第8話 平尾山荘 高杉晋作と西郷隆盛会見の謎

 1864年高杉晋作は中村円太に導かれ筑前に亡命します。佐賀藩、福岡藩、長州藩を大同団結するために、まず博多の勤王商人石蔵卯平宅で月形洗蔵や鷹取養巴と協議して、対馬藩の鳥栖にある飛び地、田代領に行きます。交渉は断念して博多に引き返し、次に野村望東尼の山荘に身を隠します。


 ここで高杉は野村望東尼達と交流を持ちますが、江島茂逸の高杉晋作略伝入筑始末では西郷隆盛と高杉晋作がここで面会を果たし意気投合し薩長同盟の始めとなったとしています。西郷はこの時期は、征長軍総督の徳川慶勝より征長軍参謀を拝命しています。長州に寛大な処分で和平交渉を進めている時期に正義派の亡命中の高杉と会見したのかどうか疑わしいところです。


明治26年 江島茂逸 高杉晋作略伝入筑始末より抜粋

 薩藩の士西郷吉之助はこの年十月に福岡に来たりしがその当時において月形・早川は長州との和解の事を説き試みしに元より異議なしとの答えを以て帰藩せしが又この頃西郷は再び福岡に来たりてしきりに国事を謀りつつありければ月形・鷹取は之を機として数々西郷に面会しついに同氏を誘うて高杉が平尾の山荘に案内したり、高杉は始め薩人に面会する事をしいて否めしも、後には心解けて西郷に会合したり、この時望東尼の歌に

 

 くれないの大和にしきもいろいろの糸まじえねば綾はおられず。

 西郷が即席において望東尼に贈りし詩あり

   奉贈比丘尼

 鴿驚雄戛々聲頻呼朋友勵忠貞翕然器量邦家寳最仰尊攘萬古名

(右詩一幅は望東の跡継ぎ野村小太郎之を秘蔵す。)


 この日はあたかも朗晴の秋天にして望東尼の山荘を囲繞(いじょう/取り囲む)する樹木の霜葉(そうよう)は紅を染め古松(こしょう)の青色(せいしょく)と入り交じりて天然画の如き麗色を添へ山林の風色坐過(ふうしょくざか)するに堪へざりければ、西郷・高杉及びその他の人々は共に環坐談笑(かんざだんしょう)に時を移せしも、イザ近野に逍遥(しょうよう/ぶらぶら歩く)して野興の趣味を試みんとて一同望東尼の山荘を出て獲物の松茸を下物(かぶつ/つまみ)として林間に酒を温め閑歩閑吟(かんぽかんぎん)の間に時事をも交えて談じつつ互いに心を郊外の清遊に養いたり。


 この時高杉は西郷を顧み「足下は久しく孤島の獄に在られしと聞きしが、足下の健歩かくの如きは実に驚き入りたり」との言を聞きて、西郷は笑いながらに「島よりして帰りしときは心のみ馳せしも腰は立ち得ざりしがこの両足こそ大切なる商売道具の随一なれば篤く自ら養生してほとんど旧に復したり」とて互いに獄に在りしなどを語り月形・鷹取も三年間牢内にありし苦しみを話などためして殆ど夕日の西山に落つるを忘るるに至れり


 この日は各詩歌の秀詠などもありし由なれども今散逸して伝わらず。誠に惜しむべき哉。その後高杉は「痛く西郷に密会したることを秘しくれよ」とのことを申せしに「この会合の秘密は勿論、我々が先生に会する事も世に知られては一大事なり、しかし今日の秘密は他日公然の種子なるべし」とて鷹取は高杉に答えたりとぞ。


 江島茂逸は福岡藩士族で、なんとか維新のバスに乗り遅れた福岡藩を盛り上げようとしていたフシがあります。坂本龍馬が一人でやったように思われている薩長同盟は月形洗蔵や早川養敬が発案して進めていたとアピールしています。野村望東尼の高杉への献身はこの後の、野村望尼が乙丑の獄において姫島に流島になった時に高杉が救出に動いたり、望東尼が高杉を看病したりして揺るぎない物だと確信できます。これから高杉と西郷の会見は平尾山荘であったのかを検証したいと思います。


明治40年林元武の備忘録より抜粋

 予等速かに皇家の衰退を挽回し王政の復古を達成せんとするに当り、薩長の反目ははなはだ不利なれば、宜しくこれを連合せしめて事を謀るにしかずとなし、まず長の高杉を説くに薩長の連合は策の得たるものなるをもって、すべからく提携すべきを勧告す。時に西郷、吉井、税所等は政長の軍に加わり小倉にあり。幕吏、若江、鍬吉等と軍事を談ぜり。因みてこれを訪ない説くに、大義名分をもってし区々たる私憤私事に国家の大事を誤るなかれと忠告しければ、彼等もこれを諒として予等が説をいれ将来の方策において牒合(ちょうじあわせ・示し合わせる)する所ありたり。


 後ち西郷等が福岡に来たり高杉に面会して相謀る所あり遂に予と共に長に入りまた芸州に赴き尾州老公に説くに国家の時務(じむ・当世の急務)をもってしたるがごときは、実に予等がたすけきに斡旋せるに基因する所なり。この間において高杉等は長の内訌を治め兵備を厳にしかば、幕府討長の軍は危うくも撃破せらる。


 林元武は月形洗蔵と同格の馬廻りの家に生まれて筑前勤王党の同志です。西郷と高杉の会見は肯定しているものの福岡と場所をぼかしています。真実は違うけれども筑前勤王党を顕彰するためにはある程度の誇張はやむを得ないといったところでしょうか。


 ここで高杉晋作の平尾山荘の滞在期間と西郷隆盛の年表と比べてみれば、やはり会見は無かったように思えます。明治16年の坂崎紫瀾の汗血千里駒は土佐の坂本龍馬が人気となり、土佐勤王党も知名度が上がりました。


 また昭和になり司馬遼太郎の「竜馬が行く」で坂本龍馬人気は再度爆発し、私もそうですが歴史小説を史実と勘違いする現象がおきました。つまりは各藩がどれだけ明治維新に貢献したかアピールするには伝記小説をある程度は話を盛って書かざるを得なかったのかも知れません。薩長同盟は福岡藩筑前勤王党が周旋した事を、彼等が乙丑の獄で斬首された後に坂本龍馬や中岡慎太郎が実現させた事は認められています。

 

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