第10話 野村望東尼の平尾山荘の謎

 福岡では幕末から明治維新の事はあまり語られません。知っている人は多いでしょうが、幕末1865年に福岡藩11代藩主黒田長薄は加藤司書や月形洗蔵の勤王派を粛清しました。明治になってからは太政官札贋造事件で廃藩置県をまたずに知藩事の黒田長知は閉門となりました。

 黒田長溥は暗愚ではなく島津斉彬や鍋島直正のように開明的な殿様で、武器を製造する鉄鉱炉を建設したり軍備の洋式化を進めようとしますが、家臣は旧式の軍隊にこだわります。その上で筑前勤皇党と佐幕派との藩内は分裂していきます。

 第一次長州征伐においては内戦を避ける黒田長溥の思いと勤王派の思いが一致し福岡藩の周旋もあり長州藩は三家老の切腹、参謀四名斬首、五卿の筑前転座(太宰府延寿王院)で寛大な処置で終わりました。筑前勤皇党は五卿の受け入れの周旋をしました。その後、長州内では俗論派が主流になります。これを高杉晋作は奇兵隊をもって藩論を正義派へとひっくり返します。残念ながら筑前勤王党や福岡藩の支援は無駄になり幕府から長州同気を疑われて福岡藩は苦境に立たされます。

 黒田長溥は福岡藩11代藩主ですが黒田家の血筋ではなく薩摩藩主・島津重豪の九男です。開明的な君主ですが、あくまで幕藩体制の上で開国・富国強兵を唱え家臣を取りまとめられず、また時局を見極められず、乙丑の獄を引き起こします。最悪なのは加藤司書を切腹させ筑前勤皇党を壊滅させた事です。野村望東尼も姫島に流刑となります。更にひどいのは鳥羽伏見の戦いの結果を見て新政府軍に寝返り。勤王党を弾圧した三人の家老を切腹させたました。

 野村望東尼は福岡藩士・浦野重衛門勝幸とミチの二女です。初婚は離縁してその後に学問・書・歌を習い始めます。再婚相手の野村新三郎貞貫とは同門、老後の隠居場所にと平尾山荘を建てます。野村家当主を息子に譲り引退して別荘で花鳥風月を愛で、歌や書の習い事をしながら旅行を楽しむ悠々自適の老後を思い描いていました。現代風に言うとリア充な老後を目指していました。ところが本人の意思とは裏腹に次々と起こる不幸に見舞われ否応なしに歴史の舞台に登場します。

 赤坂の小高い場所の野村望東尼の誕生地に石碑が建っています。そのすぐそばの電柱には略歴が書かれた看板があります。野村貞貫と再婚し大隈言道は夫婦の歌の先生でした。後年夫の貞貫が亡くなり、54才で得度剃髪し野村望東尼と名乗ります。京都に旅行がてら大隈言道を大阪に訪ね、歌会に参加し勤皇商人馬場文英と知り合います。政治情勢に関心を持ち情報を福岡と関西相互に伝えたり福岡の勤皇志士に潜伏先に平尾山荘を紹介しました。誰が情報を流しているのか発覚して幽閉後に姫島に流されました。

 平尾山荘は秋冬は寒くて望東尼は本宅に戻りました。現在の山荘は当時の建物ではなく再建された建物です。今見ても場所も建物の構造も寒さには耐えられそうにありません。平尾山荘の謎はこのレリーフのように高杉晋作を匿って交流したと信じられていますが、実際に平尾山荘でレリーフの絵のように望東尼と高杉晋作は交流したのでしょうか。これは当時の一時的な文献が無いようで、後世に創作された話とも言われています。


 高杉晋作は第一次長州征伐において下関から筑前に逃れ、中村円太に連れられ博多で密談、博多より佐賀に渡り決起を促しますが、佐賀藩は鍋島直正の様子見でどっちにもつかない方針もあり不調に終わり、晋作は博多に一旦戻ります。ここから10日程平尾山荘に潜みます。平尾山荘に潜伏していたのは事実ですが、山荘で野村望東尼と意気投合して歌のやり取りがあったかどうかは創作ではないかと言われています。交流はあったとしても山荘ではなく野村家当主である孫の助作の本宅ではないかとも考えられています。晋作が筑前を去った後に望東尼と会ったのは姫島を脱獄して入江和作宅に病床の高杉晋作を訪れた時になります。

 高杉辞世の句「おもしろきこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり」誰しもが高杉の辞世の句だと思っているこの句は実は野村望東尼が以前作った句でいつの間にか高杉晋作辞世の句として定着してると言う研究者もいます。


 高杉晋作と野村望東尼は平尾山荘でどこまで親しく交流したのか・・結局のところ定かではありません、本宅に高杉が望東尼を尋ねて来たのかこれも定かではありません。伝記を書く人により見解が違います。山荘に隠れてはいたが、望東尼と晋作は下関で始めて会った?山荘で交流はあり山路すが子なる望東尼の侍女も歌を披露した?

 後世の浮世絵によるイメージ、妖艶な望東尼が晋作を山荘に向かい入れる場面。

こちらの山荘で悠々自適とならなかったのは病弱だった事とは別に、息子(引退後の当主)が江戸勤務になり心身を患い帰福後自刃して取り潰しの憂き目にあいました。その後は孫を当主にたてお家は再興します。孫の後見人となり政治の向きも関わらざるを得なくなります。長州征伐後、高杉晋作が平尾山荘に潜伏してここから望東尼の自宅を訪ねた可能性はあるともないとも言えません。

 望東尼は姫島に流罪になりますが、高杉晋作の手配で脱獄し下関の白石正一郎宅に匿われます、高杉晋作は入江和作宅にて療養中で面会したのは後日になりました。

 私は晋作の筑前亡命に思いを馳せながら、望東尼が得度してお墓がある明光寺に行きました。


野村望東尼 1806年10月17日~1867年12月1日

 今一度になりますが、野村望東尼の勤皇活動を始めてから略歴としては1861に大坂、京都に行き本人は、見物や歌の本の出版、師の大隈言道と再会することが目的でしたが歌の会や勤皇商人馬場文英に出会う事で必然的に勤皇歌人として活動を始めました。女流歌人として和歌を通じて交流し人脈を増やしていきます。具体的な活動内容は福岡と京阪の情報のやり取り、志士の住まいの手配や同士の紹介、山荘を志士に貸したり食事を提供したりする。乙丑の獄に連座して姫島に流されるが高杉晋作の手配で脱獄し下関に逃れる。高杉晋作を看取り、数か月後三田尻にて亡くなる。







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