第9話 黒田長政 腹立てずの会の謎

 黒田長政は福岡城築城から間もなく信頼のおける家臣を集めて釈迦の間で忌憚のない意見交換会を行いました。それについては貝原益軒の編纂した。黒田家譜に記載があります。黒田家譜は1688年に完成した福岡藩の正史ですが、三代藩主黒田光之の時代に編纂されていて長政が、亡くなって65年は経ってますので不確かな記事もあります。貝原益軒は黒田家譜以外にも筑前續風土記を書いていて郷土史を研究する基礎となっています。


黒田家譜巻之十五 長政遺事より抜粋

 「長政平生異見会として、毎月一度づつ本丸釈迦の間(此書院今に在り、釈迦の像は禅月大師筆、圓鏡国師の賛この一幅も今にあり)に釈迦の像をかけ、夜ばなしを催し給ふ」


 まずは釈迦の間がどこにあったかと言いますと本丸の絵図面があれば説明しやすいのですが、本丸の縄張りのほぼ真ん中あたりが中庭になっいて御神木松があります。その東南のあたりにあります。(近況ノート①で確認してください)


 黄色マーカーの部分の釈迦の間は本丸御殿の儀礼・政務を司るゾーンと長政公の居間・住居のゾーンの中間位にあります。ちなみに二代目忠之は三の丸に御殿を造営して移り住み政務もそこで執りました。また三代目治之はさらに三の丸の西側に御殿を建てました。


 釈迦の間の由来はわかりませんが、釈迦の掛軸が一幅かけられていました、その掛軸はもう現存してないだろうと思っていましたがネットで探してみるとなんと簡単に見つかりました。


釈迦像 福岡市博物館蔵

作 (伝)禅月大師貫休(832-912)  賛 春屋宗園(1529-1611)

明時代14世紀

絹本墨画

104.9cm×69.5cm


 掛軸として一般の家の床の間に飾っても小さめのサイズ、絵は禅月大師貫休については唐末五代の禅僧ですが福岡博物館の解説にはこの絵は明時代となっています。つまり貝原益軒は伝え聞いた伝承のまま貫休作として記録しましたが、本当は明時代の誰かの筆で、賛については春屋宗園(しゅんおくそうえん)でまちがいないのでしょう。長政公は黒田如水の菩提の為に春屋宗園を開祖として大徳寺龍光院を建立しました。この春屋宗園とその後継者である江月宗玩が長政公の参禅の師となっています。長政は如水を遺言によりキリシタンとして埋葬した後に龍光院を建立したり、崇福寺で仏式の葬儀をしたり謎の行動をしています。


 この釈迦の絵はだいぶ日に焼けて見えづらいのですが、この掛幅の右上に短めに宗園の賛が入れられています。考えうるに長政公が貫休作と伝えられる掛幅を入手して、宗園の賛を入れて異見会をするときに釈迦に誓って約束事は遵守するようにしたのではないでしょうか。この家臣との意見交換会は別名「腹立てずの会」と呼ばれて、6代藩主継高公や9第藩主斉高公の時に断続的に行われました。もし二代藩主の黒田忠之公の時に実施されていたら「腹立てるの会」になっていたかもしれません。信じるか信じないかはあなた次第です。次回は博多文林に関する謎を考え中です。

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