対峙する。
「め、メイ……やめろぉ……それ以上近づけば……!」
「殴りますっ!」
叫んで、拳を叩き込む。
「こんな……はしたない格好で……! わたくし、耐えられませんわ!」
右ストレート。左フック。背筋を震わせながら、私は夫に拳を重ねた。
「女に殴られて……恥ずかしくないんですの!?」
──バタン。
その瞬間、全裸のパウロ様が、静かに崩れ落ちた。
「……メイ……?」
ぼんやりと見開かれた目に、正気の光が宿っていた。
私は、そのままパウロ様を抱きしめた。
「よかった……本当に、よかったですわ……」
裸の夫を胸に抱きしめながら、涙が滲んでくる。私は、救えたのだ。愛する人を。
その時、扉が開いた。
「ただいま帰りました。無事に防衛成功……え?」
ベルトを肩にかけたジュリアさんが立っていた。目の前には、全裸の男と、それを抱きしめる女。
「──仲がよろしいことで♡」
私の顔は、これまでにないほど真っ赤に染まった。
(……いつか、ジュリアさん。絶対に貴女を、一発殴りますわ)
(つづく)
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