【読後の悪い物語】過去を叩きのめすパン

花田(ハナダ)

第1話

 風の強いとある冬の日。

 近所の公園の一角に、パンの販売車が停まっているのを見て、男は足を止めた。 


『過去を叩きのめすパン、100円』


 陳列棚の端っこの商品札に書かれたその一文に目を引かれ、つい立ち止まってしまった。

 パンには一つ一つビニール袋に入れられ、秩序よくに並べられている。その背後では陽気な音楽が流れている。


「いらっしゃい」


 徐ろに店主が現れた。 

 小柄な中年男は、白い帽子をかぶり、白いコックコートを着ていた。


「税抜きですか」


 男が訊ねると、小柄な店主はニコニコと答える。


「税込みですよ」


「安いですね」


「安いですよ」


 男は『過去を叩きのめす』と表示されて売られているパンを手に取った。驚くほど軽い。


「チョココロネにチョコが入っていないパン。ですね」


 期待外れを顔に出した男が言うと、店主は大きく首を振る。


「いやいや。それだけじゃないですよ。覗くと過去が見えますし、叩きのめすこともできますよ」


 店主の小さい目が優しげに、ニッコリと笑う。


(はぁ?)


 過去が見える?

 叩きのめす?

 

 店主の荒唐無稽な発言を聞こえなかったふりをして、男は100円を店主に渡した。

 

「ありがとうございます」


 店主は穏やかに笑って男にパンを渡した。



 公園のベンチに座ってガサガサと袋を開けた。巻き貝のような形のパンはこんがりと焼けている。中身はない。


(空っぽだ)


 パンに誘われるまま男が中を覗き込むと、ふと、向こう側が明るくなった。

 男は息を飲んだ。

 そこに見えたのは中学の制服を着た女だった。そのブレザーの制服も、2つに結んだくせのある髪の女にも、見覚えがある。

 女はこちらを見て、顔をしかめた。


ーーこっち見んなデブ。


 女の言葉に男は思わず目をそらす。それは、実際にあった話。過去にあった事実の話。

 自分を嘲る声が当時の痛みと憤りとともに脳裏に蘇る。


(あいつは自分を口汚く罵って俺を仲間外れにした女だ)


 その時、肩に手を置かれて振り返った。

 店主の男がにこやかな表情で立っている。


「さあ、これを」


 差し出されたのは、黒い金槌だった。受け取って、店主をみる。

 これは、どういうことなのか。


(金槌?)


 男は店主が何を言いたいのかわからないと思いつつ、心の奥底では知っているような気がした。


「叩きのめしてください」

 

 店主はとどめの一言を言ったその時、コロコロとボールが転がってきた。公園で遊んでいた子どもが投げ損じたのだろう。顔をあげると、目の前にそこには、小さな子どもと母親らしき中年女性がいた。

 その女性と目が合った瞬間、心臓が飛び出るかと思った。やや老けたけれど、そこにいるのは確かに、コロネの先に映った同級生だったのだ。トレーナーに細身のデニムという普通の出で立ちなのに清潔感があった。ちゃんと美容院に通い、定期的に新しい服を買っているのだろう。育児にかまけて、女を捨てないオシャレママだ。

 ボールを投げ返すと、女性と子どもは頭を下げた。


「ありがとうございます!」


 大きな声で例を言って、砂場にできた友だちの輪に戻っていく。


(人を傷つけおいて子どもがいるのか。友だちもいるのか。幸せに暮らしているのか)


 男は金槌を持ち直す。


「それでもいい。どうでもいい」


 そう言いながら、男は立ち上がって同級生の女に近づくと、ハンマーを振り上げていた。


「過去を叩きのめすんだよ」


 悲鳴を聞いた気がする。

 意識の遠くで。

 振り下ろしたときの鈍い感触が、柄を握りしめた手の平から、肩から、腹の底へとつたわっていく。どさりと倒れた女を見て、ふつふつと笑いがこみ上げた。


(お前は人を傷つけたんだから、このくらい仕方ない)


 どうせ今も人を見下して生きているんだろう。夫も子どももいて、豊かで幸せであるという優越感から。

 ふと、子どもの泣き声が耳を貫いた。母親が倒れたことに泣いたのだろうか。


「ごめんね。君には罪はないんだ」


 優しく、諭すように言ったとき、また、肩に手を置かれた。


「さあ、もう一度覗いてください」


 振り返るとパン屋の店主が立っている。チョコなしチョココロネを持って。

 見てはいけない気がした。でも、店主は無理矢理に目の前にパンを押し出してきた。空っぽのパンの中身が視界に入ると、男は映し出された「それ」から目を離せなくなった。

 パンの真奥、遠くにいたのはコンビニの店員だった。初出勤らしく、レジにまごついている。

 それはいつだったかは定かではない。でも、確かに覚えている。急いでいた男は、わざとらしく舌打ちした。


「ブス。使えねぇな」


 そう言い残して、男はコンビニを出ていく。


 耐えられずにパンから視線をそらす。

 足元が震えていた。あれは自分が誰かを傷つけた瞬間じゃないか。視界の先で、誰かが近づいてきた。砂場に集まっていたママ友の集団の中の一人だ。

 その顔に見覚えがあった。


(まさか)


 コンビニの、あの店員だった。


「自分は誰も傷つけたことがないとでも思ってんのかよ」


 女の手には男のと同じハンマーが握られている。 

 泣き止まない子どもしゃくり声がうるさい。


(許してくれ)


 男の願いなど届くはずもなかった。

 頭上に女の腕が振り上げられ、自分のこめかみにハンマーが落ちてくるのが見えた。

 そこからは、もう、男は何も覚えていない。



 店主は店じまいをして運転席に乗り込んでいた。


「人は弱いねぇ」


 嬉しそうに呟いて、ニタニタと笑った。バックミラーには、いつもどおりの公園が映っている。変わっていることといえば、ベンチに中年の男が横たわっているくらいだ。どうせ酔っ払いだろうと、誰も見向きもしなかった。


 その公園に二度とパン販売車は来ない。






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