第3話 乙丑の獄 彷徨える囚人 南丸獄舎の謎 

 福岡城は毎年2回櫓の特別公開があります。今年公開された潮見櫓はハイブットな建築方法で復元されています。現代的な基礎工事に江戸時代からの伝統的な工法を駆使して古い部材、瓦や木材をできるかぎり使用しています。その他にも、伝潮見櫓は本当は本丸裏御門の太鼓櫓だったのが、大正時代に福岡藩の重臣の下屋敷三軒の場所に黒田家別邸を建てて武具櫓や太鼓櫓を移築しました。別邸は海際にあり太鼓櫓は海に向かって立っていて誰しも潮見櫓に見えたので福岡城に戻る時も潮見櫓と認識されたそうです。実際に入ってみますと、2階部分は四隅に窓があり、風通しも良く天井も高く太鼓櫓に良さそうな櫓です。


 他には下之橋御門の二層部分の公開、ここは2000年に不審火に遭い半焼しました。江戸時代は二層だったのが明治になり二層部分が失われていましたので、修復時には古い部材も使用して二層部分も再建されました。後は母里太兵衛の長屋門の内部公開もあります。誇大広告ではありませんが、ここは天神にあった母里太兵衛の子孫の長屋門になります。後は多聞櫓も公開になりますが、ここは珍しいのは16部屋に分かれています。1853年~1854年にかけて大幅に改築(建替え)されています。江戸時代より同じ場所に存在する唯一の櫓になります。


 乙丑の獄において斬首や切腹にならず、刑の執行待ちで桝小屋に拘留されていた囚人達は野村望東尼の脱獄で運命が変わります。流島にすると福岡藩脱藩浪士や長州正義派に奪還されるおそれが生じて福岡城内に移送されます。以下は筑前勤王党の林元武の備忘録で原文ままを記載します。場面は桝小屋の獄中です。


 越えて翌年九月十九日午前十時身辺を整うべき命あり。必ず斬首ならんと各自辞世の詩歌を作り死出の準備をなせしが、正午に到り昼食を運び来たりぬ。平素ははなはだ廉悪なりしに比し、美味なりしも食なかばを尽くすあたわず。各自強いて尽くさんことを期し、互いに相励まして食しける。しばらくして予等は縛せられ網乗物にて大土手を経て追廻門に入り(平常入獄者の入る門にあらず)桐木坂門を通り四個の召捕矢櫓に分収せられぬ。この処は厚き板をもって四方を囲い白昼なお暗夜のごとく、食物を差し入れるるの時扉を開くが為、わずかに光線の射入するのみ。


 居ること一年余りなりしが、また南丸の内に七重の板柵をもって囲穣(いじょう・まわりをとりかこむ)したる極めて低き新築獄舎に移され、傍らに牢番役所を置き足軽大勢をもって交番警衛す。これ長州の同志、高杉等が我同志遠島に流竄(りゅうざん・流罪)せられしと聞き兵を遣わし奪いさらんとせしも、いまだ到らざりしがば、野村望東尼の姫島に流滴せらるるを奪い去りたるをもって、予等の流島(島流し)をやめ城下の獄舎に収容し、なお万一を恐れ数次その所在を移したるなり。当時警護のものに厳達せし所を聞くに、もし長州勤王の徒、忍び入り予等を奪いさらんとせば速に焼殺すべし。事、急にしてあたわざれば銃剣をもって斬り殺すべしと、ああ予等の生命は累卵の危うきにおりたり。


林元武の備忘録の南丸の獄舎とは多聞櫓の事ではないかと思います。低く平屋で新築、と言えば多聞櫓はその時点で大幅に改築して10年程しかたっておらず、平屋で高さも低いです。また多聞櫓で16室に別れているのも獄舎として改築したのではと思います。


 また林元武以外の証言もあります。

福岡県史資料8韻 福岡松浦家資料7

水の手の獄舎は三室、南丸は二室にそれぞれ5~8人収容されていました。先の林元武の名前は林泰(はやしゆたか)で出てきますので水の手と南丸に乙丑の獄の獄舎があったのが確定します。


 また松浦家資料には林元武は大島に流罪のはずが野村望東尼の脱獄で南丸に牢居した一同の中に名前があります。南丸二室に海津亦八、尾﨑逸蔵、林泰、徳永玄六郎、野村助作(獄中に死す)



多聞櫓及び潮見櫓、伝潮見櫓、母里太兵衛長屋門、下之橋御門の公開は2025年10月25日より11月3日になります。皆さん行って確かめてみませんか。信じるか信じないかはあなた次第です。

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